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 新型コロナウイルスの感染拡大がとまらないなか、感染予防対策への反発が生まれています。「コロナはただの風邪」「マスクをはずして生活しよう」と主張するグループが、渋谷の駅頭で集会を行ったりしています。

 感染爆発という事態が、日常生活の行動変容を要請しているなかで、ノーマスクデモは大きく拡大していくだろうと予想されます。今回はこのノーマスクデモについて考えます。

◆その人にとっての合理性
 ノーマスクデモは、客観的に見れば、非科学的で、不合理で、事態の解決を遅らせる異常な行動です。では、客観的にみて異常な行動をとる人びとは、どのような生活世界を生きているのでしょうか。

 それを考える上で重要なのが、社会学者ピエール・ブルデューが、アルジェリアでの社会調査の結果をまとめた『資本主義のハビトゥス』(原山哲訳、藤原書店)です。本書で、客観的に不合理に見える行為であっても、その行為者にとっては合理性をもった行動である、人間は完全に不合理な行動をとることはない、とブルデューは言うのです。

 ブルデューの社会学は、不合理にみえる行動をとる人びとをただ断罪するのではなく、その行動のなかにどのような合理性が含まれているのかを考えるのです。

◆飲み歩くことは「不要不急」か
 感染予防対策のために手洗い・消毒を励行するということには、大きな反発はうまれていません。人びとの反発を招いているのは、外出や会食の制限です。不要不急の外出・会食は控えましょうと呼びかけられる。

 象徴的な事例としてあげられたのが、東京・新宿の飲食店街のありようでした。客観的に見れば、未知のウイルス市中感染を引き起こしている渦中で飲み歩くなど、まったくどうかしている、という話です。そんな遊びは不要だし不急であろうと考えられるのです。

 しかし、飲み歩いている当事者にとっては、外で飲み歩く行為は不要でも不急でもなかったのです。少なくとも、政策決定者が考えるほど不要不急ではなかった。「夜の街」は、都市生活にとって欠かすことのできない重要な器官になっていたのです。

 わたしについていえば、外出を控えて自宅に引きこもる生活は苦もないことです。もともと放射能汚染の問題を警戒して外食は控えてきましたし、50歳の身体で「夜の街」に出るのもだんだん億劫になってきています。わたしにとって、「夜の街」での会食は、不要不急です。

 しかし世の中、そういうおっさんばかりではないのです。若者にとって、「夜の街」の制限は大問題です。たとえば20代後半ぐらいの、結婚を意識するようになった未婚の男女にとっては、不特定多数の人びとと出会う飲み会など、大変重要でしょう。コロナウイルスが収束するまで飲み会を我慢してくれと言っても、聞かないでしょう。感染が収束するころには30歳を越えていたなんてことになりかねません。これは当事者にとっては死活問題です。

 若者に限定しなくても、「夜の街」を不可欠とする人々はいます。家族がいないとか、家族はあるが不仲であるとかいった事情があって、行きつけのバーに指定席をもっている人がいます。

 都市生活者というのは定型的な家族構成ではない人びとを多く含んでいて、そうした人たちにとって、「夜の街」は単なる遊び場ではなく、暮らしそのものなのです。

◆自粛を求める厚労省の失態
 わたしはここで、「夜の街」の制限を解禁しろと訴えたいのではありません。そうではなくて、「夜の街」を制限するという政策は、けっして軽くない、重い決定だということを言いたいのです。それだけ重い決定をして、人々に行動制限を要請するのならば、政府や自治体にもそれに見合った対応と説明が求められるということです。

 厚労省の対応は、失敗だらけです。いくつもの病院で院内感染を引き起こし、感染者数を積み上げています。医療機関の防衛が問題の焦点になることは、諸外国の事例を見ても充分に予見できたことですが、厚労省も医師会もまったく無防備であったために、医療体制を機能不全に陥らせてしまいました。これは大失敗です。

 たとえれば、防火のプロである消防署がごうごうと燃えて周辺民家まで延焼させてしまっているという状態です。そんな大失態をおかした消防署長が、「火の使用を控えましょう」などと呼びかけても、どの口でそれを言うのかという話なのです。

◆「合理的」な判断と「不合理」な行動
 誤解のないように繰り返しますが、わたしは、外出・会食の制限はなされるべきだと考えています。わたしは、ノーマスクデモの支持者ではありません。かれらが取るような行動が事態を悪化させることは火を見るよりあきらかです。ノーマスクデモは、非科学的で不合理な行動の典型的な事例だといえます。

