第2次世界大戦中、日本との連絡を断たれた同盟国のイタリアは、1942(昭和17)年に極東との連絡航空路の開設を計画。長距離飛行が可能なよう、大幅な改造を施した特別機を使って、ローマ~日本間の飛行に成功しました。

作戦名「G要求」日本への極秘飛行計画とは

第2世界次大戦でイタリアドイツ、日本は同盟関係を結び、ともに戦いました。とはいえ、イタリアドイツは比較的近かったのに対し、日本は遠く離れた極東に位置していたため、ドイツイタリアと、日本とのやりとりは海路、空路ともに難儀します。それでも3国は互いの物資や人員の輸送を図り、ドイツは武装商船でイギリス海軍の海上封鎖を突破してインド洋経由で日本を訪れていました。

しかし1941(昭和16)年12月の日米開戦以降、アメリカやイギリスといった連合軍の封鎖がさらに拡大、翌1942(昭和17)年に入ると3国の直接連絡は困難となったため、新たな方法の検討を始めます。

そこでドイツと日本は潜水艦による往来を計画しますが、イタリアは海路ではない別の手段で日本とやり取りしようと計画。秘匿名「G要求」(Esigenza “G”=Giappone/日本)と名付けたプロジェクトをスタートさせます。

イタリアが考えたのは、極東との連絡空路でした。そこには、かつてサヴォイア・マルケッティS.M.82型爆撃/輸送機を改造した特別機で長距離周回飛行記録を更新した自負もあったのでしょう。

イタリアドイツ軍が占領中のソ連南部(現在のウクライナ)から飛び立ち、最短距離でソ連領を通過する飛行プランを提示しますが、対米戦争中の日本はこれ以上の戦争拡大を望まず、ソ連を刺激しないペルシャ湾通過~インド洋横断コースを提示。コストと信頼性から、使用機にはエンジンを3発装備した中距離用のサヴォイア・マルケッティS.M.75型輸送機が選ばれ、航続距離を延ばすための改造により、作戦機S.M.75GA(Grande Autonomia/大航続距離)型が造られたのでした。

改造機完成! 極東目指してローマを離陸

改造機は、エンジンを110馬力アップしたアルファ・ロメオ128 RC18型(860馬力)に換装し、最大航続距離も8000km以上になるよう大容量燃料タンクや高性能無線機を搭載します。さらに銃座を撤去して胴体も延長して尾翼も再設計する一方、万一に備えて防弾装甲を装備、非公式に「S.M.75RT」(Roma-Tokyo/ローマ~東京)型と呼ばれました。なお機長には、大西洋往復飛行を22回もこなし、長距離飛行の経験が豊富なアントニオ・モスカテッリ空軍中佐が選ばれます。

また燃費向上のため、同機への積み荷としては無線の乱数表や秘密書類と共に独伊両大使館員への郵便物だけが搭載されますが、不時着時の護身用としてベレッタMAB38短機関銃2挺と弾倉14個も積み込まれました。さらにドイツ亡命中のインド独立指導者、チャンドラ・ボースの同乗も検討されますが、重量増加に伴う技術的な問題や安全面での不安から、これは断念されています。

1942(昭和17)年6月29日、モスカテッリ機長と搭乗員4名を乗せたS.M.75GA型輸送機は、朝の5時26分にローマのグイドニア飛行場を飛び立ち、8時にベオグラードユーゴスラビア)、10時にブカレスト(ルーマニア)上空を通過、14時6分にドイツ軍が占領中のクリミア半島サポロジェに無事着陸しました。

翌日の6月30日20時6分、約11.5tの燃料を満載したS.M.75GA型は、なんとか離陸に成功すると、ロストフ上空で対空砲火や敵戦闘機に遭遇しながらも夜陰に紛れ、一路東へ飛行します。しかしイタリア側は日本側が提示した1万2000kmにおよぶインド洋ルートには進まず、約半分の6200kmの飛行距離で済むアラル海~バルハシ湖~アルタイ山脈~ゴビ砂漠を抜けるルートを選択。飛行時間21時間14分かけ、7月1日17時20分に内蒙古(内モンゴル)の包頭(パオトウ)飛行場に到着したのでした。

「極東飛行作戦」見事成功! なのに搭乗員はなぜか軟禁

包頭(パオトウ)飛行場まで来れば日本へはあと少しですが、2か月前に起きたB-25爆撃機の本土初空襲により、我が国の防空体制が敏感になっていたので、安全対策から機体に日の丸を描きます。

そして整備と休養で1日空けた7月3日午前7時にS.M.75GA型は包頭を離陸、日本海を横断して17時4分、東京郊外の陸軍航空隊福生(横田)飛行場に見事到着します。この延べ8300kmもの大飛行は、当時のドイツ空軍でも実現不可能な偉業でした。

しかし連絡便は日本と中立条約を結んでいたソ連領空を通過していたため、日本側は飛行成功を発表せず、搭乗員達を飛行場内に軟禁。そして帰路はインド洋ルートを使うことと、ドイツ特使として派遣する予定であった辻政信陸軍中佐の同乗を要請したのでした。

この思わぬ冷遇にイタリア人搭乗員達は立腹、帰路の飛行ルートまで干渉されたくなかったモスカテッリ機長は、重量過多を理由に辻中佐の同乗を断り、さっさと帰国の途に就いたのです。

1942(昭和17)年7月16日午前5時20分、福生を離陸したS.M.75GA型輸送機は元のルートを通って帰路に就き、20日17時50分にスタート地点となったローマのグイドニア飛行場に無事帰還します。滑走路では、当時イタリアの指導者であったムッソリーニ統帥が一行を待ち受け、その労をねぎらい、ようやく作戦成功を内外に宣伝しました。

その後も極東飛行は計画されましたが、飛行ルートを巡って日本との折り合いが付くことはなく、翌1943(昭和18)年には東部戦線(ソ連戦線)の戦局が悪化し、クリミアの前進基地を失ったことで、イタリアは極東への航空連絡を断念。こうして極東連絡便は、ついに再開することはありませんでした。

極東飛行ののちS.M.75GA型の前に立つ搭乗員達。左からマゾッティ少尉、クルト少佐、モスカテッリ中佐、マジーニ大尉、レオーネ曹長。改造機は燃料満載時には総重量が21.5tにも達した(吉川和篤所蔵)。