「パリの西駅やニューヨークグランドセントラルのように、パブリックアートがあって、ガイドブックに載るような駅にしたかったんです」――。

7月19日、昼間でもどこか陰鬱な空気が漂っていたJR新宿東口駅前広場がリニューアルした。そのセンターにそびえ立つオブジェ花尾』を手掛けたのが、ニューヨークで活躍するアーティスト、松山智一だ。

欧米の美術館や王室も彼の作品をコレクションしていると聞けば、華々しいキャリアを思い浮かべるかもしれない。しかし実は、25歳までアートとは無縁だったという。

アーティスト志望であっても、アートシーンの門は狭い。ましてや欧米の美術界で日本人アーティストはマイノリティだ。そんな環境の中で松山はどうやってそのポジションを掴んだのか。

スノーボーダーとして活躍した学生時代

大学生のときの松山はスノーボーダーだった。

まだオリンピック競技ではなかった時代。スノーボードエクストリームスポーツの色が濃く、大会に出るよりもバックカントリーで滑っていた松山は、目立つ存在だった。

さまざまなスポンサーからサポートを受けて海外遠征をしたり、ギアの提供を受けたり、雑誌の誌面を飾ったこともあった。

「自分の可能性を試したいと大学を1年休学したり、1年のうち9カ月も雪の上にいた年もありました」。

大学3年の正月だった。最終学年を目前に、今年はフルシーズンでスノーボードをやる。そう決めた矢先の1月3日だった。

「足首を折っちゃったんですよ。真逆に曲がっちゃって、複雑骨折。別に派手なトリックを決めたわけでもない。ちょっとしたことだったのに大怪我をしてしまった。エクストリームスポーツって、そういうものなんですよ」。

リハビリには10カ月かかった。結局、このシーズンは丸々棒に振ることになった。

「いつかは大怪我をするんじゃないかという不安があったし、やれたところで30歳までだなとは思っていたんです。だから、これでやめようって思ったのはいいんですけど、実際歩くこともできないので、このあとはどうしようって焦っていました」。

それでもひとつだけ決めていたことがあった。

「いわゆる就職活動はしないってこと。周りの友達は、テレビ局、マスコミから始まって、広告代理店、メーカー……って企業のランクだけで受ける会社を選んで、あたかも『第一志望です』って顔をして、就職活動をしていた。そのときの僕には、それがすごく無目的に人生を追求している気がして、馴染めなかったんです」。

スノーボードに代わって一生懸命できることは何か。出た答えは「ものづくり」だった。

運命を変えたブルックリンのアーティストたち

当時はストリートカルチャーから転身して、ミュージシャンやファッションデザイナーになる人たちがちらほらと出てきた時代だった。

「海外遠征先で、時間ができると絵なんか描いたりしていたので、ものづくりだったら打ち込めるなと思ったんです。ただ、僕、経済学部だったので、実利的なところを見てしまって(笑)。当時は佐藤可士和さんや大貫卓也さんたちが大人気で、代理店のデザイナーがスターだった。だから僕も商業美術を目指そうと思ったんです」。

まずは表現を学ぶため、1年間リハビリを続けながら、夜間の専門学校に通った。持ち前の性格とスノーボード時代の人脈を駆使して、雑誌にイラストを描いたり、スノーボードブランドのボードやウェアのデザインしたり、カタログも作った。だが、代理店の面接を受けてみても、結局はうまくいかなかった。

このとき25歳。デザインをイチから学ぶには遅い出発と言っていいだろう。そこで松山が目をつけたのがニューヨークという土地だった。

「新宿~渋谷間ぐらいの小さなエリアの中に、世界一のメディアがあって、世界一のアーティストがいて、世界一のパフォーマーも、金融も、なんでもある。スノーボードをやっていたときから上昇志向が強かったので、勉強するなら世界一の場所でやりたいと思ったんです」。

松山は選んだのは、NY私立美術大学院プラット・インスティテュー

「プラクティカルな教育を受けて、すごいクリエイティブなことをするぞ!って勢い込んで行ったわけです」。

ところが最初の授業で、その目論見は打ち砕かれる。

「1年の売上表、アニュアルレポートを作るって授業だったんです。スキルを身につければ就職はできるから、みたいな教育。それって僕が日本でしたくなかったことと一緒じゃないかって途方に暮れてしまって……」。