 ただし、かれらだけを断罪するのはフェアでない。ノーマスクデモを断罪するのであれば、それと同じだけの強さで、厚労省の失敗と医師会の失態を断罪しなければならないと思うのです。厚労省にも、医師会にも、それぞれの言い分があるだろうと思います。しかしそれは主観的な合理性をのべたものにすぎないのであって、客観的に合理的な判断ではなかったのですから、ノーマスクデモの人びとと大きく変わるものではありません。

 社会学が考察の対象にしているのは、こういうことです。だれもが主観的に合理的な判断をくだして行動しながら、客観的に不合理な行動をしてしまっていることがある、ということです。ノーマスクデモの集団が奇異に映るのであれば、同様に、政策決定を担う人びとの行動もじゅうぶんに奇異なものでありうるのです。

東日本大震災放射能汚染
 さて、ここで話を終わらせてもいいのですが、もうひとつ付け加えます。

 ここまで読んで、頭のよい左派・リベラルのみなさんは、こう思うでしょう。できのわるい困った人間がいるな、と。やっぱり右派はダメだな、と。そう考えてもらってもいいのですが、ただ、あまり他人事だと考えないようにくぎを刺す意味で、もうひとつ話を加えます。

 いまからちょうど10年前の2011年3月11日に発生した東日本大震災が東北と関東に甚大な被害をもたらしました。この日、福島第一原子力発電所は核燃料の冷却機能を喪失し、翌12日、爆発します。膨大な放射性物質が放出され、東北・関東地域に降り注ぎました。東日本大震災は、広域の震災被害と津波被害に加えて、放射能汚染公害事件を引き起こしたのです。

 放射性物質は首都圏にも降り注ぎました。東京都民に生活用水を供給する葛飾区の金町浄水場で放射性物質が確認され、ついで、関東の女性の母乳から放射性物質が検出されました。多くの人々が空間線量計をもって自分が暮らす地域の汚染を確認しました。子供をもつ親たちは学校施設の汚染状態を調べたり、給食の食材について行政交渉をしたり、関東から母子を退避させたりしました。

 そうした未曽有の事態のなかで始まったのが、反原発デモです。首都圏各地ではじまった反原発デモは、この年の夏に統合され、首都圏反原発連合として首相官邸前に登場します。

◆反原連の方針
 首都圏反原発連合の特徴は、さまざまにある課題と要求をひとつに絞り、原発の即時停止だけを訴えたことです。原発の即時停止に要求を絞ることで、多くの人々を運動に糾合できると考えたのでしょう。

 この「合理的な」運動方針は、一方で多くの人々を落胆させるものとなりました。というのも、このころ人々が必死に取り組んでいたのは、放射能汚染に対処するための実態調査と防護対策だったからです。首都圏反原発運動は、科学的調査や防護といった喫緊の課題をわきにおいて、原発反対だけを叫ぶ集団になってしまいました。防護対策に取り組む人びとは、デモに背を向けて、対策に必要な具体的で科学的な行動に向かいました。お金を集めて市民測定所をたちあげる、食品流通の状況を調べて共有する、関東・東北からの退避を準備する、甲状腺エコー検査の体制づくりをするといった、具体的に必要な実践に向かったのです。

 首都圏反原発連合は、ひじょうに大きなデモへと成長しつつ、同時に、首都圏の被曝状況を話題にすることもできない、いびつな集団へと変質していきました。この運動は、政治的に「合理的」な判断がなされた一方で、客観的・科学的には不合理な行動となったのです。

<文/矢部史郎>

【矢部史郎】
愛知県春日井市在住。その思考は、フェリックス・ガタリ、ジル・ドゥルーズアントニオ・ネグリ、パオロ・ヴィルノなど、フランスイタリアの現代思想を基礎にしている。1990年代よりネオリベラリズム批判、管理社会批判を山の手緑らと行っている。ナショナリズムや男性中心主義への批判、大学問題なども論じている。ミニコミの編集・執筆などを経て,1990年代後半より、「現代思想」(青土社)、「文藝」(河出書房新社)などの思想誌・文芸誌などで執筆活動を行う。2006年には思想誌「VOL」(以文社)編集委員として同誌を立ち上げた。著書は無産大衆神髄(山の手緑との共著 河出書房新社2001年)、愛と暴力の現代思想(山の手緑との共著 青土社、2006年)、原子力都市(以文社、2010年)、3・12の思想(以文社、2012年3月)など。

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