イタリア海軍に関する“名言”に「戦果の大きさと搭乗員の勇気は、艦艇の排水量に反比例する」というものがあります。第2次世界大戦中には、まさしくそれを証明したかのような、ふたり乗りの小型潜水艇がありました。

21世紀の現代にも続く海中兵器の元祖 イタリアで誕生

現代のアメリカ海軍特殊部隊NAVY SEALsなどでは、密かに敵陣の奥深くに隠密侵入するため、1人もしくは2人乗りの水中バイク(水中スクーター)が用いられることがあります。実戦だけでなく007映画などのフィクションでも登場の多い水中バイクは、音が静かで隠密行動しやすいなどの理由から使用されるのですが、その元祖といえるものは第1次世界大戦末期のイタリアで生まれました。

これはイタリア海軍が、鹵獲(ろかく)した敵の魚雷を改造して試作した2人乗りの実験兵器で、「ミニャッタ」(蛭:ヒル)という名前で呼ばれました。1918(大正7)年10月31日深夜には、実戦テストとして開発者であるラッファエレ・ロセッティ技術少佐自身が、この水中バイク型人間魚雷を操作し、敵であるオーストリアハンガリー帝国のポーラ軍港(現クロアチアプーラ)に侵入。監視の網をかいくぐって同国海軍の弩級戦艦「フィリブス・ウニティス」の船底に時限式の魚雷弾頭(爆雷)を仕掛け離脱にも成功、少人数の隠密作戦ながら見事に撃沈を果たす大戦果を挙げたのです。

この港湾攻撃の成功はイタリア海軍にも強烈な印象を残しており、1935(昭和10)年のエチオピア侵攻を契機に再び特別攻撃の研究が始まります。翌1936(昭和11)年にはテセオ・テゼイ技術大尉が、新型の人間魚雷S.L.C.(低速走行魚雷)を試作します。なお、「魚雷」という単語が名称に含まれるものの、第1次世界大戦時のものと違い魚雷流用ではなく、専用に設計された船体に風防付き操縦席や防音式の電気モーターを備え、操縦性が格段に進歩しており、これで名実ともに水中バイクに進化しました。

「豚」と呼ばれた「水中バイク」なぜ?

新たに開発された人間魚雷S.L.Cは、全長6.7mで、排水量は1.3トン、水深30mまで潜航でき、1.6馬力の電気モーターによって最大速度4.5ノットで航行可能な性能を有していました。そこでイタリア海軍は、潜水艦で敵の軍港(泊地)近くまで運び、隠密裏に敵の艦船を攻撃するという計画を立てます。

具体的には、母艦となる潜水艦の甲板上に鉄製コンテナを設置、そこに人間魚雷S.L.Cを入れておきます。作戦開始時に潜水服を着て酸素ボンベなどを装着した特殊工作員(コマンド)2名が乗り込み、操縦して密かに港湾内に侵入します。

浅い深度で目標の艦船に接近すると、S.L.Cから切り離した220kgから300kgの時限信管付き魚雷弾頭を、その船底に磁石付きクランプとワイヤーで吊り下げ、脱出後に爆破するという戦法が編み出されました。なお戦法を研究するなかで、生みの親であるテゼイ技術大尉が訓練時に「その豚にしがみつけ!」と声を掛けたことから、この新兵器は「マイアーレ」(豚)と呼ばれるようになりました。

こうしてイタリア海軍は、1941(昭和16)年3月に「第10M.A.S.(デチマ・マス)部隊」を編成します。同部隊は、この「マイアーレ」(豚)と名付けられた人間魚雷S.L.Cだけでなく、魚雷艇や、突入前に搭乗員が脱出するタイプの1人乗り爆装ボートなども装備。第2次世界大戦の推移とともに、ポケット潜水艦やS.L.C.型運搬用の潜水艦も配備され、それらの機材を扱う潜水工作専門部隊、通称「ガンマ遊泳部隊」も編成されました。

また、それに伴い、潜水工作員たちが使用する、ピレリ社製の長時間潜水可能な循環式アクアラング装置やウエットスーツ、パネライ社製の防水腕時計や深度計なども新たに開発されています。

「木馬」から「豚」が出撃!

