第33回東京国際映画祭の新たな取り組みとしてスタートしたトークシリーズ「アジア交流ラウンジ」。国際交流基金アジアセンターとの共催のもと、アジア各国・地域を代表する映画監督と、日本の第一線で活躍する映画人とが様々なテーマでオンライントークを展開していく。

【写真を見る】ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞受賞の黒沢清監督が感じる、中国映画の強みとは

11月7日に行われた第7回は、最新作『スパイの妻』(公開中)で第77回ヴェネチア国際映画祭の銀獅子賞を受賞した黒沢清監督が登壇。当初の予定では北京からジャ・ジャンクー監督がオンライン登壇し両者の対談が行われる予定だったが、ジャ・ジャンクー監督が体調不良のため急遽不参加に。これまでのジャ・ジャンクー作品でプロデューサーを務めてきた東京フィルメックスの市山尚三ディレクターが代わりに黒沢からの質問に答え、ジャ・ジャンクー作品の魅力や舞台裏について深掘りしていった。

中国映画“第六世代”を代表する監督として知られるジャ・ジャンクー監督は、北京電影学院の卒業制作として制作した『一瞬の夢』(98)で第48回ベルリン国際映画祭新人監督賞をはじめ、世界各地の映画祭で多くの賞を獲得。『長江哀歌』(06)で第63回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を、『罪の手ざわり』(13)では第66回カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞し、三大映画祭すべてで受賞を果たす快挙を達成。今年はコロナ禍で制作した短編映画『来訪』(20)が大きな話題を集め、長編ドキュメンタリー作品『海が青くなるまで泳ぐ』(20)が第21回東京フィルメックスの特別招待作品として上映された。

■「理想的な映画づくり」と黒沢清が驚嘆する、ジャ・ジャンクー映画のロケーションの秘密

黒沢「ジャンクー監督とはいろいろな映画祭で会ったし、日本でもお会いしたことがあります。風邪だということで心配ですけど、今回いくつか聞いてみたいことをメモしてきたので、これが役に立つと思います」

市山「僕にわかることがあれば、代わりにお答えさせていただきます」

黒沢「娯楽映画でもアート系の映画でもここ数年で中国映画のレベルが格段に上がっていると感じます。その最大の理由はロケ場所。撮っている側が、その場所ならおもしろい映画が撮れるという強い確信を持っていると感じることができるからです。そういった場所の多くが、古くもなく新くもない、いわゆる開発途上の場所で、思い返してみれば中国で一貫してそういう場所の映画を撮っているのがジャ・ジャンクー監督なのではないかと。

ジャ・ジャンクー映画のロケ場所も、そしてカメラポジションも、よくこんなところを見つけて、そしてよくこんなとこから撮ったなと驚くべき場所が多々見受けられる。中国にはいくらでもこんな場所があるのかなとも思いつつ、探しに探してたどり着いたのか、それとも場所を先に見つけてから物語が生まれたのか。ジャ・ジャンクー映画とロケ場所の関係をまず教えていただければ」

市山「ジャ・ジャンクーの映画でロケーションは非常に重要な要素です。企画を立てるときには、ストーリーが決まった後にもうロケ場所を探しに行っているので、脚本の第1稿が出来上がったときにはもう主要なロケーションが決まっているぐらいです。とくにロケ場所が作品に大きなインスピレーションを与えた例として挙げるならば、『長江哀歌』でしょう。これはもともと劇映画を撮る予定ではなく、三峡ダムの建設によって沈みゆく町を映したドキュメンタリーを撮るつもりでした。

ところがそこで地方からの労働者のドラマや、さまざまな状況に出会い、即興的にひらめいて劇映画を撮ることになったんです。もちろんいきなりプロの役者さんは呼べないので、奥さんのチャオ・タオや、いとこのハン・サンミンのように、声をかけたらすぐ集まってくれる人を呼んで劇映画にしました。あの場所を見ていなかったらあの映画は作られていなかったと断言できるくらい、ロケ地からインスパイアされた作品です」

黒沢「なんだかそれを聞くと、すごく理想的な映画づくりだと思えます。日本では、それをやりたいと思ってもなかなか難しい状況があります。僕が街を歩いていて、ここで映画を撮りたいと思っても、ほとんどの確率でその場所で撮影をすることは不可能。許可が取れなかったり、すごくお金がかかったり、監督が一方的にここで撮りたいと思っても商業映画の世界では許されない。だから場所から発想することはなかなかできない。中国ではそれが可能なものなんでしょうか?」

市山「北京や上海のように大都市で撮るのは、許可が必要になるので難しいですが、地方で撮るのは日本に比べてだいぶ楽です。とくにジャ・ジャンクー監督は故郷の山西省で撮ることが多く、知人や親戚がたくさんいるのでいろいろな方面に融通が効く。なので初期の頃、活動禁止だった時代(初期3作品は中国当局から上映禁止となり、2004年まで活動も禁止されていた)にも地元の警察からの協力も得られた。中央からのコントロールが効いていなくて、許可とか無許可とかわからないままみんな協力してくれるので、地方なら本当に撮りやすかった時代がかつてはありました」

