前回、音楽大学や芸術大学が新型コロナウイルス感染症パンデミックで危機に瀕する現状を記しました(「コロナで存亡の危機に立たされた音大・芸大」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64341)。

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 私たちの分野はマイナーで、およそビューなど立たないだろうと思いつつ、目の前に様々な問題がありますので記事にしてみたところ、予想に反して、大きな反響をいただきました。

 そこで今回は、作曲家としての、お金の問題をお話ししてみます。

 もっと露骨に記すなら、作曲の音楽文化そのものが構造的に衰退する原因と背景を、私の職掌に沿って具体的にお話ししてみましょう。

 日本では、高度な音楽文化は衰退の一途をたどっています。例えば、精緻な構造を持つポリフォニーの器楽作品などは、全く「ペイしない」。

 翻って、カラオケで歌いやすい平易な旋律線を著作物として権利の囲い込みを行う方が、よほど儲かります。

儲かるメロディ:著作権はどう囲われる?

 具体的にお話ししましょう。

 あなたが「日本音楽著作権協会」の会員だとします。新しい楽曲を作り、その著作権登録をしようとしたら、どうすればいいか。

「作品届」というものを出します。届の用紙は10センチ×6センチくらいのカードで、数センチの5線が2段程度印刷されているだけ。

 そこに記すのはメロディの「歌いだし」部分だけです。

「皆までいうな、ヨキにハカラエ」という、かなり乱暴な形で「旋律」すなわちメロディラインが、音楽著作物の単位になっています。

 作曲者とは、著作権ビジネスにおいては、「メロディメーカー」を意味するのです。

 翻って、音楽大学や芸術大学の「作曲科」で何を教えるかというと、何も教えないのです。では、その入試ではどのような能力を問われるのでしょう?

 例えば「和声」ハーモニーの課題というものがありますが、これは素材となるベースラインや旋律線が与えられているんですね。

 もとになる素材があり、それに対してどのように和声を「実施」していくか、それが問われます。

 でも「もとになる旋律を書け」という課題は、音大入試には出ないのです。特に日本の「客観的で平等」なのがお好きな入試の類では・・・。

 なぜなら、好きに書かせてしまったら、並べて採点ができないから。

「客観評価」で当落が合理的に説明できるような<試験>しか、日本ではあり得ないのです(だから日本の和声は「あれ」なんですが・・・)。

 日本の音大や芸大、あるいは音楽専門学校の類などでも「ヒットしそうなメロディラインを考え、歌を作ってみよ」などという、本当の意味で<お金の儲かる>課題は、まず100%出されることがありません。

 翻って、JASRACに登録される、お金を生み出す「著作権のモト」はメロディ、しかも大衆ウケして、カラオケなどで幾度も歌われ、お金を生み出す旋律が、知財の本質をなしているわけです。

「メロディは儲かる」

「伴奏その他大勢は、特に儲かるわけではない」

 このコントラストが、日本の音楽を「死に至る病」へと連れて行ってしまったのです。

音楽書法は「素材あり」以降のテクニック

 作曲で一体何が難しいかと問われれば、正解はなく、あるいは「すべて」と答えられるかもしれません。

 ハーモニーも、対旋律を作っていくのも、オーケストレーションも、みな難しいといえば難しい。

 でも、そういう教えられる要素ですべて優等生でも、決定的に「つまらない」というものが実は少なくない。凡庸なんですね。以下はそういう範囲での音楽の話です。

 例えば音大や芸大の作曲入試で、一番「難しい」ことになっているのは「学校フーガ」と呼ばれるある種の「大がかりなかえるのうた(輪唱ですね)」みたいなパタンを与えられた素材で書くことです。

 自分で「売れそうな旋律」を考える必要はない。「課題」があり、それを「実施」して楽譜を書く。

 これを「書くこと」という意味のフランス語、エクリチュール(ecriture)と呼ぶのですが、このエクリチュールが中途半端に独り歩きして、かつ経済と乖離しているのが、日本の現状の悲劇を生み出しています。

 フーガや、フーガみたいなものを書くのは、そこそこ難しい面もあるけれど、実はパタンですから、コツさえつかめば何とかなります。

 ただ、そこで「禁則」とされるものをどう回避するかで得点は変わっていくけれど、実作では逆に「禁則」とされるものを、どう正々堂々と破っていくかが問題になったりします。

 専門的な音楽修行の中に、体系だって「かっこいいメロディをつくりましょう」なんて科目はないわけ。

 音楽ビジネスで、一番カネになる部分は、学校では絶対に教えられないし、また教わりません。

 しかし、旋律を一本書くのとは、かなり違った労力を必要とする「アレンジ」は、必ずしも旋律ほどに、優遇されているわけではない。

 こうした経緯の必然的な結果として、現状のゆがんだ「著作権状況」が発生してきたわけです。

ビートルズ/ストーンズ/マイケル・ジャクソン

 こんにち、音楽著作権料を最も手っ取り早く得るのは、売れる歌の「旋律」を書いて、その権利を囲い込むことです。

 分かりやすくいえば、ポップスの歌を書けばよい。そして、そうした「作曲者」のほぼ9割方が、いろいろな意味で音楽学校出身ではありません。

 例えばポップスを考えてみたらよい。任意の楽曲、作詞作曲者名がクレジットされているはずですから、その経歴をネットで調べると、音大や芸大出身者は決して多数派ではない。というより、ほとんどいない。

 もっと歴史的にグローバルに考えれば分かりやすいでしょう。ビートルズ、ストーンズ、マイケル・ジャクソン、スティヴィー・ワンダー・・・音楽を学校で学んでいるでしょうか?

