過去の大戦におけるイタリア海軍艦艇の戦いぶりを見てみると、小船が大戦果を挙げたという例が多々あります。そのなかでも「最大の戦果」といえるのが第1次大戦における魚雷艇の快挙です。

第1次世界大戦で誕生したイタリアの「新兵器」

第2次世界大戦時のイタリア海軍には、「戦果の大きさと搭乗員の勇気は、艦艇の排水量に反比例する」とたとえられるほど、小型艦艇や少人数での奇襲攻撃で大きな戦果を挙げた実績があります。とはいえ、その先駆けといえるのは、第1次世界大戦において1隻の新型魚雷艇が約1600倍の排水量を誇る戦艦を撃沈した例でした。

イタリア第1次世界大戦に参戦した1915(大正4)年5月、敵のオーストリアハンガリー二重帝国海軍は、旗艦「フィリブス・ウニティス」(排水量2万トン)など、弩級戦艦4隻を有する強力な艦隊をアドリア海に展開していました。

そのためイタリア海軍は、戦力を温存するために自身の弩級戦艦6隻をターラントやナポリといった各海軍基地に留め置く、いわば消極策を選びます。一方で、掃海艇や水雷艇、駆逐艦などの小艦艇は総動員し、敵であるオーストリアハンガリー海軍をアドリア海に面した各港に封じ込める作戦を取ったのです。

具体的には、アドリア海の出入り口といえるイタリア半島の踵の部分と対岸のアルバニアに挟まれたオトラント海峡に、小舟や漁船を多数出し、各々をワイヤーや防御ネットで繋ぎ、機雷を広範囲に布設することで敵潜水艦や艦艇を塞き止める海の防衛ラインを作り上げます。さらにイタリア海軍は海峡パトロールを行うことで、厳重な監視態勢を構築しますが、それに用いられたのが、小型艦艇群と新たに加わった新型の「M.A.S.艇」でした。

M.A.S.艇とはヴェネチアの造船会社S.V.A.N.社が1915(大正4)年3月に開発した小型の武装艇です。同社が有していた地中海での民間高速プレジャーボート製作の経験を活かしたもので、全長16m、排水量12.5トン、8人乗りの流線形をした小さな船体ながら、魚雷または機雷を搭載して、最高時速43kmを出す新兵器でした。

使い方を変えて大成功したマイクロ武装艇

しかし対潜水艦用として用いるには、搭載する225馬力エンジン2機が出す騒音が深刻な問題となっていました。なぜならば、潜水艦を探し出す(索敵)には、おもに潜水艦スクリュー音をキャッチし、居場所を特定できる能力が必須だからです。

そこでM.A.S艇は、対潜水艦用よりも対水上艦船用がメインとなりました。戦法も、敵艦船に対して搭載する魚雷で肉迫攻撃を加えてから、その脚力を活かして急速離脱するというのが編み出されるようになります。のちに船体が大型化し、魚雷艇タイプのM.A.S.艇20隻が発注され、1916(大正5)年には最初の部隊も編成、アドリア海で哨戒任務に就きます。

同年6月には南部のブリンディシを出航した「M.A.S.5」艇と「M.A.S.2」艇が、アドリア海の対岸のドゥラッツォ(現・ドブロフニク)湾を襲撃。オーストリアハンガリー陸軍の汽船「ロクルム」(排水量920トン)を撃沈して、最初の戦果を挙げました。その2週間後にも、同じ場所で汽船「サラエボ」(排水量1100トン)を沈め、短期間で兵器としての有効性を確立しています。

それから半年後の12月10日未明、アドリア海の最奥部といえるトリエステ港(当時はオーストリアハンガリー帝国領)へ侵入した、ルイージリッツオ中尉が率いる「M.A.S.9」艇と「M.A.S.13」艇は、オーストリアハンガリー海軍の海防戦艦ウィーン」(排水量5800トン)を撃沈する快挙を挙げました。両艇は、闇に紛れてゆっくり近付くと、三重に張られた防御ワイヤーを水中カッターで突破、全速力で敵艦200mの至近にまで迫ると、リッツオ中尉が乗る「M.A.S.9」艇が魚雷2発を命中させ、「ウィーン」を港の底に沈めたのです。

小型艇による弩級戦艦撃沈の大金星

さらに第1次世界大戦末期の1918(大正7)年、M.A.S艇は“超大物”といえる敵艦を撃沈する大戦果を挙げています。6月10日リッツオ大尉(中尉から昇任)は「M.A.S.15」艇に新たに乗り込み、「M.A.S.21」艇を率いてクロアチア沖のプレムーダ島付近で敵のオーストリアハンガリー艦隊に待ち伏せ攻撃を仕掛けます。両艇は、明け方に敵艦隊を発見すると、爆音を轟かして小島の陰から巨大戦艦を目がけて突進、魚雷戦を開始したのでした。

まず「M.A.S.21」艇が最後尾を進む弩級戦艦「テゲトフ」に魚雷を放ちますが、1本は目標に到達せず、残る1本は不発でした。しかし、リッツオ大尉の「M.A.S.15」艇は、先頭を行く艦をすり抜けた後で右にターンし、艦隊中央を進む戦艦「スツェント・イストファン」(英語読みセント・イシュトヴァーン)の右舷に取り付きます。そして追い抜きざまに放った魚雷が、敵艦に命中し爆発。「M.A.S.15」艇は急転回して戦艦の副砲の反撃を避け、高速を活かして追っ手の水雷艇を振り切り見事、生還します。

被雷した戦艦「スツェント・イストファン」は浸水に耐えきれず約3時間後に横転沈没。乗組員1000名の大部分は脱出を果たしましたが、機関室の89名は艦と運命を共にしたといいます。

こうして小型艇による排水量2万トンクラスの弩級戦艦撃沈という前代未聞の大金星を挙げた「M.A.S.15」艇は、その後ローマのヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂に展示され、今もイタリア海軍史の金字塔としてその勇姿を伝えています。

このような実績を作ったからこそ、第1次世界大戦後もM.A.S.艇は魚雷艇として進化を続けます。そして第2次世界大戦でも用いられ、遠くはロシア戦線の黒海やラドガ湖に派遣され、そこでも戦果を挙げ、イタリア海軍の「搭乗員の勇気」を示し続けたのでした。

アドリア海で任務に就くM.A.S.艇。後に大戦果を挙げた「M.A.S.15」艇とも。この新兵器は、潜水艇の様な彎曲した甲板デザインを持った新発想の高速攻撃艇であった(吉川和篤所蔵)。