(廣末登・ノンフィクション作家)

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 令和2年もあと余すところ僅かである。筆者の約半世紀の人生を振り返っても、これほど暗く、先が見えない年はなかった。様々な業種は、未知の壁にぶつかり、生き残りのために試行錯誤を余儀なくされた。前回のコラムで紹介したテキヤも然りである。

 しかし、何より決定的な打撃を受けたのは、夜の歓楽街のお店、そして、そこで働く人たちではないだろうか。「夜の街」という言葉が社会を分断したことは記憶に新しい。コロナ禍の下で、ホストクラブ=コロナ蔓延という構図ができ、彼らが非難の対象となったことに、筆者は、日本国民として忸怩たる思いを味わった。筆者の脳裏には、過去に袖振り合ったホストの人たちの顔が浮かんでいたからだ。

ホストクラブという非日常空間

 ホストという職業は、筆者が経験したことのないキャリアである。「ヤクザ研究者」でもある筆者は、取材で上阪したときに、姐さんたちと同道してホストクラブにお邪魔することがある。純朴の気風を持つ九州人の筆者は、関西のホスト諸氏からすると「イジる」対象なので、防戦一方となり、社会学者として、当該社会をじっくりと観察する余裕がない。ちなみに、関西のホストクラブでナンバー1は、40代くらいの年齢であり、ビジュアル系の若い人は、ドアマンや、先輩ホストのヘルプである。

 しかし、ホストクラブ非日常的で不思議な空間であることは間違いない。そこで、筆者は、元売れっ子だったホストの渡氏(源氏名・仮名)に、彼が生きたホスト社会について話を聞いてみた。

平成のナンバーワンホストの少年時代

 渡氏は60代。ホストから足を洗い、現在は運送業のひとり親方をして暮らしている。しかし、今も彼が街に出る時には、革のコートに身を包み、ダンディなスーツ姿でキメている。身長が180センチほどあるので、ひと際人眼をひく男前である。ミナミの街を歩くと、若い人たちが「お疲れさまです」と頭を下げる。知らない人が見ると、ヤクザの地回りと間違われる。

 彼の語り口は柔らかく、相手の話を聴く姿勢に慣れているように思える。だから、彼の個人史を聴き出す際には、筆者の質問回数が平素より多くなりがちであった。

 渡氏は大阪の近県に生まれた。実家は美容室を経営しており、兄妹は年が離れた姉が一人。この姉は成績優秀だった。しかし、彼は中二の頃からグレてしまい、不良グループとつるむうちに成績も急降下したようだ。結果、中学を卒業して定時制高校に進学した。

 16歳の頃にバイクを購入し、暴走行為の日々を過ごしていたが、自損事故を起こして半年間も入院するはめになった。おかげで、定時制高校には5年間在籍した。学生時代は、グレン隊グループの主要メンバーとして、連日、深夜喫茶に入り浸っていた。こうした店の常連になっていると、近隣のヤクザとも顔見知りになる。

 同じ時期、昼間は求人広告など扱う会社で働いていたが、定時制高校を卒業したらヤクザになるものだと本人も思っていたそうである。ところが、そのことを母親に伝えたら、泣いて懇願され、ヤクザへの道を断念した。すると、“内定”を貰っていたヤクザ組織の若い者5~6人からリンチを受け、腕と肋骨を数本折る重傷を負い、またまた病院に逆戻り。広告会社も半年ほど休む羽目になった。

テレビ番組を見てホストの生き方に痺れる

 23歳の頃、引き続き営業に精を出していたが、休憩のために入った喫茶店で、舎弟の友人と一緒にテレビを見ていると(『3時のあなた』のような番組だった)、ホストがテレビに生出演していた。1980年代に入る少し前の頃だ。いい服着て、女にモテ、いい車に乗れる・・・。思わず舎弟に「ええ仕事やな」と言った記憶がある。この日、この時、この番組を見ていなかったら、ホストになったかどうかは分からなかった。

 善は急げと考えた渡氏は、行きつけのバーのマスターに「ミナミで一番有名なホストってどこやねん」と尋ねたそうである。すると、「カーネギーや」と教えられたので、早速、舎弟と飛び込みで面接に行った。

 面接したマネージャーからは、「スーツ持ってんのか」「どこ住んでんの」などと聞かれ、「で・・・履歴書は」と言われたから、翌日、もう一度出直すことにした。ホストに履歴書が要るとは思わなかった。

