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◆右から左までみんな司馬遼太郎を担いでいた
―― 佐高さんは著書の中で司馬遼太郎を批判しようとした時に出版社から止められたと書かれていますが、その時のことについて詳しく教えてください。

佐高信(以下、佐高) 『噂の真相』に司馬遼太郎の批判記事を書いていて、それを他の出版社から出す時評集に入れようということになったんです。しかし、編集者司馬遼太郎批判の記事だけ外してくれと言われた。そういうことが一度や二度ではなく何度もありました。対立すると言われている朝日新聞から産経新聞までみんな司馬遼太郎のことを持ち上げている状況でしたから。司馬批判をしている『司馬遼太郎と藤沢周平』という本は一九九九年に光文社から出したんですが、光文社は昔、有名になる前の司馬遼太郎の作品を蹴飛ばしたらしい。それで司馬遼太郎光文社から作品を出さないということになっていたようです。だから光文社は批判本が出せた(笑)司馬遼太郎と利害関係のあるほとんどのメディアは司馬批判をできなかったんです。

 この本の元になる原稿を光文社の『宝石』に書いたんですが、小松左京さんから突然自宅に電話がかかってきました。「佐高さん、よく司馬批判を書いたね」と。それで改めて、ああ、司馬遼太郎というのはメディア業界全体のタブーなんだなと思いましたね。

 司馬遼太郎藤沢周平の最大の違いは何かと言うと、女性の読者が司馬にはほとんどいないということですね。藤沢ファンは私の周りだと落合恵子さんとか宮部みゆきさんとか吉永みち子さんとかがいます。司馬作品は股間に何かぶら下げている人の喜ぶ作品なんでしょう。司馬は差別や格差に鈍感なんです。女の人っていうのは自分たちが社会から差別されているから、そういう目線に敏感ですよね。

 司馬の小説には体育会系の部室みたいな空気がある。読む栄養ドリンクみたいなものかもしれません。本当に健康になったわけじゃないんですけど、一瞬、元気になった気がするだけということですね。もう一つ言うと司馬の目線は上から見た統治者の目線です。一方、藤沢は下から目線で社会党共産党政治家が好みますね。司馬は与党で良くて体制内革新と言ったところ。

 時代小説の本流は長谷川伸や子母澤寛が描くような敗者の歴史です。ところが司馬遼太郎は勝者の歴史を描いている。時代小説のなかでは「外れ」にいるんです。敗者のエネルギーや恨み、復讐の念を描くことはない。だから、司馬は悪人を描かない。

◆司馬には屈折がない
―― 悪人を描かなかったのか、描けなかったのかどっちだったんでしょう?

佐高 それは描けなかったんでしょう。司馬には屈折がない。お坊ちゃん的な雰囲気を感じる。世の中は善意で何とかなると思っている。『アーロン収容所』の会田雄次さんはその点、司馬を厳しく批判していました。善悪を超えたものが世の中にはあるんだと。会田さんはアーロン収容所で経験した辛い歴史をきちんと書きましたから。司馬が戦争で辛い思いをしなかったとは言いませんが、そうした暗い部分をきちんと見ようとはしなかったんでしょうね。司馬は最後までノモンハンを書かなかった。

 城山三郎さんと吉村昭さんは司馬にすごく批判的でした。城山さんは公には言わなかったけど、「司馬遼太郎の目は神の目だ」と痛烈な批判をしていました。下界でうごめく人間の目線ではないと。吉村昭さんは司馬遼太郎賞を断りましたね。「司馬遼太郎の作品を読んでないから」という理由だと伝わっていますが、すごいことですよ。城山、藤沢、司馬は歳が近くて、みんな戦争に翻弄されたけど、山さんは兵隊の立場に立って小説を書いている。ところが、司馬は神の目線というか、ビルの上から見た目線ですね。そこには下界の人のため息やうめき声が届くことはない。だから、敗者や女性を書けない。

