(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

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赤穂浪士は凶器準備集合罪だった?

 12月14日といえば、赤穂浪士討ち入りの日。元禄15年(1702)のこの日、大石内蔵助が率いる47名の旧赤穂藩士は、本所にあった吉良邸に討ち入って、主君・浅野内匠頭の仇敵とされた吉良上野介を討ち果たした。

 浪士たちは、高輪の泉岳寺にある内匠頭の墓前に吉良の首を供えて、主君に仇討ちの報告をしたのち縛につき、いくつかの大名屋敷にお預けとなった。江戸の市民は事件に拍手喝采し、武士たちの中にも主君の仇を討ったことを賞賛する声は少なくなかったものの、幕府は浪士たちに切腹を命じた。

 では、幕府はなぜ、赤穂浪士を切腹させたのだろう? 一般には、将軍のお膝元である江戸市中を騒がせたためとか、松の廊下事件についての幕府の裁定に異を唱える形となったため、などと理解されている。

 しかし、このとき幕府が問題視したのは、47名もの浪人が武器を携えて集まり、大石内蔵助の指揮で組織的に行動した点にあった。今風にいうなら、凶器準備集合、騒乱罪ということになりそうだが、ちょっと違う。浪士たちの目的は吉良の首一つであって、別に江戸市中の治安を乱したわけでも、市民を恐怖に陥れたわけでもないからだ。

 この問題は、実は徳川幕府による支配体制の根幹に関わっていたのである。

 そもそも幕府とは、武士たちが結集してつくりあげた武家政権だ。その武士とは、武(=戦いや殺生)を生業とする戦士階級であるから、徳川幕府であれ、鎌倉幕府であれ、室町幕府であれ、本質的には軍事政権である。つまり、将軍とは全国の武士たちを束ねる大親分であり、武士たちはみな、将軍に従う子分、という主従関係にあるわけだ。

 したがって大親分(将軍)は、子分ども(大名など)がモメ事を起こしたら調停してやり、言うことをきかない者がいたら、他の子分どもを動員して成敗する。今年の大河ドラマ『麒麟がくる』を見ていると、大名どうしの戦争を調停する役割が、将軍に求められていることがわかる。これも、上に書いたような原理に基づくものだ。 

 ところが、室町幕府の場合は、将軍家やそれを支えるべき重役たちが、自分たちの都合で家督や利権をめぐる内輪モメをくり返した結果、各地の大名や武士たちが、幕府をアテにしなくなってしまった。そして、自分の領地を自力で治める方に走り出したために、「言うことをきかない者は他の子分どもを動員して成敗する」という幕府の機能が働かなくなってしまった。つまり、将軍は実権を失ったのである。

 こうして泥沼化した戦国乱世を、武力で再統一したのが徳川幕府だ。そうである以上、大名どうし、武士集団どうしが勝手に戦争をはじめることは、断じて認められない。大名であれ、旗本であれ、幕府の命令がなければ組織的な武力行使をしてはいけない、というのが幕府支配の基本原理なのである。

 おわかりだろうか。たとえば、大石内蔵助や堀部安兵衛が、数人で吉良の籠を待ち伏せして討ち取ったのなら、話は別だ。しかし、47名もの集団が綿密に計画を練った上で武器を携えて集まり、役割分担を決めて大石内蔵助の指揮のもとに行動したのである。これは、明らかに組織的な武力行使だ。

 義に免じて赤穂浪士を赦免する、などという選択肢が、幕府にあるはずもなかった。

 

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