官邸による検察庁への人事介入の全貌を描き出した『安倍・菅政権vs.検察庁 暗闘のクロニクル』が11月25日発売された。著者の村山治氏は、数々のスクープを放った検察取材の第一人者だ。本書には「菅政権による学術会議への人事介入」、「『桜を見る会』問題への検察の捜査」という、今、世間を騒がせている2つの“事件”を紐解くうえで重要な新事実がいくつも書かれている。今回は、本書の序章よりその一部を転載する。

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弱り目に祟り目というべきか

 安倍政権の終わりの始まりだった。黒川(弘務)が懲戒処分でなく訓告となり、5900万円の退職金を受け取ったことを野党は、不当だとして政権を追及。さらに検察庁法改正案を同じ内容で再提出しないよう安倍を攻め立てた。どうにか、乗り切って6月17日、通常国会閉会にこぎつけたが、翌18日には、安倍の側近の前法相の河井と妻の案里が、先に触れた2019年7月の参院選をめぐる公選法違反(買収)容疑で東京地検特捜部に逮捕された。

 弱り目に祟り目というべきか。安倍は6月の定期健診で主治医から持病の潰瘍性大腸炎の再発の兆候が見られると指摘を受けた。7月中頃から体調が悪化し、8月上旬には再発が確認された。安倍は13年前の第1次政権でもこの病気の悪化で首相を辞職していた。

 そして8月28日、「体力が万全でない中、大切な政治判断を誤ること、結果を出さないことがあってはならない。国民の負託に自信を持って応えられる状態でなくなった以上、総理大臣の地位にあり続けるべきではないと判断した」として辞職を表明。後任の自民党総裁には、官房長官の菅が選出された。菅は9月16日、国会で首班指名を受け、首相に就任した。

 元をたどれば、一人の女性が始めた「オンラインデモ」。それが、安倍政権の重要法案だった検察庁法改正案を潰し、安倍を退陣にまで追い込んだ。デジタル時代を象徴するようなドラマチックな展開だった。

「騒動」の本質と背景

 一連の騒動は、「検察人事の政治からの独立」と「検察に対する民主的チェック」のバランスをどう取るか、という重い課題を浮上させた。

 戦後制定された検察庁法は、個別の事件について捜査現場に対する法相の指揮権を認めず、検事の定年を明記するなど人事権の行使に一定の制約を加え、検察の独立に配慮しているが、制度上、検察幹部の任命は内閣(政治家)の専権事項となっている。

 政治の側は、その人事権や一般的な指揮・監督権を背景に、政界事件が起きると、捜査にあれこれ注文をつけ、あるいは首脳の交代期には人事に口を挟もうとしてきた。

 そうした中、政治腐敗を許さない国民の意を体した報道機関や野党は、それらの動きを厳しく監視。法務省は世論を背景に、法務・検察幹部の人事で波風が立たないよう周到な根回しをし、時の政権も概ね、法務・検察の人事については謙抑的な姿勢を貫いてきた。

 検察は国民の信頼を基盤として成り立つ組織だ。この「国民の信頼」がキーワードとなる。国民の強い信頼があれば、法務・検察は、政治の側が人事などで無理難題を言ってきても、拒絶することができる。逆に、信頼が希薄になると、強く出られなくなる。

大蔵省は国民の信頼を失った

 敗戦後から昭和末期までの日本の社会・経済システムは、自民党の長期政権のもと大蔵省を中心とする官僚機構を核とした護送船団方式で運営されてきた。そこでの検察の使命は、官僚機構に介入して利権を貪ろうとする政治家からその機構を守ることだった。つまり、政界汚職の摘発だ。間欠的であれ、それを果たしていれば、国民は検察を信頼し、応援団でいてくれた。その象徴が首相の犯罪を暴いた1976年ロッキード事件の摘発だった。田中が上告中に亡くなるまで、17年近く法廷で元首相側と死闘を繰り広げた検察に対し、世論は熱いエールを送った。

 しかし、バブル崩壊にともなう金融機関の不良債権処理をめぐる失政で、大蔵省は国民の信頼を失った。世論に背中を押された検察は98年、金融機関からの接待汚職で大蔵官僚を摘発。守るべき官僚機構にメスを入れ、護送船団体制にとどめを刺した。

 大蔵省の失墜で、官僚機構は力を失った。その官僚機構の一部である検察も無事ではすまなかった。2002年、情報提供者への謝礼に充てるべき検察の調査活動費を、検察幹部らが流用していた疑惑を告発しようとした大阪高検公安部長を、大阪地検特捜部が微罪で逮捕すると、「臭いものに蓋をするため検察権を使ったのではないか」と国民の不信を買った。

