近年、日本史の通説とされてきた事柄に「懐疑的な目」が向けられ、真実はどうだったのかが議論されるようになっています。「十七条憲法」「冠位十二階」などの事績で知られる聖徳太子にも、「架空の人物なのでは」という疑惑の目が向けられています。それはなぜなのでしょうか?

聖徳太子はどんな人と習いましたか?

歴史の授業で習ったことをおさらいしてみましょう。
まず、聖徳太子は推古天皇(在位593-628年)の時代の人です。推古天皇の摂政として政治を主導したことになっています。

冠位十二階
十七条憲法
遣隋使の派遣

など重要な政策を実施したと習ったのではないでしょうか。

聖徳太子はどこに登場する!?

まず、日本最古の勅撰の正史である『日本書紀』を見てみましょう。
聖徳太子に関する記述は、「推古天皇」(巻22)を中心に、敏達天皇(巻20)から
舒明天皇(巻23)まであります

その中で、聖徳太子については、厩戸王、あるいは「皇太子」などと記述されています(「推古紀」の中では基本的には皇太子と書かれています)。

厩戸王の事績として、生年、斑鳩宮造営などが記されています。しかし、実は推古11年(603年)の冠位十二階についての記述、また推古15年(607年)の遣隋使についての記述の中には、厩戸王、皇太子は出てきません。

ですから、冠位十二階、遣隋使の派遣は、摂政であればこのような重要な施策に関わっていないはずがない、という推測から、聖徳太子の事績にされているともいえるのです。

では「十七条憲法」は確かに聖徳太子の作なのでしょうか。日本書紀には「推古12年(604年)に自ら筆をとって憲法十七条を作った」という記述があります。しかし、これには日本書紀(720年)の成立期に創作されたものではないか、という疑念があります。

例えば、原文の精緻な音韻分析から日本書紀を研究された森博達先生も「少なくとも、書紀の編纂が開始された天武朝以降であると私は考える」としています。

*......『日本書紀の謎を解く』(中公新書)P.196より引用。

このように、冠位十二階や遣隋使といった確かにあった出来事に関与しておらず(と考えられ)、後代の潤色、あるいは創作とされる出来事に関与しているとされる聖徳太子は確かに実在したのでしょうか?

ここから、厩戸王は確かに実在したが、従来言われてきたようなスーパーマンのような聖徳太子は存在しなかったとする学説が出てくるのです。

聖徳太子は主にその氏寺とされる法隆寺関連の史料で実在が担保されてきました。では次にその史料を見てみましょう。

法隆寺を建立したのは聖徳太子である」とされていますが、実は日本書紀の中にはその記述はありません。「天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼した」という記述はあるのですが。

法隆寺 薬師如来像の光背(仏像などの後光をあらわしたもの)の銘文
法隆寺は、聖徳太子の氏寺として信仰を集めてきました。薬師如来像の光背には以下のような銘文があります。

池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。歳
次丙午年。召於大王天皇 與太子 而誓願賜我大
御病太平欲坐故。将造寺 薬師像作仕奉詔。然
當時。崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天皇 及東宮聖王。
大命受賜而歳次丁卯年 仕奉

簡単にいうと、

用明天皇がご病気になられ、586年に推古天皇と太子を召し、病気が治るように寺と薬師像の造立を請願されたのに、亡くなってしまわれた。そこで、推古天皇と東宮聖王はその志を継いで607年に像を完成させた。

という内容です。

まず問題なのは銘文に現れる「天皇」という言葉です。この「天皇」という言葉は、586年、607年にはなかったはずなのです。日本で天皇という言葉が用いられるようになったのは、ぐっと時代が下って天武天皇(在位673 -686年)の時代というのが定説です。

ですから、この銘文はとても太子が生きたとされる推古朝のものとは推定できません。法隆寺が再建された7世紀後半に新しく造立され、そのときにこの銘文も作成されたのではないかと推測されます。

法隆寺 釈迦像の光背の銘文

同様に、法隆寺の金堂に安置されている釈迦三尊像の光背には以下のような銘文があります。

法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼
前太后崩。明年正月廿二日、上宮法
皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾、並
著於床。時王后王子等、及與諸臣、深
懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋
像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安
住世間。若是定業、以背世者、往登浄
土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后
即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、
如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴
具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、
出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共
彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、
同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。

簡単にいうと、

621年12月に前太后が亡くなって、その翌年(622年)正月22日に上宮法皇と干食王后が病いになられた。そこで、王后、王子、諸臣らが病気の回復を祈り、釈像尺寸王身を発願した。しかし、2月21日には王后が亡くなってしまわれ、その翌日2月22日には法皇も亡くなられた。像は623年3月に、司馬鞍首止利仏師が造り上げた。

という内容です。

まず「法興元丗一年」つまり「法興元31年」の、「法興元」という年号が存在しません。また「法皇」という号も当時には存在しなかったもので、当然のことながら「天皇」という呼称が存在した後代にしか現れるわけがないものです。ですからこれもやはり、ずっと時代が下ってからのものと考えざるをえないのです。

●天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)の銘文
天寿国繍帳は、国宝に指定されている染織工芸品です。「聖徳太子の死を悼んで、妃が作らせた」とい銘文があり、それが信じられてきました。

しかし、この銘文の中にもやはり「天皇」という言葉が出てくるのです。したがって、同様に推古朝に制作されたとは考えにくいのです。

●『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)
『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』をまとめてこう呼びます。すべて聖徳太子によって書かれたとされています。しかし、本当にそうなのでしょうか。藤枝晃先生の研究によれば、勝鬘経義疏は中国は敦煌で出土した文献と7割同文の内容で、聖徳太子の書いたものとは考えにくいようです。もっと時代が後になって成立したものではないのかという学説があります。

いかがでしょうか。
もちろん今も歴史研究家の先生方によって探求は続いています。聖徳太子の本当の姿が明らかになる日がやってくるかもしれませんね。


(高橋モータース@dcp)


今、あらためて勉強したい! 社会人がもう一度学びたい教科とは?