韓国人男性であれば誰もが体験する軍隊での服務経験。筆者の朴車運氏も、1990年代後半、21歳の時に軍服務を経験している。その2年2カ月の過酷な体験を振り返る4回目。今回は二等兵時代の理不尽な扱いと全羅南道出身者の横暴について。

JBpressですべての写真や図表を見る

1回目から読む

(朴 車運:ジャーナリスト)

 筆者が後半の教育を終えて実務部隊に配置されたのは、天候が厳しい12月中旬だった。当時、最初の休暇は入隊後100日が経過した後で4泊5日。 現在は携帯電話の使用や外出・外泊、休暇は自由だが、1990年代はそうではなかった。

 実務部隊に配置された私は一番下だった。上は先任兵で埋め尽くされ、筆者より先に到着した同期も何人かいたが、彼らと話をしたり、親しくなったりする機会はほとんどなかった。一般に同月に入隊した人たちのことを同期と呼んでいる。

 二等兵は忙しい。午前6時に起床し、真っ先に寝具の整理を終えなければならず、少しでも休んだり、じっとしたりする姿を見せてはならなかった。先任兵らと電話やPX(売店)に行くこともたまにあったが、二等兵は一人で行動することはできない。 電話をかけるときは先任兵と一緒に行かなければならないし、1人で売店に行くことも、まして自由時間を楽しむことなどまったくできなかった。二等兵は先任兵の顔色をうかがいながら生きてなければならない階級なのだ。 

 朝食は分隊別で、二等兵は最後に入場するが、一番先に食べ終えて先任兵を待たなければならず、午前の勤務でもいつも顔色をうかがっていた。当時、気楽にタバコを吸い、気兼ねなく彼女に電話をかけられないことが最も切実な悩みだった。

 午前と午後、特技別に任務が与えられる。一般歩兵は戦闘訓練と各種部隊の作業を行い、運転兵は輸送部で車を点検し、また運行に投入される。行政兵は事務室で勤務する。午後5時30分になると兵舎に戻って夕食を食べる。夕食後から8時半までは自由時間だったが、二等兵は違っていた。靴を片付け、寝床には入らずに常に待機する。夜は不寝番と警戒勤務が1時間ごとに回ってくる。

 毎週、水曜日は午前のみの勤務で、午後は戦闘体育に充てられる。戦闘体育と言っても中身は主にサッカーで、ボールの位置と関係なく走り回らなければならない。土曜日も勤務は午前だけで、午後には面会や外泊を申し込むことができるし、日曜日は宗教行事に参加するか、面会やサッカーをしながら時間を過ごす。

 二等兵の外泊は先任兵の許可が必要で、外泊したいと言えるような雰囲気ではない。外泊といっても週末の1泊2日を部隊の外で過ごせるだけで、軍部隊の近くを離れることはできないし、ほとんど先任兵らに割り当てられる。

横暴が甚だしかった全羅南道出身者

 1990年代後半は、軍隊内の殴打や暴行など過酷な行為は公式的には禁止されていた。しかし、二等兵や一等兵に対する殴打や暴行は密かに行われていた。中でも輸送部や戦闘工兵、装備課、戦車や自走砲など大きな装備を扱う機甲部隊や、危険物を扱う部隊、儀仗隊や捜索隊、特攻隊といった少数の特殊部隊では、頻繁に発生した。 軍規が強い兵科は、事故予防や緊張感、軍規を維持するためと理由付けた。

 二等兵の時は、よく眠れなかったことが最も大変だった。二等兵は一等兵5号俸が管理する。通常、入隊後から1年程度経過し、上等兵への進級を目前に控えた兵である。その一等兵5号俸は部隊内の序列や一週間分の食事の献立、軍歌などを二等兵に暗記させ、確認する。彼らは主に夜に二等兵を起こしてトイレなどで確認させるが、過酷な行為が伴う場合が多い。

