(酒井吉廣:中部大学教授)

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圧倒的な有利な結果に持ち込んだ英国

 英国と欧州連合(EU)の「合意なき離脱」を避けるための交渉は、その期限であった12月20日(日)の後も昼夜を徹して行われ、EU議会が承認できる年内最後の議会開催日(30日)から逆算したギリギリの最終期限とされる12月23日を過ぎた翌24日、ようやく合意に達した。

 合意後の記者会見では、まずEUのフォンデアライエン欧州委員長がブリュッセルで「長く風の強い道を歩いてきたが、公平でバランスの取れた合意に達した」と両方の努力を称える発表をした。一方、英国のジョンソン首相はロンドンで「英国は主権を取り戻し、EUを一つとしたFTA(自由貿易協定)の締結交渉に勝利した」と、EUを大切なパートナーと表現しつつも、英国がBrexit(ブレクジット、英国のEU離脱)交渉を成功させたことを強調した。両者はとても対照的だった。

 筆者は、2020年10月に上奏した『New Rules』(ダイヤモンド社)の中で、一般的なメディア報道とは逆に、合意なきBrexitは英国よりもEUにとって不利と書いた。では今回の結果がどちらに有利だったかといえば、合意直後に英国政府がリークした資料を読むと、その実は圧倒的に英国にとって有利な結果に持ち込めたことが窺える。

 具体的には、トーリー党を源流とするBrexit推進派の保守党によれば、駆引きとなった内容のうち28項目で英国が、11項目でEUが実利を取ったとしている。その勝率は英国が43%、EUが17%で、残りの40%が双方の主張が同等に通ったものとなっている。

 では、今回の交渉の最重要ポイントと今後の注目点は何なのだろうか。

英国が空母打撃群をアジアに展開した理由

 今回の交渉におけるEUと英国の「合意」とは双方がFTAを結ぶことであり、その本質は英国がEU内にいた時と同じく、FTA締結国として非加盟国に対して通商上差別するためのものである。

 つまりEUと英国は、Brexit後もFTAを結ぶことによって、ロシアや日米、他のアジア諸国など非加盟国との取引よりも有利な条件を適用することで、両国で美味しい思いをし続けようと考えたのである。

 今回の記者会見内容やその後のEU各国首脳などのインタビューからすると、EUは英国を含めたEU経済圏の維持という発想があったことに加えて、英国が形式的に離脱したとしても、離脱の実質的なデメリットを回避しようとするに違いないと考えていたのは間違いない。一方、英国も合意なき離脱による激変回避を考えていたようだ。

 ところが、英国は、日米豪とのFTA交渉が解禁された2020年初からそれぞれの国と交渉を始めた。そして、10月には日本と合意(2021年1月から施行)、米国とも間もなく合意という段階に達しており、豪州とも2021年1~2月には合意する模様だという。英国は抜け目がなかったのである。

 これには理由があった。Level Playing Field(LPF=共通の土俵)という点において、EUは英国に対して不平等条約のようなものを要求してきていた。例えば、地球温暖化問題について、EUが炭素税を採用したり、排出権取引制度を変更すれば、英国も同じようにするよう求めている。原発の利用についても同じような感じだ。

「国際協調とはお互いのため」と教えられている日本人にとっては信じられないことかもしれないが、EUは英国に対する強い立場を使って、英国がEUよりも有利になることがないような条件を出していたのである。これは、外交の常識でもある。

 しかし、英国はかつて7つの海を支配した国である。その百戦錬磨の外交術を使ってEUに対する不利な状況を覆すべく、日米豪とFTA交渉を行ってきたのだ。

 もう一つ英国の動きで注目しておくべきことがある。空母クイーン・エリザベスを中心とする打撃群をアジアに派遣していた点だ。日本では対中警戒を強めるためと報道されているが、まさかそれだけのために大西洋から海軍を派遣するはずはないだろう。

 EUとのFTAは今回の合意後もさらなる交渉を必要とする部分が多々残されたが、仮に、それらがすべて不調に終わっても問題が起きないように、貿易相手国としての中国、韓国、また日本以外のアジア諸国を意識したのである。もちろん、巷間噂されている環太平洋経済連携協定(TPP)への加盟も検討しているだろう。

 日本がシーレーン防衛というのと同じく、英国も海軍のプレゼンスを示すことで、アジアでの交易を有利にしようと考えているのである。用意周到と言わざるを得ない。

交渉の鍵を握った漁業の勝者はどちらか?

 ジョンソン首相は、今回の英国とEUのFTAを「関税なし、割り当てなし」の「カナダスタイルFTA」だと表現した。要は、自画自賛である。カナダは、EUとの間でほとんどの貿易品の関税をゼロとしている。また、関税ゼロを一定数量に限る割り当てについてもかなり減少させているうえ、両国の様々な状況に応じた交渉によって数量制限も変えててきた。例えば、カナダからEUへのチーズの輸出量は増加している。

 一方、EU内では合意直前の12月20日フランスのマクロン大統領が、「英国の合意なきBrexitの発想は大きな計算違いで、新年になればジョンソン首相は再び交渉のテーブルに戻らざるを得ない」旨の強気の発言をしていた。もっとも、その裏側を覗けば、2021年6月の地方選挙を控えるマクロン大統領にとってフランス国内の漁民を敵に回すことはできないという事情がある。ベルギーとともに多くの漁民を抱える国として、合意なき離脱に最も反対した国の一つであった。