 そして、10年、厚生労働省局長の村木厚子(その後、事務次官)の無罪事件の捜査をめぐり、大阪地検特捜部の主任検事が調書と齟齬をきたす押収証拠の改竄に手を染めていたことが発覚。元特捜部長ら3人が逮捕された。検察は、世論の批判を受けて意気消沈し、萎縮した。国民が期待する政治腐敗の摘発から遠ざかり、国民の信頼を完全に失った。

 その後、法務・検察は、信頼回復のため、黒川や林(真琴)が中心となって抜本的な組織改革と捜査モデルの転換に着手するが、政治の協力なしでは法案ひとつ通せなかった。そして、12年暮れ、「政治主導」を強調し、各省庁幹部に対する人事グリップに意欲を燃やす第2次安倍政権が登場する

政権と検察の関係は?

 そもそも、今回の「黒川・林騒動」は、2016年9月の法務事務次官人事が発端だった。当時の法務・検察首脳らは、刑事局長だった林を3代先の検事総長にする方針を固め、同年夏に法務事務次官だった稲田(伸夫)が、林をその登竜門でもある事務次官に起用する人事案を官邸に示した。ところが、官邸はそれを拒否し、官房長の黒川の次官起用を求めた。官房長官の菅らは重要法案の根回しなどで政権運営に貢献した黒川を高く評価していたのだ。

 法務・検察は、稲田と官邸側との折衝で「1年後には林を次官にする」との感触を官邸から得られたとして菅らの意向を受け入れ、黒川を事務次官に起用した。法務・検察は、大阪地検特捜部の不祥事を受けた組織整備と手続き改革にようやく道筋をつけ、現場のテコ入れに取り掛かるところだった。本格的な政界事件の摘発は絶えており、16年当時の検察には官邸を押し返す力はなかったのだ。

 結局、官邸は林を次官にしないまま18年1月、検察序列ナンバー4の名古屋高検検事長に転出させ、黒川を19年1月、検察ナンバー2の東京高検検事長に起用した。

 政治と検察の舞台裏に詳しい元検察首脳は、黒川の検事総長含みの勤務延長が決まった直後、安倍政権について「特異な体質の政権だ。法務省が何を言っても、聞く耳をもたなかった。いずれ毒が回る」と評した。その予言は的中し、安倍は任期を残して政権を放棄した。

名実ともに表裏の権力を握った菅

 安倍は去り、最高権力の座は、官邸の裏方を取り仕切った菅が引き継いだ。菅は官房長官として配下の官房副長官兼内閣人事局長の杉田和博とともに、7年8カ月続いた第2次安倍政権で検察人事について強い影響力を持っていた。2人は一連の騒動の政界側の影の「主役」だったと言ってもいい。この物語を読み進めていただければ、それが明らかになるだろう。

 名実ともに表裏の権力を握った菅はさっそく、「地金」をあらわした。政府から独立した立場で政策提言をする科学者の代表機関「日本学術会議」が、新会員として推薦した候補の研究者105人のうち6人の任命を拒否したのだ。

 学術会議の会員は、特別職の国家公務員で同会議の推薦を受け政府が任命する。6人の中には安全保障関連法など安倍政権の政策に反対を表明した人も複数含まれており、学術会議側や野党から「憲法が保障する学問の自由への侵害ではないか」との批判が相次いだ。これに対し、菅は記者会見で、6人に対する除外理由を「総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した」などと述べるだけで、具体的な除外理由の説明を拒んだ。この人事判断でも杉田が重要な役割を果たしたとみられる。

 20年10月4日朝日新聞朝刊は、「官邸が16年夏の補充人事の選考過程で難色を示し、3人の欠員が補充できなかった」と伝えた。その後の報道などによると、これが安倍政権による最初の本格的「介入」だったようだ。法務事務次官の人事を皮切りに法務・検察への人事介入が始まったのも16年夏だった。これは偶然ではなかろう。第2次安倍政権での政治主導による官僚人事グリップに自信を深めた「安倍・菅政権」が、満を持して従来、「アンタッチャブル」とされた領域にも果敢に踏み込み始めたことを示しているようにも見える。

 その菅が今後、因縁の検察にどういう姿勢で臨むのか。とりあえず、16年以降の4年間に政権と検察の間で何があったのか、なぜそうなったのか、当時の取材メモを元に解き明かす。

「政治の介入を許した…」安倍・菅政権と検察庁との壮絶な人事抗争で生まれた深い亀裂 へ続く

(村山 治/週刊文春出版部)

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