 日本国内でも、ポップスコンテストから、ストリート・ミュージシャンのスカウトまで、ケースは様々ですが「勝手に歌っていたアマチュア」が「メジャー」の商品となることで、最大の著作権ビジネスが回っている。

 これらと、音大や芸大がど真ん中の歯車で噛み合っているかと考えると、そうはなっていません。

「与えられた旋律」などがあったとき、それを楽曲の形に整えるといったことが「音楽学校」で教えられる作曲の基礎にほかなりませんが、肝心の最初の素材の作り方などは、どこでも教えていないし、当然ながら「入試」でも問われない。

「作曲専攻」を卒業した人で、自作主題が苦手というミュージシャンは決して珍しくありません。

 そのような人も含め「アレンジャー」つまり編曲家としては、学校で学んだりもできる専門の知見を生かす可能性はあります。でも、著作権ビジネスとはおよそ直結していない。

 ちなみに、西欧の伝統音楽で、旋律の大本を作る以上に、その拡大書法が重視されたのには本質的な理由があります。

 キリスト教会で発展した書法、エクリチュール充実の機動力は「神」から遣わされた「聖教皇」グレゴリウスによる(とされる)旋律が「既にあり」、そのように、神様からいただいた主旋律に、対旋律その他をつけて讃美歌を作り出すのが「音楽書法そのものであった」から。

 これが20世紀のポップスになると、神様ならぬ「お星さま」スターの作る旋律線がお金を生み出し、それを装飾して楽曲らしく見せるという副次的なオシゴトは、労が多い割に儲けは少ない、という形にシフトするわけです。

ゆがんだ著作権制度が音楽を衰退させる

 演歌で考えれば、古賀政男とか遠藤実といった面々が「カミサマ」の椅子に代わりに座ったということになる。

 他方、音楽家としてはよほどプロフェッショナルで、場合によっては勉強に多額の学資も必要であったかもしれない人が、その投資に全く見合わない、効率の悪い仕事しか社会に準備されていなければ・・・?

 そういう分野は衰退して当然ということになります。

「芸術音楽の作曲」という職掌は、1990年代以降急激に衰亡して、いまや絶滅寸前というのがその実と言えるように思います。

 嘘か本当か、例えば「東京オリンピック2020」に向けて準備されたプログラムに、どの程度、そのようなものがあったか、観てみたらいい。

「長野五輪」で、すでに壊滅状況にありました。

 これが1964年東京オリンピックや、70年の大阪万博の折には、世界から芸術音楽家が集う花盛りの様相を示し、シュトックハウゼンクセナキスなども仕事をしていった。

 時代が変わり、いまは「雄時・雌時」という表現で考えるなら、およそ雌伏の底のようなコロナ状況になっている。

 いったいこの先、どのようになっていくのでしょうか?

 私の予想は、いま飽和しつつあるポップス、アーチストの死後などにはレコード会社が不労所得を囲い込む単なる利権でしかないものが、すべて沈没して、消えてなくなるだろうとみています。

 ゆがんだ著作権ビジネスは、いったん白紙に戻らざるを得ないだろうと踏んでいます。

 例えば20世紀前半、ジャズのスタンダード300とか500といった「無償のメロディ」が、米国の通俗音楽を支えていた時期があります。

 それらは、権利化されないことによって、逆に多くが今日、使われていません。

 日本で考えるなら、江戸時代から大正末期にラジオが登場するまで、庶民は常識のように「浄瑠璃」というものを知っており、自ら語る人も少なくなかった。

 落語などにも下手な旦那さんの浄瑠璃道楽などのシーンが出てきますね。それがすべて消えてなくなった。

 私の母は大正15年生まれでしたが、そんな世代でも「三つ違いの あにさんと・・・」なんて節は知っていた。

 これは明治初年に成立した「壺坂霊現記」の一節ですが、母親の歌う声を聴いて私も知っているわけですが、21世紀生まれの世代には何のことやらちんぷんかんぷんでしょう。

 1880年頃初演され一世を風靡した「壷坂霊現記」の本当の命脈はラジオ放送が普及する1930年頃までで、寿命は50年。

 戦後、誰もが知っていた「美空ひばり」の楽曲を今歌うのは、若い人なら一部の演歌歌手くらいのものでしょう。一般人は高齢者の十八番と相場が決まっている。

「知識集約型社会」化で、アーカイブの性質が変わるかもしれませんが、まあ50年程度で「歌は世につれ、世は歌につれ」の新陳代謝は回っていく。

 でも私たちの分野は、例えば、モーツァルトベートーヴェンも、250年前の仕事が現在も「いま」の芸術として問われうるわけです。

 私たちはそういう長い命を生きるべく、いま冬眠のように雌伏の時期を生き抜いているのです。

 我々の分野では50年前の仕事は「ごく最近」のものにすぎません。200~300年前が、まあそこそこ(ベートーヴェンとかですから、妥当でしょう)という、ゆっくりしたタイムスパンで音楽を作り、守っています。

 また、そうした伝統の命脈を絶やさぬよう、若い人を大切にする場を大事に守り育てているのです。

(つづく)

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  コロナで存亡の危機に立たされた音大・芸大

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