(作家・ジャーナリスト:青沼 陽一郎)

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 放送事業関連会社の「東北新社」に勤める息子が利害関係のある総務省幹部を接待していた問題は、ついには“お気に入り”とされる山田真貴子内閣広報官が総務審議官時代に7万円を超える接待を受けていたことが発覚して、膝元にまで飛び火した菅義偉首相。いつの間にか息子が政権にダメージを与えている様を見て、ギリシャ神話のエディプス王が頭に浮かんだ。父王に捨てられたエディプスが、知らないうちに父王を殺し、王となって生母である先王の王妃を妻とする物語だ。フロイトの説くエディプス・コンプレックスに通じる神話で、大きな権力を手にしていく父親に、息子のほうでもどこかでコンプレックスを抱いていたのかも知れない。

違和感多い首相発言

 その菅首相が就任してから、来月で半年になるが、その発言を聞いていると、どうも言葉に違和感を覚えることが少なくない。もっと言えば、自分の話した日本語の意味がわかっているのか、首を傾げたくなる。その言葉を、いくつか指摘してみる。

 まず、菅首相がやたらに使う「スピード感」という言葉。例えば、今年1月の今国会冒頭の施政方針演説でも、はっきりこう述べている。

「まずは、一日も早く(新型コロナウイルスの)感染を収束させ、皆さんが安心して暮らせる日常、そして、にぎわいのある街角を取り戻すため、全力を尽くします。

 未来への希望を切り拓くため、長年の課題について、この四カ月間で答えを出してきました。皆さんに我が国の将来の絵姿を具体的に示しながら、スピード感を持って実現してまいります」

 この「スピード感」という言葉が、内閣の共通認識のように、他の閣僚も使うようになった。最近では、東京オリンピックパラリンピック組織委員会の橋本聖子会長が就任した直後の会見でも「スピード感」という言葉を用いていた。

 だが、この「スピード感」とは、なにを指す言葉なのだろうか。「スピード感を持つ」とはなにか。

 そもそも「スピード感」という言葉は、辞書にはない。「スピード」と「感」というふたつの言葉をくっつけて成り立っている。「解放感」「至福感」といった具合だ。

 それも「感」という言葉は接続語的に用いて「・・・という感じ」という意味であって、解放された感じ、至極幸福な感じを味合うもので、あくまで個人の感覚を意味している。「スピード感を味わう」というのなら、ジェットコースターや高速列車などに乗った個人の体験になる。「解放感が湧く」と言っても「スピード感が湧く」とは言わない。

「迅速に」ではないのか

 同じように菅首相は「緊張感を持つ」という言葉もしばしば使う。たとえば、小説などを読んでいて、命が危ういような場面で「緊張感が走る」と用いられることがある。ひとりでなく仲間がいる時には、その場の共通認識、空気を表すことはわかる。だが、それもその場の雰囲気のことで「スピード感が走る」なんて言わない。

 あくまで「○○感」とは、結果を受けた状態からくる言葉で、「スピード感」は日本語としてそぐわない。これからの施政において「スピード感を持って実現する」などという言葉使いは、日本語としておかしい。

 仮に、仕事の早い人を「あの人にはスピード感がある」と評するのだとしても、自分から「スピード感を持つ」とは言わない。それだと、傍から見て作業がものすごい遅く感じられても、本人が「スピード感をもってやっています」といえば、言い訳が成り立つ。

 あえて菅首相の意図を汲むのであれば、この場合は「迅速に」のひと言で済む。まして政権を担う人物が常に緊張しているのは当たり前であって、わざわざ「緊張感を持つ」などと口にすることでもない。

「収束」と「終息」、混同していないか

 次に、よく使う「収束」という言葉。施政方針演説でも、新型コロナウイルスについて「一日も早く感染を収束させ」と述べている。因みに「終息」という文字もあるが、官邸のHPで確認すると、菅首相は「収束」をあてはめている。と、するとこの言葉の意味がますますわからなくなる。