 翌日、スーツにネクタイ姿で、履歴書を持参して再面接したところ、「よっしゃ、今晩から働いてもらうわ」と話は決まり、舎弟共々、即日採用されたとのこと。

 マネージャーは続けて、「早速、源氏名つけんといかん」と言うから、「どないなものがありますか」と聞くと、芸能人の名前から借用するのが一般的らしいということがわかった。たとえば、当時のスターは、石原、高倉、松方、西城などの源氏名があったので、「渡」を源氏名にすることにした。

 面白いのは、源氏名の付け方が、関西と関東では異なるのである。関西は苗字を用いるが、関東は名前を用いる傾向がある。たとえば、アキラとかシンゴのような源氏名で呼ばれるそうだ。渡氏いわく、当時の関西ホストは硬派であったそうだ。

初月給は1万5000円也

 初めてフロアに足を踏み入れた時の感動を、今でも覚えているという。フロアの端からもう一方の端が見えないほどの広さ――200坪はあろうかという店内には、らせん階段で降りてゆく。店内には噴水がある。さらにグランドピアノがひと際目を引く。ステージでは5人編成のバンドが美声を披露している。若い渡氏にとっては、初めて目にする異世界であった。

 新人ホストは、18時30分頃には店に出なくてはならない。そこからミーティング。売れっ子の先輩ホストが女性同伴で出勤してくるのは20時30分頃から。新人と売れないホストは、店の奥側に座って待っていないといけない。余りにも暇な毎日、「早く売れるようになりたい」と気は焦るが、こっちはズブの素人だから事はそうそううまく運ばない。悶々とした日々を過ごした。

 日給500円、先輩の席に呼んでもらってヘルプをしたら1000円。最初にもらった月給は1万5000円だった。「あかん、お客ないと食えへん」と、渡氏はかなり焦った。ちなみに、求人広告の会社時代の給料は、月給12~13万円あったから、そのギャップに愕然とした。

 2カ月ほど、低賃金で生き永らえながら「(売れない人たちは)みんなどないしてんのやろ」と思い、先輩らに聞いてみると、「ナイトで働くねん」とのこと。当時のナイトとは、深夜24時から朝の5時まで開いている飲み屋のことだった(現在のメンズパブのようなイメージ)。時給は800円だったので、日に4000円は稼げる。

 ちなみにホストクラブは、20時から24時までの営業。それ以降、売れっ子の先輩らはナイトを開く。ここで、渡氏とツレの舎弟は働かせてもらった。自分らは、その先輩をアニキと呼んでいた。ナイトで先輩の店で働くことにより、カーネギーでもヘルプに付けてくれるようになったから、少しは生活が楽になってきた。当時は、実家から車で通勤していたため、寝る時間が少ないことには閉口したそうだが、若さで乗り切った。

ホストには武闘派の一面も

 アニキが経営するナイトは、お客に媚びない強気の商売。ある時、アニキが女の客の頭を軽く叩いた。なんと、その客は、あるヤクザ組織の姐だった。それをアニキが知っていたかどうかは分からないが、そうしたノリが、当時のナイトの雰囲気だった。

 その姐さんが、「私に手え出したら、ただで済まんで」いうて、ヤクザが乗り込んで来るという始末。この時、他の従業員はイモ引いて(怖がって)帰ったそうだが、渡氏と舎弟はアニキと店に残った。この時、アニキからはとても感謝された。

 人は、窮地に直面した時、人間の真価が問われる。渡氏と舎弟は、このアニキのお陰で、曲がりなりにも生活ができるようになった。ホストクラブでも、ヘルプに付けてもらい、修行することが叶ったから、アニキの窮地にも付き合うことが当然と考えていた。結局、ヤクザが5~6人位乗り込んできて、散々恫喝された上、50万円ほどの詫び料を払って話がついたそうである。

 その後、このナイトのお店は流れてしまったが、カーネギーのマスターの店に呼ばれた。当時は、夜の街の景気もよく、水商売が潤っていた時代だったから、出来るスタッフは働く場所に困らなかった。マスターは、アニキと渡氏、舎弟をセットで面倒見ると言ってくれた。つまり、カーネギーのマスターがお墨付きを与えてくれたことと同じ。これにより、ホストの社会で大きな一歩を踏み出すこととなった。

上客はヤクザの姐

 当時、ホストクラブに通うのは、ソープ嬢からクラブのママ、そしてヤクザの姐などが多かった。前者は、稼ぎに限界があり、カネを落とさないから小者(こしゃ)。クラブのママは中の上、最後が上客という感があった。

