連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

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 端正な容貌の男性には、何人もの彼女がいる蓋然性(がいぜんせい)が高い。また、魅惑的な女性も然り。

 複数の男と同時につきあう婦女子の理性的でない、その様相も昨今、徒(ただ)ならぬ事象ということではない。

 そもそも人間が複数の生殖相手を求めるのは男女ともに動物学的に捉えれば至極、当たり前なことである。

 なぜなら子孫を残す願望は生物の本能であり、強い雄ほど出生率を高めるために数多くの雌と交尾を繰り返す。

 雌も負けずに強い遺伝子、優れた遺伝子を求めて雄を選別し、子孫繁栄のため性行為を重ねる。

 だが、時に、蛇などの爬虫類で雄との出会う機会の少ない雌は、受精を確実なものにするために雄と出会えば選り好みをせずに交尾し、その精子を繁殖の時期まで貯蔵し、中には数年間精子を貯蔵するものがいる。

 現生人類が属するヒト属の直接の祖先と考えられているアウストラロピテクスは、その数、数百人の集団だったというが、その子孫であるホモサピエンスは現在78億人。

 爆発的増殖の背景にあったのが乱交(乱婚)である。

 乱交とは生物が不特定の異性と繁殖のために交尾が行われる性行動だが、生物界は昆虫、軟体動物、魚類、鳥類、ほ乳類など無数の種が乱交という生殖形態を繰り返しながら種の保存に努めてきた。

 ほ乳類全体の一夫一婦婚の動物の割合は3%程度といわれる。

 つまり97%が一夫多妻婚か一妻多夫婚、または乱婚といった繁殖形態で複数の相手と性交する。

 人間の乱交の定義とは3人以上で制約に縛られず自由に性行為ができる状態をいう。

 だが、その場における共通の要素が共有される顔見知りの集団での性行為やスワッピング行為などは乱交には当たらない。

 スワッピングには文化的な素地がある。それは相手が特定される親密な関係にある相手との享楽、または社交的行動としての健康的な解放であり、お互いの信頼関係を強めるといった要素を有する。

女の競争心が出生率を上げる一夫多妻婚

 生物界の多くの種が一夫多妻婚だが、その繁殖形態は多様性を狭める傾向があり、環境の変化に適応しにくかったり未知の病原体やウイルスに弱くなったりしがちだ。

 恐竜絶滅の原因に「病原説」があるが、これは強い者の遺伝子ばかりが残り、全体の多様性が狭くなったためで、未知の病原体やウイルスの影響により絶滅したとの説がある。

 一般的に文明社会では人は一夫一婦婚という婚姻形態をとっている。それは多様性という観点から見ればメリットがある。

 だが、生きるか死ぬかの激しい生存競争が損なわれることにより弱い遺伝子が継承されるといったデメリットもある。

 いまでも一部の国や地域において一夫多妻婚、一妻多夫婚といった生殖形態は存在する。

 アフリカでは西アフリカブルキナファソ、マリ、セネガルナイジェリアコートジボワールガーナモーリタニア中央アフリカチャド。東アフリカではタンザニアウガンダケニアザンビアマラウイエチオピアジンバブエ。北アフリカモロッコ・・・。

 こうした国々では一夫多妻の婚姻率がいまでも高い。

 その理由として宗教の影響が考えられている。コーランには「男性は4人の妻まで持ってよい。だが妻を公平に愛せない場合は1人にせよ」と記されている。

 アジアでもマレーマレーシア人やインドネシアなどのイスラム社会では基本的に4人の妻を娶ってもいいことになっている。

 実は一夫多妻婚と出生率には関係がある。

 アフリカで一夫多妻制が行われている9カ国においては一夫一妻婚よりも一夫多妻婚の方が女性の出生児数が多いという調査結果がある。

 妻がライバル関係にある他の妻よりも相続などで優位に立てるかどうかは、出産した子供の数による。

 そのため、妻は合理的な選択をした結果、多産になるとJETROアジア経済研究所のリポートが示唆している。

 一方、1人の女性が2人以上の男性を配偶者とする一妻多夫婚はアジアの地域で比較的多く見られる。

 インドのトダ族、チベット族、スリランカのシンハラ人、ネパールブータンモンゴル・・・。

 他のエリアでは北極圏の一部、アメリカ先住民、ポリネシアなど複数の地域や共同体で現在でも伝統的な制度として実在している。

 また、チベットインド南部の一部地域では多夫多妻。つまり乱婚がいまでも存続している地域がある。

 しかし、一妻多夫婚、多夫多妻婚の出生率についての調査結果は出ていない。

太古の時代に父親という概念はなかった

 未開人が狩猟のために駆け回っていた縄文時代以前の日本の社会形態は、安定した家庭生活をもたない性的乱交状態にあった。

 だが、自由奔放な原始生活であっても、自然の中で常に我が身の安全を守らねばならず、狩猟生活が進歩していく段階で、性交の規律が管理される社会へと発展した。

 その背景にあるのが食料の備蓄である。

 時に天候などにより食料や生活物資が得がたくなった時、不猟の時に食料物資の備えが必要となる。

 また、狩猟生活で大物を追いかければ遠方に出かけなければならない。だが、狩猟遠征中に備蓄物資が第三者に狙われる恐れがある。

 そのため貯蔵場所の物資の所有を明らかにし管理することが必要になった。

 それが「私有財産」および「家」の起源である。貯蔵場所は生活の拠点であり住居となった。

「住む」という言葉は昭和40年代以前に刊行された、いくつかの『古語辞典』によれば「男が女のもとに通って夫婦生活をすること」としている。

 それは「婿取婚」時代の原義である。

 古代の日本社会に両親という言葉は存在しない。なぜなら親とは母親だけを指したためだ。

 その頃の風習で夫婦という男女の生活形態はなく、乱婚により父親は不特定だったため、子供を産んだ母親は特定できるが、子の父親は誰か知ることはできなかったのがその理由である。