そんなときに出会ったのがブルックリンのアーティストたちだった。

「彼らは、当時最も治安が悪いと言われていたエリアに建つ、映画『ゴースト』に出てくるような巨大な倉庫を借りて作品を制作をしていたんです。貧乏だけど、飯は食えている。お高くとまった美術の世界じゃなくて、等身大のアーティストライフを見てすごくカルチャーショックを受けました」。

松山から見た彼らは輝いていた。こんな人生の選択肢があるのか。僕はこれをやりたい。そう強く思った。

ニューヨークで過ごした1日2ドルの貧乏生活

だけど、どうやったらアーティストになれるのか。その方法が分からない。そもそも、何をしたからなれるという世界でもない。

「まずはやれることからと思って……。キャンバスを買ったこともなかったので、とりあえず画材屋に行って、キャンバスを買ってきました(笑)」。

駆け出し時代の松山。駆け出し時代の松山。

外資系金融会社に就職した大学時代の友人たちは、ニューヨーク研修に訪れると、ミッドタウンの高級マンションに滞在するなど、華々しい生活を送っていた。

同じ大学を出て、同じニューヨークにいながら、松山は1日2ドルの貧乏生活。けれども焦る気持ちはなかった。

「1ドルピザもあったし、お米だけ買っておいて、2ドルのさば缶を2日に分けて食べたりすれば、意外と2ドルでも暮らせる。それにスケーターから転身してアーティストになって、アートで食べていける存在がいることはなんとなく知っていて。歌手に例えるなら、オペラ歌手にはなれないかもしれないけど、ラッパーまでならいけるんじゃないか、そんな気持ちでしたね」。

だが、スノーボーダー時代に少し絵を描いていたとはいえ、創造性はなかった。自分では描けているつもりでいたが、それはいつも誰かの作風のアレンジに過ぎなかった。

ニューヨーク中の美術館を制覇、日本美術との出合い

そこからは学校に通いつつ、自分の作風を探る日々が続いた。

「最初はSTASHKAWSのようなスタイルに憧れたときもありました。ニューヨークらしいですしね。でも、すぐに気付くんですよ。味噌と醤油とかつおぶしで育ってきた俺には違うわ、って(笑)。人のものを借りているだけじゃ、どこにも辿り着けない。アートって新しい新しい価値に遭遇したときの驚きみたいなものが人の心を揺さぶると思うんです。新しいものって何だろう。どこかで見たという残像がある作風は消去していかなきゃいけない。そんなことをずっと考えていました」。

アートについては素人。今までにどんな作品が世に出ているのか。それを知るために、松山はニューヨークのパブリックライブラリーに足繁く通った。

「そこで出合ったのが美術史のDVD。これを見まくりました。例えば、MoMAに行くと、そのときの自分には理解できない作品がいっぱいあるんですよ。ただ真っ白いキャンバスだったり、壁から板が出ているだけだったり。それが素晴らしい作品だと言われても、その凄さが全然わからない。だけど、美術史のDVDを片っ端から見ていくと、だんだんその価値がわかってくるようになるんです」。

貸し出し上限である週7本のDVDを片っ端から借り、数千本あったDVDはすべて攻略した。

「1年経った頃にはめちゃくちゃ美術に詳しくなった(笑)。で、数年後にはアートの全貌を理解していて、母に解説できるようになってやろう、って思ったんです」。

そこから松山はニューヨーク中の美術館制覇へ乗り出す。

「今思うとバカ真面目だなって思いますけど、決めていたことがあって(笑)。その日、新しい発見があるまでその美術館をめぐって、フロア全部を理解するまで通うこと。そうやって今週はメトロポリタンだ、来週はMoMAだ、次はホイットニー美術館だって感じで、同じ美術館に5日連続通うこともありました」。

熱心に通っていた松山だが、ひとつだけ足を向けない場所があった。

「自分は日本人だ。メトロポリタンで日本のセクションなんか行かなくていいだろう。そう思っていたんですよ」。

あるとき中国美術を見るために、初めて日本美術のセクションを通り過ぎた。

「今でも覚えています。伊藤若冲の鶏の絵と浮世絵が並んでいて、そこで衝撃を受けた。デザインに通ずる木版画の視覚的言語、色数は少ないのにビビッドなカラー、世界に通用する日本らしさ。デザインしか勉強していない僕でもこれならできるかもしれない」。

後編に続く。 

text by 林田順子

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