 渡氏の場合、最初に着いたお得意さんはクラブのママ。真面目な人で、遊び人ではなかったが、連れと来店した日から「おれにのめり込んでしまった」という。ホスト遊びで火が付くと金銭感覚がマヒしてしまう。このママのお陰で、渡氏は120人ほど居たホストの中で、ナンバー3に浮上。一回来店すると10万円は落としてくれたし、2日に一度は来店したという。

 このママの財布には、いつも300万円は入っていた。「渡はエエもん着なあかん」とスーツなども高価なものを揃えてくれた。上客の対応は、一人ではなく、(かつて自分がそうであったように)ヘルプを付ける。店には新人が入って来るから、自分の兵隊(配下の若い衆)を増やしていくために、彼らをヘルプに付けたりもする。仲間内でも気配りが不可欠なのである。

身体張るのはアニキ役

 当時のミナミには、ホストクラブが5~6店あった。それぞれナンバーワンが居る。「そいつらもそうだったと思うが、自分の若い衆が居て、その地位を維持できる。だから、食わしてやるのが兄貴分の役目」であった。

 もちろん、この社会の所作、言葉遣い、上下関係はとても厳しい。それができていない者には厳しく指導する。しかし、それでも自分を盛り立ててくれ、付いてくる若い衆はかわいいから、ヘルプにも付けるし、小遣いも渡してやる。そうした互恵的な関係を経て成長してゆく(これは、若い衆だけではなく、自分も後進の教育を通して学ぶところが多かったと回想する)。

 自分の勢力を拡げるためには、店の中の主流派と反主流派の確執や、他所の店との争い事(客を取った、取られたというような喧嘩沙汰)に対応することも必要だ。とりわけ、上客でない女には、チンピラが付いていることも多く、「お前が渡いうんか。わしの女と飲みに行っとったやろう。お前が店に呼んどるんかい」、「勝手に来てはるんちゃいますか」というようなやり取りになることも多い。こういう状況も上手く捌かなければならない。それでも当時のホストは、ヤクザに拉致されるなんてことはザラにあった、と回想する。

「うちの若い者、数えきれんほど事務所に連れて行かれてる。しかし、ガラ受け(身柄引き受け)に行ったおれは殴られたことはない」そうだ。

 自分の若い者がヤクザの事務所に拉致されたらガラ受けに行くのは、兄貴分である自分の役目と思っていたから、いつも自分一人で対応していたとのこと。すると、ヤクザは「お前、ひとりで来たんか。ええ度胸してんな」と鷹揚に威嚇してくる。「とにかく、詫び入れよう思いましてん」、「おまえ、そんなんで済む思うてんのかい。ナメとったらあかんで」、「ポリ来た方が良かったですか? まずは、うちの若いもんが失礼したんなら、私が謝るんが筋や思いましてん」こうした一連のやり取りから、「肝の据わった面白いやっちゃな」ということになり、一緒に酒飲んで終わりというようなケースが一般的だったそうだ。

 ホストの上下関係も、当時はヤクザのそれと似たところがあり、兄貴分が漢(おとこ)なら、ヤクザも認めたという一例である。渡氏は、その世界でも顔になり、本人も、若い衆も、ヤクザのカネ蔓にされたことはなかったという。

お客とホストを超えた人間関係

 筆者が話を聞いた渡氏は、現在のホストの人たちのようなビジュアル系ではなかったようである。その生きざまの一端を聞いても、武闘派系であることがわかる。

 その後、30代半ばで、ナンバーワンホストとしてのチャンスをつかむ。時代は昭和から平成へと変わっていた。そして、彼は、その時にナンバーワンの座を与えてくれた姐さんに、いまも寄り添って誠心誠意尽くしている。筆者が驚いたことに、彼は姐さんの好きなカラオケの曲をメモ帳に記したものを常に携帯している。

 スナックでは、姐さんのリクエストに応じて、曲を入力する気の遣い様だ。お客とホストの関係を超えた、現在は風化しつつある人間味を感じた一幕であった。

 彼の現在の仕事は、毎朝早くから、夕方まで宅配便の荷物を配達する軽運送のひとり親方である。その運送会社の制服は、渡氏の余裕、貫禄、そして修羅場を潜り抜けたひとりの男の人生を覆い隠すには小さすぎるように、筆者には思えた。

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