■『山河ノスタルジア』誕生のきっかけは?「豊かになるほど失われていることも多い」

黒沢「もうひとつ気になるのが、80年代とか2000年代のちょっと古い時代設定という部分。これも日本ではものすごく大変で、ちょっと古く見える場所があまりないのでかなり面倒な作業になる。日本人からすると、中国の“ちょっと古い”がすぐにはわからないですが、ジャ・ジャンクー監督はそのような少し時代がかってる物語をあえて選んで見せるために、どのぐらい苦労をされているのでしょうか?」

市山「『山河ノスタルジア』と『帰れない二人』は、両方とも2000年ぐらいの時期から現代に至る、前者は近未来にまで至る物語が展開します。かなり長い時間に渡るので、やはりいろいろな苦労がありましたが、なによりありがたかったのは、北京や上海のように急速に発展した場所ではなく山西省の物語だったので、本当に変わらないところがいくつも残っていたことです。『山河ノスタルジア』のなかで、ある商店街が出てきますが、ここは80年代からなにもかわっていない。

たとえば電化製品のような小道具はさすがに当時のものを集めて持ち込んで撮影しましたけど、ロケ場所自体はなにも変える必要がなかった。ほかにもディスコが出てきましたが、ここも昔使われていて潰れてしまった店が、誰も使わずにそのまま残っているんです。新しいディスコが近くにできても、古いものはそのまま残っているので、少し装飾を施すだけで2000年当時のディスコが復活するわけです。日本ではあまり考えられないことですよね」

黒沢「古い場所が残っているとはいえ、それでも少し昔の時代設定にするのはやはり手間がかかるように思えます。しかもそれを三つの時代に分けたりして現代までの物語を取り上げていく。中国の近代史と言いますか、この数閏年はかなり激動の時代だったと思いますが、ジャ・ジャンクー監督は近代史に興味があるから開発中のような場所に興味を示されているのでしょうか?」

市山「ジャンクーが映画を撮り始めた97年ごろから、中郷は恐るべき変化を遂げたと言ってもいいでしょう。経済的にも大発展して、それを彼は映画を撮りながら目の当たりにしてきた。『山河ノスタルジア』を撮る前に制作された、ウォルター・サレス監督のドキュメンタリー映画『ジャ・ジャンクー、フェンヤンの子』のなかのインタビューで、『中国はこの20年でものすごく豊かになった。『プラットホーム』や『世界』に出ていた若者たちがいまの中国を見て、はたして彼らが理想としたものなのだろうか疑問に思う』と語っていました。豊かになるほど失われていることも多い。それが『山河ノスタルジア』に向かわせたひとつの要因だと思います。

プラットホーム』を撮る前、活動禁止処分中に1年かけて脚本を書きながら、彼はカメラマンと一緒にいろいろな映像を撮っていたのですが、それをアーカイブとして残していて、改めて観直していたら『これは使える』と思ったようで、『山河ノスタルジア』には2000年当時の映像がかなり出てくるんです。そのフッテージを映画に取り入れることが前提のように脚本が書かれているほど制作の役に立っていて、同じような考えで作ったのが『帰れない二人』でもあります」

黒沢「『帰れない二人』の最初の方で主人公たちが踊ってるところがありますが、そこでちょっと違う種類の踊りを踊ってる人たちが映ってたりしてましたが」

市山「あれは『青の稲妻』のフッテージですね。2002年ごろに撮られたものです」

■ジャ・ジャンクー映画は80年代香港映画からの影響が!?

黒沢「物語についても聞いてみたいのですが、特に近年の作品では非常に独特な映画であると同時に、骨格になるのは1組の男女が出会ったり別れたりをする。とてもシンプルなメロドラマの構造で、ある種のジャンル映画と言ってもいいでしょう。このように一般の人たちにわかりやすい物語の構造をあえて選ぶのはキャリアを重ねていくうちに自然となっていたものなのか、それともなにかのきっかけで取り入れようとしたのか。どのような経緯だったのでしょうか?」

市山「おそらく最初にジャンル映画的なことをやったのは『罪の手ざわり』の最初の物語ですね。本当にジャンル的なもので、カンヌで上映したときには海外のジャーナリストたちが驚き、『これはオフィス北野の製作だからですか?』と聞かれていました(笑)。ジャンクーは香港のギャング映画の大ファンでして、最初に撮った『一瞬の夢』の時にも映画館のシーンでジョン・ウー監督の『狼 男たちの挽歌・最終章』の音声が流れるくらい。

