河野太郎行革大臣を中心に打ち出された「脱ハンコ」。政府は今後、行政手続きなども押印を廃止する方針だ。昨今は新型コロナウイルス感染拡大に伴い、多くの企業でテレワークが推進されていたが、重要書類にハンコを押すためだけに出社しなければならない“ハンコ出社”が話題を呼び、巷でも不要論を唱える人が多かった。

 そんななか、古くから店を営んできた「街のハンコ屋」は……。

◆廃業を決めた「街のハンコ屋」

「孫がね、じいじの仕事はもういらないんでしょ? って言うんですよ。これはキツかったし、情けなかった」

 埼玉県内でハンコ店を営む吉田隆さん(仮名・70代)はこう言って作り笑顔を見せたが、声は震えていた。父親の代からハンコ店を営み、店の歴史は40年近く。吉田さんが継いでからも20年が経過していた。

「元は勤めていたけどね、不景気から早期退職してさ。最初はこんな仕事嫌だと思っていたけど、技術がいるの。ハンコ以外にも名刺つくったり、年賀状とか暑中見舞いの印刷とかさ。地元密着型で楽しい仕事なのよ」(吉田さん、以下同)

 しかし、この10年ほどで店の売り上げは半減。特にこの3年ほどは、以前の3割にも満たない。

「若い人はさ、暑中見舞いなんか書かないでしょう? 年賀状だって書く人は減ってる。携帯電話が普及してからは、みんなやりとりは全部メールだもんね。ハンコだってさ、家庭用のやつは5年に一本だって買わないでしょ」

◆名刺の作成でつないでいたが…

 そんな中、なんとか食えてきたのは得意先からの「名刺の発注」が途絶えなかったことだ。とはいえ、その名刺の売り上げも、ほとんど「ネット」に持っていかれた。

「若い人が名刺をつくりに来て、大体これくらいの金額ですねって言うと怒っちゃう。ボッタクリみたいに言われてね。ネットのオンデマンド印刷だと、下手したらうちの半額以下でいけちゃうの。そりゃ、大きな工場でグワーッて一気にやるから、安くはできるんでしょう?

 でも、紙質やフォントとかを客と相談しながら決めてね、商売も軌道に乗ってきたから、もっと見栄えの良いものにしようなんて話で盛り上がってさ、そういうやりとりが楽しかったのよ」

◆「脱ハンコ」の風潮に怒りの声

 そして、吉田さんに追い討ち、というより「とどめ」を刺したのが、今般の「脱ハンコ」の風潮である。

政治家さんたちが、一気にハンコなんかいらないって言い出したでしょ。もうびっくりしたよね。あんな言い方したら、仕事が進まないのも、遅くなるのも全てハンコのせいだ、って思う人いるでしょ?

 実際そう勘違いしちゃっている人もいるよ? おまけテレビ局やら新聞社が店にやってきて『どうですか?』なんて。全く、俺が何したのよ」

 元々、売り上げもほとんどなかったことから、店を続けようか迷っていたところではあった。しかし、孫のひと言「じいじの仕事はもういらないんでしょ?」で、あっけなく廃業を決めたのだった――。

◆自分たちが「いらない」と言われている気分

 怒りに震える同業者もいる。東京都内のハンコ店経営・早川雄二さん(仮名・60代)がこう話す。

「馬鹿にしている。私らにはこの仕事しかないんですよ。役所で押印が廃止されるというのは、役所が決めたことだから仕方がない。ただ、政治家がハンコはいらない、無駄だと言い続ければ、我々までもが『いらない』と言われているような気分」(早川さん)

「ハンコ」がなくなれば、仕事が早く進む、無駄が削られる、という論調があるが、果たして本当にそうなのだろうか。ハンコをなくすことで、できなかった何かが「魔法のように」すぐにできるようになるというワケではない。

 しかしながら、脱ハンコによってコスト削減や経済効果が見込まれると叫ばれるなかで、彼らのようにひっそりと消えゆく人々もいるのだ。<取材・文/森原ドンタコス