ヘタリア 公式サイトより

 10月末、アニメ『ヘタリア World★Stars』2021年春より「再始動」することが発表された。アニメヘタリア』は、2009年から2015年にかけて合計6期がつくられており、2021年から始まるとされる新シリーズは、6年ぶり7期目となる。放映はいずれもネット配信を主としており、地上波では放映されていない。

 アニメヘタリア』は、日丸屋秀和による漫画『Axis powers ヘタリア』を原作としている。2006年に個人サイトのweb漫画として発信された同作は、2008年に商業化され、2014年以降は『ヘタリア WorldStars』が「少年ジャンプ+」において連載中である。

 6期の放映から期間を置いてのアニメ新作の発表は、昔からのファンを活気づかせた。しかし同時に、このコンテンツを「再始動」させることに対する戸惑いや不安を表明するファンもいた。『ヘタリア』の評価は、ファンも含めて二分されているといえる。いったい、何が問題とされているのか。

◆国際関係のアネクドートに含まれる差別
 『ヘタリア』のタイトルの由来は、インターネットの軍事史コミュニティを発祥とする。そこではイタリア軍は歴史的に(特に第二次世界大戦)「弱い」とされており、「へたれイタリアヘタリア」として揶揄されていた。本作はそれを逆手に取り、「ヘタリア」を愛すべきキャラクターとして擬人化し、同じ枢軸国であるドイツや日本など、同じく擬人化された様々な国々との関係を物語にしている。

 物語のネタ元は、それぞれの国の歴史・風土・民族・文化などに関するアネクドートやエスニックジョークだ。それらの多くは他愛のない冗談なのだが、ときには笑って済ますことのできない偏見や差別も含まれている。

 アニメヘタリア』には擬人化された韓国は登場しない。しかし原作には登場している。そのキャラクターは、日本に嫌がらせしながら日本を気にかけて仕方がないとか、あらゆるものを自分の起源にしてしまうといった、日本のネットの「嫌韓」文化を色濃く反映してしまっている。

 本国からの抗議によりこのキャラクターは抹消されてしまったのだが、登場させなければよいというものではない。そもそもなぜ、このような露骨な「嫌韓コンテンツ」を日本の「オタク」は受容してしまったのか。そしてなぜ出版社が商業化してしまったのか。そうした点についても反省的に考察しなければならないだろう。

◆戦争や植民地主義をネタ化することの問題
 『ヘタリア』の原作タイトルはそもそも「Axis powers」であり、第二次世界大戦ネタを発祥としている。しかし周知のように、日本も含めいまだ十分な戦争責任を果たせていない状況下にあって、「枢軸国」3国をメインキャラクターとしたコメディは、はたして成立するのだろうか。

 戦争や植民地の問題は、国際関係において、「許した」としても「忘れない」傷を負わせる出来事である。それを擬人化されたキャラクターの日常的人間関係、あるいは「BL」的関係に還元することは、そうした記憶の矮小化ではないか。居酒屋ジョークとしてなら成り立っていても、広く公衆を集める商業コンテンツとしてはどうなのか。

 韓国では上述の差別的擬人化の問題に加え、植民地の問題を旧宗主国側がエンターテイメント化することについて国会でも取り上げられる事態となった。『ヘタリア』のアニメネット配信を中心としており地上波で放映されていないのは、こうした事情も背景にある。

◆国家の擬人化による世界の単純化の問題
 このような問題は、そもそもの根底にある「国家の擬人化」への疑念につながる。国家を擬人化するという発想は、歴史的には珍しくはない。たとえば19世紀には、イギリスを女神ブリタニアドイツを女神ゲルマニアフランスを女神マリアンヌとするような擬人化が各国でみられた。こうした擬人化は国民統合という目的があったが、さらにある種の市民道徳の理想を、女神のキャラクターの中に象徴させていた。

 『ヘタリア』の擬人化は、こうした国民国家形成期のナショナリズムとはとりあえず断絶しているといえるが、国民国家という(あるいは国民国家を前提とする地域や歴史上の国家)、いわばフィクションの体系を所与のものとした擬人化は、現実の世界を極度に単純化してしまう。エンターテイメントは学術上の厳密性に従う義務はない。しかしエンターテイメントによって物語化され単純化された視線が現実の世界をみる視線に関係しないともいえない。そうでないからこそ、国民国家はその統合のために象徴的なものを求め続ける。擬人化された国家だけではなく、国旗や国歌、あるいは君主といったものも、均質的な国民という擬制を人々に刻印するための物語なのだ。

 だが、こうした世界の単純化は、現代では綻びを隠せない。国家を擬人化するということは、国家の中から一人の代表を決めるということではなく、国家を分割できない単一体として表象することだ。そうなると、たとえば『ヘタリア』においてアメリカが白人男性として擬人化されていることについては違和感が持たれる。これが国家の代表ならば、言い訳も効くだろう。もしアメリカ大統領アメリカの代表だと考えると、たまたまトランプバイデンのような白人男性が就くこともあるが、オバマのような黒人大統領の場合もありうるし、おそらく近いうちに女性大統領も誕生するだろう。

 ところが、アメリカという国家全体を白人男性として擬人化することになると、BLMや大統領選挙においてこれだけエスニシティの問題がクローズアップされている時代に、いったい何をやっているのかという話になる。もちろん、これはアメリカというキャラクターの肌の色を塗り替えれば解決する問題ではない。国家の擬人化というコンセプト自体が、アメリカだけではなく、ヨーロッパ諸国も、東アジアやその他の世界も、多文化的に変容している現実(そうした現実を政治的に認めない政府や人々もいるにせよ)において破綻しているのだ。最近の『ヘタリア』は、歴史ネタは避け、現代における文化や「国民性」のネタに傾注しているとされるが、そうであるならばなおさらだ。

◆国家に意志はあるか
 国家には固有の利害があり、国家はそれを維持したり拡大したりするための意志を持つという国家理性のイデオロギーは、マキャベリ以降の政治史を支配してきた。現代でも、我々はついそのように考えがちだ。たとえば国際関係のニュースを見て、「アメリカの意図は~」とか「中国の意図は~」などといって、あれこれ論じあったりする。

 しかし、国家の領域内には人々の多様な意志がある以上、国家それ自体を何か一つの生物のように見立てて、その意志こそが国家の意志であるかのように語ってしまうのは、一面的な視点にすぎない。「地政学」などという言葉を用いながら、通俗的に国際政治を語ることの問題点のひとつもここにある。

 擬人化された国家の関係において歴史を語ることは、歴史を、乱暴に細部を削ぎ落して概略化してしまうことが問題なのではない。国家の視点から歴史を語ることが無意識的な前提となっていることが問題なのだ。

コンテンツとの向き合い方
 擬人化されたコンテンツキャラクターにはそれぞれ魅力がある。自分が好きになってしまったキャラクターがいる作品が、実は差別的であったと後で分かってしまったとき、それでも切り捨てることは難しいかもしれない。

 しかし、だからといってその作品を無批判に受け入れる態度をとることも望ましいとはいえない。コンテンツの問題を批判しながら受容するという態度がファンには必要なのではないだろうか。

<文/藤崎剛人>

【藤崎剛人】
ふじさきまさと●非常勤講師&ブロガー。ドイツ思想史/公法学。ブログ過ぎ去ろうとしない過去 notehokusyu Twitter ID:@hokusyu82

ヘタリア 公式サイトより