中国で製造された新型コロナウイルスワクチンが日本に持ち込まれ、企業経営者などが接種を受けていると報じた新聞記事が波紋を呼んでいる。新型コロナウイルスをいち早く封じ込めた中国は、ワクチン開発に全力をあげており、ワクチンの提供を通じて、各国への影響力を強めたいと考えている。今回の一件は、中国による経済的な諜報活動(インテリジェンス)の一環と考えた方がよいだろう。(加谷 珪一:経済評論家

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あえて情報を拡散させようとしている?

 毎日新聞の報道によると、中国で製造されたワクチンが、中国共産党幹部に近いコンサルタントによって国内に持ち込まれ、国内の企業経営者やその家族18人が接種を受けたという。しかも、接種を受けた経営者の中には、経済団体の役員を務めている人物や、菅義偉首相のブレーンとされる人物も含まれている。

 毎日新聞がわざわざ元日に掲載したことを考えると、相応の取材を行った上でのいわゆるスクープ記事ということになるだろう。新聞記者が情報源を明かすことは、取材源秘匿の原則から基本的にあり得ないので、背景については推測するよりほかないが、内容が詳細であることや、接種を受けた人物のリストの写真が(名前を伏せた形とはいえ)掲載されていることなどを考えると、先方が意図的に情報を提供した可能性が高い。

 中国政府は新型コロナウイルスの感染を完全に抑えることに成功したと主張しており、2020年の7月から医療関係者に対してワクチンの接種を開始している。同年12月には、中国の製薬大手・中国医薬集団(シノファーム)のワクチンを承認すると発表したほか、科興控股生物技術(シノバック・バイオテック)や康希諾生物(カンシノ・バイオロジクス)が開発しているワクチンも治験の最終段階にあり、順次承認される見通しだという。

 中国は迅速に治験を実施するため、各国に治験の実施を持ちかけ、治験受け入れの代わりにワクチンを提供する、いわゆる「ワクチン外交」を行ってきた。今回、日本人の経営者らが接種したワクチンも、シノファーム製と考えられており、もしそうだとすると、中国のワクチン戦略は治験を行うフェーズから、売り込みを図る次のフェーズに進んだと考えることができる。

 では、中国はこうしたワクチンを使ってどのような策略を巡らしているのだろうか。ヒントになるのは、中国のワクチンは、米国が開発したワクチンとは異なり、従来型の不活化ワクチンであるという部分である。

中国のワクチンは従来型と同じ不活化型

 新型コロナウイルスを完全に終息させるためには、有効性の高いワクチンを接種するのがもっとも効果的だが、ワクチンの開発は容易ではない。今回の新型コロナウイルスによく似た感染症で、大正時代に全世界で流行したスペイン風邪は、当時、ワクチンが存在しなかったため、完全終息に3年を要した。

 今回の新型コロナウイルスに対しては、米英など先進各国がワクチン開発にしのぎを削ってきたが、昨年末に、米モデルナや米ファイザー、英アストラゼネカなどが相次いでワクチン開発に成功し、欧米では本格的な接種が始まっている。

 日本はワクチン開発に対する支援策が十分ではなく、国内メーカーがワクチンを迅速に開発するのは難しいため、海外の製品に頼らざるを得ない。また、国内の承認プロセスが煩雑なので、海外で承認されたワクチンを使う場合でも、かなりの時間を要する。これらのワクチンの本格接種をスタートできるのは、今年の後半になるとの声がもっぱらである。

 欧米の製薬会社が開発したワクチンは、従来型のワクチンとは異なり、mRNA(メッセンジャーRNA)やウイルスベクターを活用したものであり、一種の遺伝子治療と位置付けることができる。一方、中国が開発しているワクチンは、従来から使われている不活化型である。不活化ワクチンは、活性を失わせたウイルスを投与する方式で、新型コロナウイルスについては初めての製品化だが、手法そのものに目新しさはない。

 遺伝子治療型のワクチンは、大量生産が容易である反面、方法論としてはまだ新しいため、予想外の副反応が出る可能性が否定できない。現時点では、他に有効性が確認されたワクチンは存在しないので、米英は外交上、圧倒的に有利に振る舞うことができるわけだが、仮に、中国で開発された不活化ワクチンが、十分な効果を発揮した場合、話は変わってくる。

 各国の全国民というレベルに接種が行われれば、一定割合で副反応が出てくることになるが、こうしたタイミングで、副反応のリスクが少ない(とイメージされる)不活化ワクチンを中国が大量供給すれば、中国は一気に影響力を拡大できる

