(乃至 政彦:歴史家)

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伊達と上杉が同じ「竹に雀」の家紋を使っていることは、歴史ファンによく知られている。もともと伊達の家紋は「竹に雀」ではなく、まったく別の家紋を使っており、戦国時代のある事件をきっかけに、「竹に雀」を家紋と定めるようになったのだ。謙信の越山の真相に迫った話題の書籍『謙信越山』の著者である乃至政彦氏が、その経緯と上杉謙信の家紋意識を考察する。(JBpress)

なぜ上杉と伊達の家紋は似ているのか

 何年か前のこと。旅行から帰ってきた家族がお土産をくれた。

「あなた、謙信好きでしょう? だから上杉の家紋のシールを買ってきたよ」

 もらったのは「竹に雀(竹の丸に二羽の飛び雀)」の家紋シールである。観光地のお土産屋で売っていたという。上杉の家紋が「竹に雀」なのは有名だ。

 だが、要注意である。よく見るとそれは上杉の家紋ではなく、伊達の家紋だったのだ。実は、伊達も上杉と同じ「たけにすヽめ」デザイン(『伊達家文書』3230号)の家紋を使っていて、デザインが微妙に違っているのだ。

 ここから本題に入らせてもらおう。伊達の家紋はもともと「竹に雀」ではなく、まったく別の家紋を使っていた。

 それがある事件をきっかけとして、「竹に雀」に改めることになった。今回はその経緯と、上杉謙信の家紋意識を見ていこう。

時宗丸事件

 謙信がまだ少年の頃、越後守護の上杉定実は男子がなく、断絶の危機を迎えようとしていた。そこで定実は養子を欲することになる。当時、守護代であった長尾晴景(謙信の兄)は主君である定実のため、奔走を開始した。

 定実と晴景は、国内の名族を養子にするのは政治的に問題が多いと考えたらしく、奥州に目を向けた。そこに伊達稙宗がいた。稙宗は越後の諸豪と交流が深く、若い息子がたくさんいて、双方の話し合いはトントン拍子に進んだ。

 だが、反対派もいた。越後国内の一部領主と、稙宗の長男伊達晴宗伊達政宗の祖父)である。

 反対派の抵抗により、養子の話は数年の停滞を見た。それでも粘り強く交渉が続けられ、天文11年(1542)までに賛成派が圧倒的多数となったので、養子の移送が決められた。選ばれたのは、稙宗三男の時宗丸である。

 同年6月、稙宗と時宗丸のもとへ、迎えの使者が来訪した。近世伊達家の記録では、上杉家からの引出物としてこの時、家紋を譲られたという。

 ついでその記録を見てみよう。

伊達天文の乱

 この時のことを、近世(=江戸時代)における伊達家の文献2点は、次のように伝えている。まず原文を紹介してから、その内容を簡単に説明しよう。

「大楽(平子豊後守。上杉家臣)と申す山伏を遣わされ、宇佐美長光の御腰物、実の諱の字、竹雀幕紋を遣わされ、越後へ御取り移りなされるべきところ──」(『蟻坂文書』)

「天文十一年壬寅六月、越後より直江(実綱)・大楽、両使を令、公子五郎(=時宗丸)殿を迎へ来り、贈るに重代の腰刀宇佐美長光竹に雀の幕を以し、且つ実の一字をり、約して上杉兵庫の頭・定実、養子と為、因て六月廿三日を以発遣を定む」(『伊達正統世次考』)

 これらは要するに、越後方が時宗丸の迎えを遣わした時、引出物として、宝刀「長光」と、定実の1文字「実」と、家紋の「竹雀幕」を贈ったと記している。

 ところがその数日後、これに反対する稙宗の長男・晴宗がいきなり父を監禁した。ここに「伊達天文の乱」という父子相剋が発生する。稙宗は脱走して自分の陣営にある者たちと共に交戦姿勢を見せた。この御家騒動で、養子交渉は座礁に乗り上げ、定実は養子を迎えられなくなってしまった。

 これから6年後の天文17年(1548)、稙宗が引退を宣言する形で晴宗と和睦する。晴宗の勝利に落ち着いたのだ。すでに兄のもとに引き取られていた時宗丸は、元服して伊達実元を名乗り、伊達家のため忠節を尽くすことになる。その2年後、上杉定実は跡継ぎのないまま病没。越後上杉家は断絶することになった。

 こうして養子交渉はすべて無に帰したのである。

上杉の家紋を流用した晴宗の事情

 さて伊達晴宗の手元には、名刀「宇佐美長光」など、上杉家からの引出物が残っていた。これらは父からの戦利品でもある。

 そこで晴宗は、この家紋を自分のものとして使うことにしたのだという。

 戦国時代から200年以上後に編纂された『寛政重修諸家譜』によると、かつて伊達家では足利将軍から賜った「二端頭(にたんかしら)」を改変して「三引両(みつびきりょう)」を家紋としていたが、晴宗の代になり、「また(これを改めて)竹に雀を用ひ」始めたと伝えられている。

 ただ、どうして晴宗が上杉の家紋を使う気になったのか、これがよくわかっていない。一応、時宗丸が越後に入らず実家に留まったこと、そのため越後上杉家は後継者を得られず、その家紋を受け継ぐ者がなくなったことで、私的に流用しても大丈夫そうな材料が揃ってはいる。

 だが、この家紋は定実の家督を相続する時宗丸個人に与えられたものであり、晴宗または伊達家そのものに与えられたわけではない。それがいつのまにか有耶無耶になり、晴宗が独断で流用したような話になっている。