 EUと英国のFTA交渉では、金額的には決して大きな規模ではない漁業と農業が鍵を握ると言われてきた。特に、漁業はフランスベルギーオランダの参加国の漁民が関係しているうえ、英国に良好な漁場があるため、最も難しい交渉になるとの指摘があった。実際、今回の交渉をギリギリまで揉めさせたのは漁業権の問題である。

 漁業交渉は、当初EUが経過期間を8年、漁獲量を現行(2018年)より18%減としたのに対して、英国は経過措置3年で80%減だった。その後の交渉でEUが6年で25%とする一方、英国は3年で60%として、最後の睨み合いをしていた。

 合意内容は、経過期間を5年半、漁獲量をEUの船の年間漁獲量のうち25%を英国に戻す、であった。これはどちらに有利だったのだろうか。

 経過期間は当初のお互いの主張の中間点である。25%はEUの要望に英国が歩み寄った形のように見えるが、毎年の漁獲量は天候等に左右されるため、全体で何トンかとの換算が容易ではない。

 しかも、EUの船は全体として従来通りに英国の領土から6~12カイリに侵入して操業できるものの、具体的な船の活動状況に対しては毎年の交渉が可能とした。交渉は、有効期限切れの3カ月前までに申し入れることとなった。

 この交渉結果は、単純にはどちらが有利と言えないものかもしれないが、英国の領海の中であり、筆者には毎年の交渉や曖昧さが残ったため、英国に有利なように見える。これに対して、EUは仮に合意違反等があれば直ちに輸入関税をかけるなどの報復措置を取ることを明記した。

 ただし、1973年からフルの漁業権を失ってきた英国の漁協はこの結果に失望したと発言しているため、年明け後の英国議会でどのような議論がなされるかが注目される。英国としては、漁業権を楯に今回のFTA交渉を有利に進めてきたと考えられるため、これを変えることは容易ではない。

 一方、EUもこの漁業交渉を含む全結果をEU加盟28か国で協議する必要がある。ドイツのメルケル首相は12月30日に議会に諮るとした一方、アイルランドは結果を歓迎している。他の国々についても、利害が絡むだろうから、果たして英国と同じようにEU議会の批准を取り付けられるかどうかは未知数である。

 なお、もう一つの英国のアキレス腱は、スコットランドからのジャガイモの輸入をEUが禁止したことだ。スコットランドポテトの4分の1はEUに輸出されている。もちろん、英国は他国への輸出を検討しているので、何とかなるとしているが、直ちに対応できるかどうかは未知数である。

 これに対して、EUはスコットランドからの輸入が減る分をエジプトから賄えるので大きな問題にはならない。

 これらが、金額的には小規模だが、関係者数が多いので政治的には重要な漁業と農業の問題である。今後も、様々な交渉が続くだろう。

英国が「合意ある離脱」を実現した意義

 今回の合意を受けてジョンソン首相が勝ち誇った演説をした背景には、これからの議会対策や成り行きを注視していた世界に対するパフォーマンスがあったことは間違いないだろう。一方で、12月23日の時点で市場は「合意なき離脱」に傾いていたため、その後の合意を受けて英国ポンドは急騰している。

 では、「合意ある離脱」は「合意なき離脱」に比べてどのような意義があったのであろうか。

 これまで「合意なき離脱」は、英国にとって崖から飛び降りる馬鹿げた話と批判する声は決して少なくなかった。実際、これにより30万人の雇用が奪われるなどの経済効果の試算があった。

 しかし、EU内にあることのメリットを活かしたサプライチェーンの構築や国際金融都市としてのステータス維持は、EU外に出た場合に本当に喪失されてしまうものかどうか、全くの未知数であると考えるべきではないだろうか。

 また、EUは制度疲労を起こしている。そもそも、EU内の内部は、質素倹約型で感染症対策にしっかり対応してきた国と、大らかながら無駄遣いもあり財政赤字を解消できずに感染症対策でも後手に回った国など、メンバー国間に格差がある。にもかかわらず、EUは財政状況のいい国の資金を頼りに赤字国を助けるという判断を下してしまった。

 これは、日本の国鉄民営化とは正反対の発想だ。国鉄は分割民営化により、黒字経営のJR東日本と東海、赤字経営のJR北海道と四国など、大都市圏を含めた地域の会社かどうかで格差が出た。この格差を埋め合わせることなく分割されたままの経営を続けているので、JR東海リニア中央新幹線という巨額な予算を使った新線に取り組める。一方、JR北海道は赤字路線の廃止を考え続けなければならない。

 英国は、EUの中のJR東日本JR東海のような立場だったと言える。そこに、中東やアフリカからの移民がEU内のギリシャを経て流入し始めたこともあって、国民が怒り始めた。

 今回のジョンソン首相の発言が、自国の法律や領海を取り戻したことなどに力を入れた理由は、これにより国民の希望を実現するとの発想にある。つまり、お互いのために協力し合うという国際協調の考え方は、EU内で穴が開いたのだ。

 しかも、EUから離脱してもFTAを結べるのであれば、何もEUに残る必要はない。他の国々もそれをじっと見ているはずだ。実質的にEUの首領国であるドイツフランスは、世界の中での立ち位置を考えて何とかEUを維持したいだろうが、他の国はこれからどうなるかわからない。

 その意味では、フォンデアライエン大統領が、作家のシェークスピアや、音楽のビートルズ、詩人のT.S.エリオットにも言及する記者会見をした背景には、EUの懐の深さを見せることで、今後のEUの団結を守るという意思があったのかもしれない。

 しかし、ジョンソン首相の自画自賛的な記者会見は割り引いて聞く必要があるとしても、英国がかなり自国に有利な形でEUとFTAを結んだことは、EUの崩壊が始まるきっかけになる可能性があると考えるべきであろう。

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