日本人は諜報活動を根本的に誤解している

 中国共産党の幹部に近い人間が、国内の有力者に接触を図り、ワクチンの接種を勧めていることには、こうした背景があると考えられる。

 先にも述べたように、今回の一件は、中国側があえて情報を拡散させてもよいと考えた可能性が高い。外交の分野はもちろんのこと、グローバルなビジネス社会では、こうした経済諜報活動というのは日常的に行われており、表面化しないだけでこうした話はいくらでも存在する。

 日本社会はこうした諜報活動に対する免疫がなく、世論はまったく関心を寄せないか、過剰反応するのかのどちらかである。一部では、国内の法整備を進め、こうした活動を積極的に取り締まるべきだとの声も聞かれるが、法整備を進めれば諜報活動を抑制できるというのも、やはりナイーブな感覚といってよいだろう。

 諜報活動を行う人物は、いかにもスパイですという活動しているわけではない。諜報機関が扱う情報のほとんどは公開情報であり、ビジネスにかかわる一般的な情報のやり取りの中で点と点が結びつき、最終的には有益なインテリジェンスになっていく。ジャーナリストやNGO(非政府組織)のメンバーとしてやってくる人の中にも、一定割合で諜報機関と関係を持つ人が存在しているし、経営コンサルタントや学者、企業経営者の中にもそうしたミッションを持つ人がいる。

 つまり工作員と呼ばれる人は、その活動を専門にしているわけではなく、一般的な職業人であり、自身の仕事上の利益を考えながら、時にこうした活動に加担するケースが多い。表の活動とウラの活動の線引きは難しく、本気でこうした活動に対抗するには、多くの民間人を網羅した広範囲で有機的な情報ネットワークを政府が構築する以外に方法はない。

外国人の受け入れも有力な諜報活動の一部

 今回の一件は、ビジネスでのネットワークを活用しつつ、メディアを使って意図的に情報を拡散するという手法なので、より能動的といえるが、日本社会はこうした工作に対して特に弱い。それは国内メディアが報じる記事に対する世論の反応を見ても分かる。

 国内のメディアでは、外国での生活を取り上げ、欧米社会は素晴らしいと賞賛する記事をよく見かける。多くの面において日本が欧米より遅れているのは事実なので、ある程度はやむを得ないことだが、国内ではケシカランという声ばかりが聞こえてくる状況で、背景を探ろうという雰囲気はまるで感じられない。日本でこうした記事が多いことにははっきりとした理由がある。

 欧米各国は戦略的に留学生を受け入れており、彼らが気持ち良く学生生活を送れるようかなりの好待遇を与えている。満足して日本に帰った彼等は、欧米の生活がいかに素晴らしかったのかをごく自然に周囲にしゃべるようになるので、結果として「欧米は素晴らしい」といった記事が掲載される確率が高くなる。つまり留学生受け入れという教育政策も実は立派な諜報活動のひとつなのだ

 諸外国が、留学生をわざわざ「お客様」として受け入れ、そして自国民が外国人に対して差別やバッシングをしないよう徹底的に指導しているのは、こうした諜報活動を円滑に進めるためでもある。

 これに対して日本社会の雰囲気はどうだろうか。外国人を差別したり排除する傾向が強く、日本に滞在した外国人はあまりいい思いをせずに帰国するケースが多い(あげくの果てには、日本には差別はないなどと、あからさまにウソをつく人もいる)。

 国内で不満を表明した外国人に対して、「嫌なら母国に帰れ」といった罵声が浴びせられることもしばしばだが、これでは日本のファンが増えるわけがない。結果として、海外において「日本はすごい」という記事は掲載されず、むしろ日本を批判する記事の方が多くなる。当然のことだが、これはボディーブローのように日本の外交や国力に悪影響を及ぼしてしまう。

 英国は、米国と並ぶ世界でも突出した諜報大国だが、英国の諜報機関は、日本人を含む各国のジャーナリストや専門家、ビジネスパーソンなどを定期的に、ごく普通のセミナーや交流会に招待する活動を行っている。その場で何かが行われているわけではなく、ただ、各国で活躍するビジネスパーソンを招待し、自発的に交流してもらうだけなのだが、英国の諜報機関はこれを極めて重要な諜報活動と位置付けている。ただ、セミナーに招待するだけの行為について、国家における重要な諜報活動と認識できる日本人はどれだけいるだろうか。

 このように諜報活動というのは、日常生活の延長線上に形成されるものであり、巨大な諜報機関を作れば問題は解決する(つまりハコモノを作れば問題は解決する)という単純な話ではない。筆者は今回の記事(記事という形をした諜報活動)についても、「中国がワクチンを密かに配布するなどケシカラン」「接種を受けた人の愛国心を疑う」といった、単純な反応で終わってしまうことを危惧している。

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