 伊達家は「竹に雀」をそっくりそのまま使うのではなく、いくらか手を加えて、オリジナルの色を強くした。冒頭で示したように、現代でも見分けがつかない人がいるけれども、並べて見比べてみると、両者のデザインはやっぱり別物である。なので上杉の家紋ではないと言い張ることが可能である。

 ただ、それでも伊達で代々使われてきた家紋をあっさり変えてしまった動機は、判明していない。ここで傍証材料がある。越後の上杉謙信である。

上杉謙信の家紋に対する思い

 上杉謙信は、もとの名前を長尾景虎という。守護上杉家の家老を勤める長尾一族の1人で、しかも複数の兄がいる末弟に過ぎなかった。ところが兄たちは相次ぐ謀反にまともな対応ができなかったため、実力と人望のある謙信が長尾一族の当主に就任することになった。

 それから10年以上過ぎ、謙信に転機が訪れる。関東管領の上杉憲政から家督を譲られ、上杉一族の仲間入りを果たしたのだ。

 こうして謙信は、長尾一族の当主であり、上杉一族の当主でもあるという奇妙な立場に立つことになった。ところで、問題は家紋である。

 さて謙信は、長尾と上杉どちらの家紋を使うべきなのだろうか?

大事なのは格

 家格でいうと、上杉の方が長尾より高い。ならば答えは一択だと思う人は多いだろう。ドラマや漫画の謙信は「竹に雀」の家紋を使っている。

 だが、実際にはどちらの家紋も使わなかった。「謙信に旗なし」と言われ、後継者である上杉景勝も謙信同様、旗や幔幕に家紋を使わなかった(『管窺武鑑』)。謙信と景勝の軍事史料を見ても、そこで使われているのは、毘沙門天や紺地日の丸の紋様であって、家紋は一切使われていない。ぎりぎりで一部の遺品に、家紋を施しているのを確認されているだけである。

 これには理由がある。

 謙信が長尾の当主になったのは、かなり不本意な事情によるものだった。黒田秀忠という権臣の横暴を当主である兄の長尾晴景が抑え込めなかったため、ほかの家臣たちに擁立されたのである。その後、上杉の当主になったのも、関東の諸豪に強いられてのものだった(2月25日発売の『謙信越山』に詳述)。

 自分から求めて就いたわけではないので、途中で当主を辞めたいと言い出して隠退を図ったり、上杉の家督継承は、あくまでも代打であるという意味で自分は「名代職」だなどと述べたりしている。謙信にしてみると、やりたくてやっているわけではないので、これを「野心による簒奪だ」と誤解されるのだけは避けたかったことだろう。

 そこで、惣領の証となる家紋の使用を嫌がったのではなかろうか。

 兄の晴景と謙信は、過去に抗争した形跡がある。この不本意な争いの時、謙信はまだ兄に従属する立場であった。だから、長尾の家紋を勝手に使うことはできず、当主となってからもそのポーズを通したものと思われる。

 また、上杉の家督を譲られた時も、すでに朝廷と幕府から「紺地日の丸」と、「五七桐紋」の使用許可を貰っていた。どちらも上杉の家紋より、格が上の紋様である。だからわざわざ簒奪者と誤解されるリスクを冒してまで上杉の家紋を使う必要がなかった。このため謙信はどちらの家紋も使わなかったのである。

 それでも大将ならば、軍旗と幔幕に大将の居場所を示すオリジナルのシンボルが必要だ。そこで謙信は、自分専用の個人的デザインを採用した。「毘沙門天」を示す『毘』旗や、「懸かれ乱れ龍」と呼ばれる『龍』旗である。

伊達晴宗が「竹に雀」を使った理由

 上杉を継がなかった時宗丸こと伊達実元は、稙宗と晴宗がまだ争っていた時期である天文16年(1547)10月、すでに元服して21歳の若武者として、兄の晴宗の下命を受け、西根の地を攻撃した(『伊達正統世次考』)。どうやら時宗丸こと実元は伊達天文の乱の終わり頃までに、稙宗のもとを離れて兄の晴宗のもとへ転属したようである。

 ここまで稙宗は伊達の家紋を旗や幔幕に使っていただろう。対する晴宗は、同じ家紋の使用を遠慮したのではないだろうか。その理由は、敵味方ともに同じデザインを使っていては軍事的混乱を招くことと、伊達家の内部抗争があからさまで外聞が悪いばかりか、互いに大義を薄めてしまいかねないことにある。これなら自分から家紋を使わないほうが得策である。

 そこへ弟・実元が父を見限って、自分の側に転属してきた。これをきっかけに、実元が許された「竹に雀」の旗を流用したとすれば、その経緯を整合的に理解できる。そうでもなければ、いくら名家のものとはいえ、他国の家紋を自分のものにしてしまうのは、不思議すぎるからだ。

 稙宗と晴宗は、時宗丸こと実元を越後に「送り出す/送り出さない」で対立した。稙宗陣営にすれば、手中の時宗丸の存在そのものに大義の源泉があった。それが晴宗の側に移ってしまうと、稙宗は大人気ない親子喧嘩をしているだけの老人となってしまう。

 そこで晴宗は、この相剋を早く終わらせることを考えて、「時宗丸こと伊達実元は我が元にあり」と顕示するべく、「竹に雀」を自らの紋様として掲げたのではないだろうか。

 そして稙宗と和解して天文の乱を克服した晴宗は、伊達家の惣領として歩みを進めていく。晴宗はその後も「竹に雀」の家紋を伊達のものとして使い続けていった。ただ、経緯が経緯であるだけに事実がそのまま伝わらず、近世の文献も確たる説明ができなくなってしまったのではないかと見ている。

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左・上杉の「竹に雀」 右・伊達の「竹に雀」