連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

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 盲目であることは、悲しいことです。けれど、目が見えるのに見ようとしないのは、もっと悲しいことです。

ヘレン・ケラー・米国の社会福祉活動家、著作家 (1880-1968)

 人は糞便に目を背ける。なぜなら糞便は不快な臭いを発し、衛生的にも病原体を含む疫病の感染源。

「クソ!」など腹立たしい時、侮蔑すべきことや人に対して糞便を形容するのは、それが不浄であり禁忌されるゆえんである。

 だが、立派な糞便をした朝と何も出なかった朝では、その日一日に影響する。また、下痢というものは耐える力が弱いと見てとると、そこに重くのしかかる。

 排泄は日々の吉凶そのものであり、吉より凶の方が良い修業となる。

排泄はあらゆる苦悩のもと。あちこち旅をしてまわっても逃げることはできない。

 排泄は人の生理現象であり不要な物質を体外に出すこと。人間の1日の平均回数は大が1.02回。小が5.74回の合計約7回。

 排泄量は食す量でも変化するため千差万別だが、糞便の排泄量は日本人の平均値は、おおよそ大便が年間50キロ。尿が440キロの合計490キロ。大便の成分は水分が6割。残りの4割が腸内細菌と細胞の死骸である。

 どんなに麗しく、気立てが良く、頭脳明晰・・・女神のような尊き貴婦人であってもかならず排泄はする。

 排泄には排便と排尿があるが、排泄を行う所要時間の平均値は排便が男女ともに5分28秒。排尿が女子は1分30秒。男子は1分以内。

 これはトイレに入ってから出るまでの時間であり、排泄体勢を整える準備と終了後の始末と衣服装着の時間が含まれるため女性の方が所要時間はかかる。

 だが、女性の方が男性の尿道よりも太いため満タン状態から排泄が終わるまで10秒を切る女性もいるらしい。

 野生動物の排泄先は大地である。我々の祖先の排泄先も大地であり、それが乾燥し土となる。用便の顛末は自然浄化にある。

 日本人がトイレをいつから使用したのか。

 約5500年前の縄文時代前期、人が集団生活を始め、社会が形成されると都市らしきものが生まれ、そこでは場所を決めて排泄をしていた。

 弥生時代には、より高度な公衆衛生という考え方の芽生えによるものか、川などに糞便を流す下水道のような構造の遺跡が見つかっている。

 太古の時代、神武天皇の皇后の母である勢夜陀多良比売が川で排泄していたことを当コラムの「いのち」は「処女の陰毛3本で救われる」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63557)で紹介した。

古事記』『日本書紀』には、古墳時代の皇族が厠(かわや)に入ったという話が度々記されている。

 古代日本において宮中などでは河川に通じる水流式のトイレがあったことがうかがわれる。飛鳥時代以前は川に排泄物を流すことから厠(かわや)と呼ばれ、小さな川の上に便所を設置したことから、その語源となった。

 厠には武器を携帯せずに用をたすため、そこで敵方に捕えられたり暗殺されたりした記述が『古事記』にある。

 トイレは時代とともに変遷し、平安時代には貴族は樋箱(おまる)。鎌倉から戦国時代の京都では既に各家庭に厠があった。

 安土桃山時代になると砂雪隠が使われるようになる。そこは香が焚かれたり、花が生けてあったりする風流な空間で、左右脚の置き場に石があり便器に砂が敷いてある。

 便器自体は猫のトイレに似ており、砂は使用すると取り替えられた。

 また太閤秀吉の号令のもと太閤下水という下水が大阪城周辺に整備された。それは現存し、一部はいまなお使用されている。

 江戸時代になると武家のトイレは畳敷きで茶室のように中央に正方形の穴が設けられ、下に砂が敷かれた引き出し板があり、用便すると使用人が片付けた。

 また江戸の町には煉瓦や陶器でできた下水の設備が整えられた。

 ドイツの医師のエンゲルベアト・ケンプファー(1651-1716)はヨーロッパで日本を初めて体系的に紹介した『日本誌』に、衛生面の高さを詳細に記述している。

「当時の日本の厠は、畳敷きもあり、床が清潔。悪臭防止のため糞便を受ける床下の桶には籾殻が積まれている」

「貴人用は白紙が手の触れる所に貼られ、そのつど白紙は取り替えられる。厠の横に手洗いの鉢がある」

 電灯がなかった時代の日本の美の感覚と生活と自然が一体化した風雅を綴った谷崎潤一郎(1886-1965)の『陰翳礼賛(いんえいらいさん:中央公論社刊)』の中で、厠の趣と風情が次のように記されている。