第2次世界大戦時のイタリア海軍は、燃料の備蓄不足や訓練度の低下から大型主力艦を「現存艦隊」として直接戦闘に出さない消極的方針を採っていました。しかし、それとは逆にデチマ・マス部隊は積極的に数々の作戦に投入され、地中海の入り口にあたるイギリス海外領土のジブラルタル港では、「トロイの木馬」と呼ばれた偽装した中立国商船「オルテラ」の船腹から人間魚雷(水中バイク)S.L.C.型が度々出撃しました。そして1年間におよぶ作戦で5万4000トン余りの敵輸送船やタンカーを沈めています。

さらに特筆すべき作戦が、エジプトアレクサンドリア軍港への攻撃です。1941(昭和16)年12月18日深夜、接近した潜水艦シレーから発進したデ・ラ・ペンネ大尉が率いる3隻のS.L.C.型からなる人間魚雷戦隊は、夜陰に紛れて何重もの魚雷ネットの下を潜り抜け、哨戒艇の監視を逃れながら同港への侵入に成功します。

1号艇に搭乗してイギリス戦艦「ヴァリアント」(排水量3万600トン)に近付いたデ・ラ・ペンネ大尉は、タッグを組む搭乗員の潜水具の不具合や、乗っていたS.L.C型の機関故障にもめげず、自力で魚雷弾頭を敵艦船底へセットすることに成功。見事、戦艦を大破させる大戦果を挙げたのです。

前述のとおり、乗っていたS.L.C型が機関故障を起こしたため、両名はイギリス軍に捕まってしまったものの、目的は達成したといえるでしょう。

エジプトの軍港で挙げた大金星 しかも全員無事

しかも人間魚雷戦隊が挙げた戦果はこれだけにとどまりませんでした。第2号艇は、戦艦「クィーン・エリザベス」(排水量3万600トン)を爆破着底させ、第3号艇はタンカー(7500トン)を攻撃、側にいた駆逐艦(1690トン)を大破させています。

S.L.C型3艇6名が仕掛けた1回の攻撃で、イギリス海軍は翌1942(昭和17)年7月まで戦艦2隻が航行不能になる損害を出し、一時的にではあるものの、地中海の制海権に重大な影響を被ったのです。しかもこの武勲を挙げた6名は全員捕虜になり、命を失わずに済んでいます。

イギリス海軍は、6名のイタリア兵を「冷静にして勇敢な冒険者たち」と評価しました。ちなみに、捕虜になったデ・ラ・ペンネ大尉は、1943(昭和18)年9月のイタリア休戦後には連合軍側についた南イタリア王国海軍に所属。しかも前述の1941(昭和16)年のアレクサンドリア港攻撃作戦で授与が決まっていた戦功章金章を実際に大尉に授与したのは、皮肉にも当時、破壊された側であった戦艦「ヴァリアント」の艦長であったモーガン提督でした。またS.L.C.型を捕獲したイギリス海軍は、それをコピーし、似たような水中バイク「チャリオット」を製造して実戦投入しています。

なおイタリア海軍は、1943(昭和18)年にS.L.C.型の改良発展型として、S.S.B型を開発しています。これは露出した搭乗員席に保護カバーを付けたもので、戦後エジプト海軍がこのS.S.B.型を導入して、1956(昭和31)年のスエズ動乱(第2次中東戦争)では前線配備しています。

このように、イタリア海軍潜水コマンドが操った水中バイクは、実はその後も各国海軍の特殊部隊に影響を残しているのです。

S.L.C.(Siluro a Lenta Corsa:低速走行魚雷)型に跨がってポーズを取る潜水兵。魚雷に操縦席を追加しただけの水中バイクのような構造。写真は切り離し弾頭が2個のタイプ(吉川和篤所蔵)。