 2002年の秋に中国広東省で発生したとされる新型コロナウイルスSARS重症急性呼吸器症候群)」は翌03年に中国本土、香港、台湾で猛威を振るったものの、同年7月5日には市中からウイルスが消えたとして、WHO(世界保健機関)が「終息宣言」を出している。この「終息」とは、戦乱や疫病などが絶えてなくなることを意味している。

 ところが「収束」といった場合、混乱していた事態や事件がおさまりをみせることを意味する。これだと、緊急事態宣言を解いたところでも「収束」した、と評価することができる。だが、それでは国民は納得しないはずだ。

 そうすると「一日も早く感染を収束させる」といった場合の「収束」とは、どのような状況や状態を指すのか、さっぱりわからなくなる。「将来の絵姿を具体的に」示していないからだ。ものすごく曖昧に受け流されている。

 ただ聞いている側はいちいち字面を追わないから、「終息」の意味で受けとめているのかもしれない。明らかなミスコミュニケーションが生じていることになる。政府は「ウィズ・コロナ」「新しい生活様式」を標榜するのだから、「終息」の意図はまったくないはずだ。

 ところがここへ来て、本人も「終息」と取り違えているのではなか、と疑いたくなる事情がある。

間違っているのか、あるいは自分に都合よく解釈しているのか

 菅首相はことあるごとに、たとえば施政方針演説でもこう断言している。

「夏の東京オリンピックパラリンピックは、人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として、また、東日本大震災からの復興を世界に発信する機会としたいと思います」

 20日未明、主要7カ国(G7)のオンライン首脳会議(サミット)を終えたあとの菅首相は、記者団にこう述べている。

東京オリンピックパラリンピックでありますけれども、今年の夏、人類がコロナとの戦いに打ち勝った証として、安全・安心の大会を実現したい、そうしたことを私から発言いたしまして、G7首脳全員の支持を得ることができました。大変心強い、このように思っています」

 ところが、外務省がHP上で公表している「G7首脳声明」を見ると、末尾にたった1文でこうあるだけだ。

We resolve to agree concrete action on these priorities at the G7 Summit in the United Kingdom in June, and we support the commitment of Japan to hold the Olympic and Paralympic Games Tokyo 2020 in a safe and secure manner this summer as a symbol of global unity in overcoming COVID-19.

 併載されている外務省の「仮約」はこうだ。

《我々は、6月の英国におけるG7サミットにおいてこれらの優先事項についての具体的行動に合意することを決意し、新型コロナウイルスに打ち勝つ世界の結束の証として今年の夏に安全・安心な形で2020年東京オリンピックパラリンピック競技大会を開催するという日本の決意を支持する》

 菅首相が言うように「東京オリンピックパラリンピックは、人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証」ではなく、「新型コロナウイルスに打ち勝つ世界の結束の証」として、あくまで「日本の決意」がG7に支持されているだけだ。打ち勝った結果ではなく、未来への結束の証としているのだから、まったく意味が違う。菅首相は、自分の言葉を誤っている。あるいは、都合よく勝手に解釈している。

言葉明瞭、意味迷妄

 組織委員会は25日、来月25日から福島県をスタートする聖火リレーのコロナ対策のガイドラインを発表した。

 そこでは聖火リレーの様子はインターネットのライブ中継を見ること、著名人ランナーは密集対策ができる場所を走ること、沿道などではマスクを着用し、応援は大声ではなく拍手などで行うこと、1日の最後の式典の会場は事前予約制とし、過度な密集が発生した場合はリレーを中断する、などとしている。

 これでは、オリンピックへの気運を盛り上げるために全国をまわるはずが、なんのための聖火リレーなのか、これまた意味がわからない。「打ち勝つ」どころか、新型コロナウイルスに怯えながら、避けて通り過ぎようというだけだ。首相の言っていることと、現場でやっていることが全く違う。

 はっきり言って、日本語の使い方がおかしい。言葉は明瞭であっても、意味が混沌として、時として迷妄している。それでは国民との意思疎通などはかれるはずもない。

 日本の首相であるのなら、もっと日本語を大切にすべきだ。それができないのなら、受け取る側が首相発言の真意を厳しくチェックしないと。コロナ対策でも、東京オリンピックでも、後の祭りでは済まされないのだから。

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