「日本の厠は実に精神が安まるようにできている。日本の建築の中で、一番風流にできているのは厠であるとも云えなくはない」

「木製の朝顔に青々とした杉の葉を詰めたのは、眼に快いばかりでなく、いささかの音響をも立てない点で理想的と云うべきである」

人が生きていく上で最も大切なものは何かと問うたら、それは食料だと誰もが答えるだろう。しかし実際には排泄である。

 世界最古のトイレは、紀元前2600年から1900年に繁栄したインダス文明モヘンジョ=ダロ遺跡から各家庭には下水施設が整い下水路から共有の汚水槽へ流れる構造が確認されている。

 紀元前2200年頃、古代メソポタミア文明のアッカド王朝時代に築かれたイラク東部の都市テル・アスマルの遺跡宮殿から発見された。

 この宮殿にはトイレと浴室が多数あり、 レンガを椅子のような形に組んだ腰掛け式の水洗式トイレで、汚物は宮殿の壁に沿って地下の管に流れ込む仕組みになっている。

 紀元前2100年頃につくられた一般住宅にも煉瓦製トイレが設けられ、排泄物は土器でつくられた管を通り、下水道からチグリス川へと流れた。

 紀元前1900年頃のエーゲ文明の一つであるクレタ島で栄えたミノア文明クノッソス宮殿の女王のバスルームにも木製のシートに土器製の水洗トイレがあり、土器製のパイプで雨水を貯めた水が送られ汚物は下水へと流されていた。

 トルコの西部にある紀元前11年に古代ギリシャ人が建立した世界遺産のエフェソス遺跡にも水洗トイレがあり、紀元前500年から西暦500年に栄えた古代ローマ帝国のポンペイ遺跡からも水流式のトイレが発見されている。

私たちの生きていることにはすべて飲食が伴う。これが生理現象である。飲食の結果が「排泄」。因果応報というように、必ず排泄は来るのである。

 ローマ帝国の滅亡後、古代ローマ人が作り出した水洗トイレと下水システムの技術は中世から近世のヨーロッパには受け継がれることはなく、排泄は部屋の中で「おまる」が使用された。

おまる」が満タンになれば、法律では定められた場所に捨てるようになっていたが、排泄物は窓から通りに放り投げるのがいつしか習慣となる。

 結果、道に散乱する糞尿によって街の公衆衛生が一気に悪化。ハイヒールは衣服の裾が汚れることがないように開発された靴である。

 ロンドンやパリといった大都市の路上には汚物があふれ、結果、ペストなど疫病が蔓延、多くの命が失われた。

 フランスでは17世紀、ルーブル宮殿にはトイレがなく城全体が糞尿まみれになったため、ルイ14世1638-1715)はベルサイユ宮殿へと移転するも、ベルサイユ宮殿にもトイレはなかった。

 宮殿には1000人の王侯貴族と4000人の召使いが出入りしていたが300個程度「おまる」の用意がなく、糞尿は中庭や通路、回廊などに捨てられていた。

 そのためベルサイユ宮殿ルーブル宮殿同様、悪臭が恒常化。

 中世の貴族女性が大きなフレアのスカートをまとっているのを絵画などでよく見かける。それは、しゃがんで排泄しても、他人から行為の最中、秘部が見られない工夫による。

 そして、宮中の女性は広大な庭園の花壇などで用を足していたのである。

 女性の、用足しの隠語で「お花摘みに行ってきます」というは実はもともとは登山用語で糞便放尿ともにしゃがんで排泄するその姿勢が、お花を摘んでいる格好に似ていることに由来する。

 ちなみに登山用語で男性の場合は隠語で「雉打(きじう)ち」といい大便は「大雉(おおきじ)」という。

 欧州では300~500年前に建造された石造りの建築物がいまでも数多く住居として使われている。

 だがヨーロッパでトイレが各家庭に普及したのは、ほんの200年ほど前。

 17世紀、その悪臭に覆われたロンドンでトイレ革命が起こった。

 近代水洗便所の父、英国人ジョン・ハリントン卿(1561-1612)が棒栓式水洗トイレを発明。

 このトイレは洗浄水タンクが設けられ、タンクの上にあるハンドルを引張りバルブが開くと水が下の便器に流れ、もう一つあるバルブを引くと汚水溜めに流れる構造で、その後150年間、世界各地で広く普及した。