『帰れない二人』では地方のチンピラが主人公で、抗争しているという設定からメロドラマへと展開していきますが、それはまさに香港映画、とりわけ80年代ジョン・ウー監督の映画から影響を受けているとみて間違いないでしょう。『罪の手ざわり』では香港からアクション監督を招いて伝統的な撮影方法をとりましたが、『帰れない二人』で車を囲まれるシーンでは、監督が自分で振りを付けながら、よりリアルなものを目指してやっていましたね」

黒沢「ジャンクー監督は今後、そういった方向に進んで行こうと考えていらっしゃるのでしょうか?それともいままで通り作品の一部に留めておこうとしているのか。つまり、中国ではいま完全なアクション映画も作られていますし、香港やハリウッドでも撮ってみたいという欲望もあるのか気になっています」

市山「実はそういう企画が待機作の中にもあって、『罪の手ざわり』の前に『在清朝』という作品を撮るということが中国では大々的に発表されていました。結局キャスティングがうまく決まらずに中止になってしまったのですが、監督自身はまだやめるといっていないので、いつかは撮る可能性があります。

ニコラス・レイ監督の『北京の55日』でも描かれた愛国的に排斥主義を掲げる義和団の若者たちを描いた武侠映画なのですが、元々ジョニー・トーが香港のスポンサーに頼まれてジャ・ジャンクーにコンタクトを取って準備を進めていました。構としては娯楽映画で、でも内容的には武術を訓練するけどそれが役に立たないと気付き、時代の流れに飲み込まれていく若者が描かれるという、非常にジャ・ジャンクー的な題材になるといわれていました」

黒沢「ジョニー・トーの名前が出たので思い出したのですが、10数年前に香港映画祭でジャ・ジャンクーと会った時に、ジョニー・トーが開いたパーティーに誘われて行ったんです。その時初めてジョニー・トーに会ったのですが、行くやいなや僕とジャンクーに強烈なハグをしてきて(笑)。たぶん側から見たら僕とジャ・ジャンクーがジョニー・トーの舎弟に見えるなと思いましたね(笑)」

市山「僕もジャ・ジャンクーが『長江哀歌』を提げてフィルメックスに来た年に、ジョニー・トーも『エレクション』で来てまして、オープニングの後にジャンクーとチャオ・タオと一緒にレストランに呼ばれたんです。そしたらその後香港の新聞に『ジョニー・トーがジャ・ジャンクーとチャオ・タオ、オフィス北野のプロデューサーにごちそうした』というのが出ててなんだこれはと(笑)」

■「若い人たちが映画というものに情熱を持って押しかけてくることがうらやましい」(黒沢清)

市山「このトークをご覧になってるから質問が届いているのですが、黒沢監督は中国で撮影してみたいと思いますか?」

黒沢「中国は何度か行ったことがありますが、こんな施設が残ってるんだとびっくりしているとすぐ横に近代的なビルが建っていたり、とてもおもしろい場所で惹かれますね。こういう場所で映画を撮ったらおもしろいだろうなと素直に感じたりはしますが、ただジャ・ジャンクーが先行していろいろ撮っていますから、僕が独自に中国でなにを撮るのかは考え込んでしまいますね。いますぐやりたいものは言えませんけど、でも日本と中国の関係についての映画を撮ってみたいな。何年か前に、日本と中国を舞台にした『1905』という作品を撮ろうとして、途中で中断してしまったことがありました」

市山「もうひとつ。ジャ・ジャンクー監督は山西省で平遥国際映画祭という映画祭を創設しましたが、黒沢監督は映画祭の運営には興味はないのでしょうかと」

黒沢「映画祭というものには興味がありますし大好きなので、参加する時はいつも心が踊るのですが、運営となりますと…市山さんを見ていると大変だなと。自分が選んだ好きな映画がたくさん上映されているにもかかわらず、その上映の場よりもゲストの到着とか大変なことに追われて、とても運営には携われないなというのが本音ですね。逆にジャンクー監督は映画祭を立ち上げて、若手の育成のためなど理由はあるのでしょうが、どのような経緯でそんな大変なことをはじめたのでしょうか?」

市山「発端はわからないのですが、中国では外国映画の輸入制限や検閲がある関係で、ヨーロッパ映画やアート映画を観る機会が非常に限られています。それらを中国の人に観せなきゃいけない、映画を志す人たちに学んでもらいたいと考えているのではないかと思います。実際に行ってみると、北京や上海からわざわざ観にきた若い人がたくさんいて、すごい熱量を感じるんです。その渇望感が映画祭を始めた理由なのでしょう」

黒沢「なるほどなと思いつつ、うらやましいですね。若い人たちが映画というものに情熱を持って押しかけてくる。韓国の釜山に行っても感じますね。本当に若い人たちが、若い人が好きそうな映画を観ているのではなく、映画そのものが好きで、これまで観たことのないような映画がここに来れば見れると真剣に集まっている。本当にうらやましいことです」

取材・文/久保田 和馬

東京国際映画祭「アジア交流ラウンジ」に黒沢清監督が登壇!