◆文芸誌から経営誌に載るようになった
―― 小説を読む読者の多くが兵隊側の人間のはずですが、なぜリーダーの目線で世の中を見た司馬の小説が受けたのでしょうか。

佐高 小説じゃなくて擬似歴史として読んでいるんでしょう。「私だけが知っている本当の歴史の話をしてあげよう」という語りにみんなやられてしまう。史実と物語がごちゃまぜになっていて、歴史学者の色川大吉さんはこれをすごく批判しています。 

 知識を詰め込むことが習い性になっている受験エリートほど司馬に引っかかる。知識というのは知っていることが大事なんじゃなくて、判断することの材料のはずです。しかし、司馬の小説の読者は「知っていることがいいことだ」となってしまっている人が多いと思います。

 私は経済誌の記者だったので何人もの経営者を見てきました。愛読書に司馬遼太郎をあげる経営者は多かったですが、「ああ、あいつが愛読書としてあげるんなら、司馬遼太郎ってのはろくなもんじゃないな」と逆に思いましたね(笑)

 政治家なら小渕恵三元首相や竹下登元首相が司馬シンパでした。小渕さんなんて実際に司馬遼太郎に会いに行ってましたから。政治家や経営者にとってのお守りみたいなものなんでしょう。司馬遼太郎が好きだと言っていれば、自分も名将になった気分になれる。そして、そうした有力者からのすり寄りを司馬自身も拒否しなかった。
 井上ひさしさんと司馬を巡って激論したことがあります。井上さんは「藤沢周平司馬遼太郎も両方いい」と言うから、「私はそれはおかしい、二人は全然違う」と言って大激論しました。井上さんは苦い顔をしていましたね。

―― 司馬遼太郎エンタメ作家のはずでしたが、いつから教養小説のように扱われるようになったんですか?

佐高 直木賞を獲った『梟の城』の頃は忍者モノでエンタメ作家という位置づけだったと思います。しかし、そこは新聞記者としての嗅覚が働いて、エンタメ作家路線よりも歴史小説の大家という路線がいいと思ったんじゃないでしょうか。文芸誌より『プレジデント』みたいな経営誌に載っている人になっていったということですね。それで経営者に好かれるわけです。

司馬遼太郎すら読まれなくなった現代……
―― 90年代の時点で政治家や経営者が司馬遼太郎を読んで元気を出していたわけですが、あれから20年経って、司馬遼太郎すら読んでいない人が増えています。今、司馬遼太郎がいた位置には誰がいるんでしょうか?

佐高 政治家や経営者の質も下がっているから、百田尚樹さんとか櫻井よしこさんとかになっちゃうんでしょう。人間の質も作品の質も下がっていますね。

―― 小説で歴史を学ぶという態度は司馬遼太郎からですか?

佐高 そういうわけではありませんが、歴史物語にある種の人工甘味料を入れて、読みやすくしたのは司馬遼太郎からでしょう。それまでの長谷川伸の『相楽総三とその同志』や江馬修の『山の民』は面白いけれどもそう簡単には読めません。

◆天皇に触れなかったから、司馬は受けた
―― 当時、司馬遼太郎のことを表立って批判していた著名人はいますか?

佐高 大岡昇平さんや色川大吉さんといった歴史の玄人からの評判は悪かったですね。

―― 司馬遼太郎を批判しようとすると出版社から止められたわけですが、どういう理屈でストップがかかるんですか? 司馬遼太郎本人が批判を止めていたんですか?

佐高 理由は単純です。司馬遼太郎の本が売れるから。そして、司馬という人は批判を嫌うからです。本人がどうこうではなく出版社の忖度ですね。忖度と商業主義が生んだタブーです。

―― 逆に司馬遼太郎を批判することで話題になるということはなかったんでしょうか?