 英語圏では「トイレ」のことを「ジョン」というが、それは水洗トイレを発明したジョン・ハリントン卿に敬意を表した名残。

 いま、私たちが使用している水洗トイレの構造は、英国の時計職人アレキサンダー・カミングトス(1731-1814)によって生み出された。

 カミングトスはハリントン卿の棒栓式水洗トイレをさらに改良し、匂いを防ぐU字管のついたトラップ式の弁式便器を発明し、水洗便器でパテントを取得した。

 この発明により、人類はトイレにおける糞便の悪臭から解放された。

ほとばしる 磯のあわびに 潮香る けっして漏らすな 羽衣の露

 生物で排便の後、尻を拭くのは人間だけである。

 では紙で尻を拭くのはいつ頃から行われるようになったのか。

 紙が使われるようになったのは日本では平安時代、上流階級が使用したのが確認されているが、一般に紙が使われるようになったのは江戸時代からである。

 それまでは、植物の葉か籌木(ちゅうぎ)と呼ばれる「木べら」で糞便を拭っていた。その籌木、形状は割り箸の割る前のものに近い。

 人が尻を拭く理由は直立歩行に伴い肛門が四つ足歩行の動物と比べ奥にあり糞切れの機能が低いためといわれる。

 海外では、東南アジアでは指と水。中東では指と砂。エジプトでは小石。アメリカ大陸ではとうもろこしの毛か芯。中国やアフリカではロープ。日本と中国では木片か竹べらなどが用いられていた。

 今日のトイレットペーパーは、1891年アルバニー製紙会社のオーナー社長セス・ウィラーが切り離しやすい「ミシン目」のついたトイレットペーパーを発明し特許を取得。

 わが国にはセス・ウィラーが特許を取得した8年後の明治32年(1899年)、新聞広告で「目下欧米各国に流行するトイレットペーパー」という言葉が初めて登場する。

 トイレットペーパーには1枚のシングルと2枚重ねのダブルがあり、長さはシングルなら60メートル、ダブルなら30メートルであるが、中には1ロール45メートルや、ダブルで1ロール75メートルになるものもある。

 幅は10~11センチ前後で直径約3センチの肛門周りには十分なサイズである。

 ヨーロッパの上流階級のバスルームには「ビデ」が備えられ、下半身を洗浄したが、1980年代、日本のバス・トイレ・キッチン・メーカーのTOTOがトイレにビデの機能を備えた「ウォシュレット」を開発。現在日本の各家庭や職場だけでなく、海外の高級ホテルでも導入されている。

 トイレには、様々な隠語がある。

 現在でも使用される「御手洗」「化粧室」「ご不浄」「厠(かわや)」。

 手を洗うから「手水(ちょうず)」。声に出すのも憚れるので「はばかり」。

 髪(紙)を落とす場所のため「高野山」。厠の異名となる「雪隠(せっちん)」。宮殿の女官言葉の「おとう」。オーギュスト・ロダン考える人が原義か「思案所」。

 日本人は縄文時代以前よりしゃがんで排便をしてきたためか、水洗式の腰掛け洋式便器が明治時代に輸入されても、昭和50年くらいまでは便器といえば「金隠し」が、その独壇場であった。

 しゃがんで便器をまたいで排便をするスタイルは中央アジアから東・南アジアと幅広く存在するが、世界広しといえども前方にドーム型の覆いがある便器は日本だけである。

 金隠しの原義は、金玉(睾丸)を隠すというもので、和式大便器の前方に遮蔽物があるのがその特徴。

 明治時代より定着したドーム型の遮蔽物は1990年以降になると台形状へと形状が変化。それが今日の和製便器「金隠し」のスタンダードとなっている。

これまでの連載:

不貞は自然律、断じられるべきにあらず:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64181

少子化問題を解決する一夫多妻、一妻多夫:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63939

「いのち」は処女の陰毛3本で救われる:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63557

神の性合で創造された「日出づる国・日本」:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63404

実はエロ歌だった童謡「ずいずいずっころばし」:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63164

養生医学の領域にあった男女の和合:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63019

性行為はなぜ「エッチ」と呼ばれるようになったのか:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62844

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