 つまり、一つ屋根の下に住まう家族といえば母親と子供と母親の兄弟。つまり母系制の家族という形態で、母親が家族関係や相続についてのあらゆる問題に決定的な実権を握っていた。

 やがて対偶婚として、特定の男女が結婚して夫婦となることが一般的に風習化する。ここで、やっと父親という概念が生まれる。

 だが、当時の対偶婚はいわゆる、いまの一夫一婦性ではなく、母系制の伝統を継いだ婿取婚(招婚)、あるいは一夫多妻婚である。

 招婚とは「よばい婚」で「よばい」という言葉は近世において夜這いと書き、男が情交を求めて密かに女の寝所に忍んで行く意味として称されるが、本来は「呼び合う」が、その原義。

 古い時代の「よばい」婚とは、男がいつも女のところへ通っていき、翌朝にはわが家へ帰って行くという合意の上で情事を重ねることを指す。

 この「よばい」婚。2人の逢い引きは性行為を伴うため、なるべく人目を避けたいもので、かつまた愛情の表現の姿や、愛の語らいなども、その状態を人目にさらすことは憚れる。

 しかし、当時の母屋では広い部屋で仕切りもなく、僅かに几帳などの不完全な目隠しがある程度なので、新婚夫婦の密事を隠すことができない。

 そのため母屋以外にもう一棟「妻屋」を建て、そこで新妻は通ってくる夫を待ち受けた。

 この「妻屋」は夫婦の営みの家だが、17世紀以前のヨーロッパでも夫婦の寝室が廊下を隔てて分かれており、夫が夜中、洋灯を携えて妻の寝所を訪れる絵画などが存在する。

 これも一種の妻訪いである。

 飛鳥時代(592~710年)の一夫多妻婚において、妻はその順序から前妻(こなみ)後妻(うわなり)とよばれたが、養老時代(717~724年)には本妻、次妻と称されるようになった。

 だが、これらは妻妾といった序列ではなく、ともに同等の地位と身分をもった正妻である。

 その後、律令の改正により遺産相続の順位が定められると、妻にも等差が設けられ、本妻と妾の区別が生じる。

 生まれた子供が男子なら私有財産の父系相続対象とされ、その継承とともに後継者として意思と仕事を伝えるため実の子であることが必要条件となった。

 そのため、妻の産んだ子が自分のわが子であることが確信できる嫁入婚が婚姻形態の中心となり、妻への貞操が求められた。

 第1回のコラム(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62844)で「全国の農村では、お盆の祭りで一堂に男女が雑魚寝をして乱交を行う風習があり、既婚者の肉体関係をもつ場をも提供していた」と綴った。

 こうした行為は明治になると風紀を乱すと取締りの対象となった。

 一夫多妻婚は明治中頃まで法律で認められたのは江戸時代、武士社会や富裕な商人など妻の他に妾を囲うといった習俗の名残ともいえる。

 明治3年に制定の新律綱領で妻と妾は二親等と同等であると定められたが、これは権利が同等という平等という考えに基づいたものではなく、家を存続させるには妻も妾も同じ地位にして跡取りを産ませようという事情があった。

 だが明治13年、刑法で妾に関する条項へ消え、明治31年、戸籍法で妾は法的な姿が消失し、民法によって一夫一婦制が確立した。

 皇室も伝統的に側室を置いていたが大正天皇以降、側室が廃止となり、一夫一婦主義をとることになる。

 法律は結婚後の浮気を禁じ「貞女は二夫に見えず」といった貞操観念を女性に植え付けたが、既婚男性に推奨した一穴主義は建前的なもので定着することなく、また、男性が未婚女性と不倫することに対し法的には何のお咎めもなかった。

 戦後になっても、そうした風習は続き、名宰相吉田茂は新橋の愛人の芸者に神奈川県大磯の自邸に住まわせ、後に再婚している。

 55年体制最初の内閣総理大臣鳩山一郎の盟友で、自由民主党結党による保守合同の功労者、三木武吉は選挙中の立会演説会で対立候補のから「戦後男女同権となった、いま、あなたは4人も妾を囲っている。かかる不徳な人間が国政に関係する資格があるのか」と質すと次に演壇に立った三木は「私は老いた馬同様、イチモツは、いまや全く役には勃ちませんが、愛人を捨て去るような不人情なことはできませんので、いまも全員も養っております」と胸を張った。

 田中角栄もまた、愛人との間に子供がいたが、当時のマスコミも番記者は担当政治家の女性関係を知っていても書かないという不文律があり、スキャンダルになることはなかった。

 昭和の時代、大企業経営者や大物政治家、地元の有力者に愛人がいても、さほど問題にならなかったのは、愛した女性の生活はすべて保証するという「経済力と責任力に裏打ちされた男の甲斐性」という観念が、まだ社会に浸透していたためである。

 それは力と経験がものをいう動物社会の力学が、権力とカネという人間社会の力学と通じる明証の一つともいえる。

これまでの連載:

「いのち」は処女の陰毛3本で救われる:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63557

神の性合で創造された「日出づる国・日本」:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63404

実はエロ歌だった童謡「ずいずいずっころばし」:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63164

養生医学の領域にあった男女の和合:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63019

性行為はなぜ「エッチ」と呼ばれるようになったのか:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62844

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