 特に筆者のようなソウル出身者は地方出身者のいじめにあった。軍隊では出身地域ごとに集団が形成され、木浦(モクポ)や光州(クァンジュ)を中心とする全羅南道(チョンラナムド)出身の先任兵の横暴が酷かった。軍隊生活の間、3回ほど殴られたが、そのうち1回はとても理不尽な理由だった。

 実務部隊に到着した夜、光州出身の先任兵が筆者らをトイレに呼んで故郷を尋ねた。「ソウル」と答えると筆者と同期を殴打した。「ソウルのやつらのせいで我々 (全羅南道の人々) はまだ貧しい」と言いながら。

 軍部隊には全羅南道出身者のカルテルが形成されていたことを後で知った。出身地が近い人々が集まって互いを気遣い、他の地域出身を排斥する例が多かった。

 これはいまでも韓国社会でよく目にする光景だ。投票率や民主党・親北親中進歩政党など特定政党の支持を見ればよくわかる。金大中(キム・デジュン)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)、文在寅ムン・ジェイン)は全羅道の被害意識を利用し、支持率を高めて政権を獲得したことで知られている。

 筆者の軍服務は、その金大中政権の時で、軍隊の要職を全羅道出身者が占めていた時代である。また、慶尚道出身者との摩擦が多く、地域感情を煽りもした。

 新兵に全羅南道出身がいればすべてがうまく処理されるが、それが先任兵なら大変な苦労をするという俗説がある。また、韓国で蔓延する地域感情は大半が軍隊から始まるという点も無視できない。 筆者は、直接的な殴打はそれほど多くはなかったが、さまざまな過酷行為で、軍服務後、全羅南道出身者に対するトラウマが生じた。 全羅南道方言特有の荒いイントネーションとふてぶてしさは今でも深く記憶に残っている。

 韓国の軍隊は韓国社会の縮図といわれている。良い人もいるし、悪い人もいるが、自分の利益のためには兵士が受ける被害を何とも思わない人もいる。さらに韓国の軍隊は現代版奴隷制と呼ばれたりもする。

待ちに待った4泊5日の休暇でやったこと

 さて、待ちに待った最初の休暇がやってきた。先任兵たちは、休暇の数日前から後任兵の休暇の諸々を準備する。外出着にアイロンをかけ、軍靴のつやを出す。休暇で必要なもの、交通、上司に休暇届を出す方法、復帰時間などを几帳面に取りまとめる。

 筆者は幸運にもクリスマスの前日に最初の休暇を取ることができた。 100日ぶりに家に帰り、彼女にも会った。人生で最も短く感じた4泊5日を過ごして復帰する時、先任兵たちに頼まれた品物を準備した。

 女性用ナプキンとコーヒーミックス宝くじ数枚、成人雑誌数冊で、いずれも軍隊ではとても大切に使われている。最初の休暇は鮮明に記憶している。母親が作ってくれた食事は軍隊とは比べ物にならないほど美味しかったが、2日間腹痛に悩まされた。復帰日は脱走したいと思うほどだった。

 復帰は午後8時までで、休暇復帰申告を終え、休暇に行く時に返却した銃や軍装などを受け取って手続きが終了する。

 1回目の休暇後に復帰すると、先任兵らは歓迎してくれる。軍人として少しは認められている感じがしたが、二等兵の生活は何も変わらない。 依然として昼夜を問わず、全羅南道出身の先任兵から様々ないじめを受け、一週間分の献立を覚え、走り回らなければならなかった。 休暇復帰後しばらくするとかなりの後任兵が入隊したが、彼らや筆者の境遇は一等兵に進級するまで大して変わらなかった。(続く)

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  性奴隷説を否定した米論文にぐうの音も出ない韓国

[関連記事]

「竹島」と「独島」を憂うヘイトなき韓国人の本音

竹島が映す韓国の「言った者勝ち、やった者勝ち」

新型コロナ対策で注射器メーカーを視察する文在寅大統領(写真:YONHAP NEWS/アフロ)