佐高 それはないですね。誰でも御神体は汚されたくないということです。怒る人の方が多いですから。司馬批判をしたら、読者からものすごい長文の反論が来ました。司馬遼太郎ファンは真面目ですね。僕はそうした手紙も一通一通最後まで読みましたが、この熱意の壁を破るのは大変だと思いました。こういうのは作家本人が「批判大いに歓迎です」と言わないと、出版社はできないですよ。

―― 司馬遼太郎は「天皇を抜きにすると、日本の歴史がよく見える」と言っています。佐高さんは「だからこそ司馬は売れたんだ」と書いていますが、天皇を外した歴史などあるわけがないじゃないかと素人目にも思います。なぜ読者には受けたんでしょうか?

佐高 天皇については触れないことが読者を安心させるんでしょうね。これがまさに人工甘味料の効果です。司馬は天皇を避けたからこそ、多くの人に受け入れられた。私は天皇制を肯定した民主主義はありえないという主張ですが、そこをごまかしている人の方が受け入れられるということなんでしょう。天皇に触れると、みんな不安になってしまうのかもしれません。司馬の小説は主に明治維新ものです。そうするとどこかの勢力が朝廷を担ぐわけだから天皇批判は書けませんよね。朝廷を批判するとなると、根本的に歴史観を変えないといけませんから。

―― そこでむしろ積極的に天皇支持を打ち出していたら、また変わっていたんでしょうか?

佐高 支持まで行かなくても黙認というのが一番強いんです。作家も読者も触れたくないということですよ。「あなたは彼女のことを好きなの?好きじゃないの?」と突きつけられるとしんどいでしょう。決断せずに先送りするのが楽なんです。難しいことには触れたくないというのが時代の空気だったんでしょうね。本当は知識というのは判断を迫るものなんですけど。判断を迫らない「知識」を提供したのが司馬です。
 そういう意味で司馬遼太郎小説家というより祭文語りですね。歴史もどきの話を辻辻で話して渡り歩いていた人です。話を聞くと、いかにも知識が与えられて賢くなった気がして、自分も知識人になったような錯覚を起こす。

半沢直樹司馬遼太郎作品の共通項
―― 最近サラリーマンに受けている小説で浮かんだのが『半沢直樹』だったんですが、これは司馬遼太郎の目線とはだいぶ違うと思うんです。悪い上司をやっつけていくという話がサラリーマンに受けているというのは時代が変化したんでしょうか。

佐高 『竜馬が行く』だって若者の反抗物語です。ただ、それも枠内の反抗でしょう。『半沢直樹』には社会的な視線というものはあまりないですよね。メッセージがない。企業小説は今までもたくさんあったけれども、『半沢直樹』は変種みたいな感じがします。同じ企業小説でも城山三郎さんにはもっと社会性がありました。そういう意味では『半沢直樹』は司馬遼太郎を受け継いでいるのかもしれない。
 変な上司がいて、それに対する若い青年が活躍する物語というのは『竜馬が行く』の路線を引き継いでるとしか思えません。ものすごく内向きな感じがします。システムの問題を描かずに、善人悪人のレベルに矮小化してしまっている。でも、現実はシステム次第で人は善人にも悪人にもなるんだということが抜け落ちてますよね。

―― 歴史書として司馬遼太郎を読んでも、本当の血なまぐさい歴史は分からないということですね。

佐高 司馬は一時の勝者しか描いていませんから。歴史というのは未来を考える時に煩悶するために学ぶものですが、司馬のように安心するために使ってはいけないんです。彼の小説がリーダーたちの慰撫に使われてきたという側面はあるでしょう。

1月25日、聞き手・構成 杉本健太郎)

さたか・まこと――1945年山形県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。高校教師、経済誌編集者を経て評論家に。主な著書に『偽りの保守・安倍晋三の正体』(岸井成格氏との共著/講談社+α新書)、『安倍「日本会議」政権と共犯者たち』(河出書房新社)など

<記事提供/月刊日本2020年3月号

【月刊日本】
げっかんにっぽん●Twitter ID=@GekkanNippon。「日本の自立と再生を目指す、闘う言論誌」を標榜する保守系オピニオン誌。「左右」という偏狭な枠組みに囚われない硬派な論調とスタンスで知られる。

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