「向かいの交番の所長が『小幡さんこれ大変なことになったよ』と泥だらけになってやってきた。隣の七ヶ浜の海水浴場とか町が全滅して、『とんでもねえよ。何千人って死人が出るよって』それで俺の店に来てぐったりしているわけですよ」

そう当時を振り返ったのは、塩釜市在住の小幡忠義氏。宮城県塩釜市生まれ塩釜市育ちで、現在も地元の塩釜市で小学生たちにサッカーを教えている。現在81歳のサッカー指導者だ。

2011年3月11日東北地方を中心に大きな被害をもたらした東日本大震災から10年。小幡氏は当時の様子を振り返ってくれた。

「俺自身津波がそんなにひどいものなのか分からなかった。次の日にその凄さが分かった」

塩釜市は、仙台市の東に位置する海に面した街。10年前の東日本大震災では最大震度6強を観測し、4メートルの津波が発生。沿岸部の住宅や漁船などが被害に遭い、市民47人が犠牲となった。また、18人が関連死と認定され、最大避難者数は8771人にも及び、大きな被害を受けていた。

小幡氏を語る上で欠かせないのが、「塩釜FCの創設者」というフレーズだ。1964年に「仁井町スポーツ少年団」という名で立ち上げられ、小幡氏の類まれな行動力とリーダーシップのもと、塩釜FCに発展する。

人口わずか5万6千人の塩釜市から、元日本代表の加藤久氏(京都サンガF.C.強化本部長)や、鹿島アントラーズで活躍するMF遠藤康、モンテディオ山形ガンバ大阪などJリーグで活躍した佐々木勇人氏ら、多くのJリーガーを輩出してきた実績がある。

その小幡氏だが、クラブを持っている中での震災発生。さらに、当時は宮城県サッカー協会の会長を務めていたため、安否確認や対応に追われたという。

「俺たちは何をしていいのか分からないし、いろいろな人が支援に来てくれているし、そこで初めてツイッターを覚えて、情報収集だよね。まず、クラブのメンバーの情報を、安否確認。後はうちの親戚とかいろいろな情報を取りながら、次の手を考えていたんだ」

「その間にいろいろな人たちが集まってきて、作戦練ったりして動いていた。宮城県サッカー協会が県のサッカー場にあったんだけども、サッカー場も被災が凄くて、ひび割れしてたり、そこを(一般に)開くわけにはいかないから、近いから俺のところにみんな集まって来ることになったんだよ」

◆「地域に根ざす」
東北、宮城のサッカー界で知られた存在になっただけでなく、厚い人望や行動力、リーダーシップにより周囲の人に支えられている小幡氏の信念には「地域に根ざす」が存在している。

時は遡り1993年、小幡氏は教え子でもあり、ブランメル仙台(現・ベガルタ仙台)の初代監督である鈴木武一氏らとともにドイツへと赴く。そこで小幡氏は「素晴らしいスポーツ環境」を目の当たりにし、「人間が変わった」と語るほど大きな影響を受けたという。

「どんな場所でもサッカーコート2面あって、テニスコートあってプールがあってさ。グラウンドの脇にはクラブハウスがあってシャワールームがあって、ミーティングルームがある」

「日本は土のグラウンド1つだけでさ、シャワーどころか泥だらけのまま帰るんだもの」

ドイツと日本はともに第二次世界大戦の敗戦国であるものの、その後のスポーツへの考え方、そしてそこから作られた環境のあまりの違いに愕然としたと当時を振り返る。

「『なんでこんなに作ったの』と聞いたとき、『小幡良く聞けよ。日本とドイツは同じ敗戦国だ。「健全なる精神は健全なる体に宿る」。もっといい考えを生み出すために、健康な体を作ろう。そして将来高齢化社会が来る。そこで医療費に金かけないためにということで、そのスポーツ施策をやった』とね。それ聞いたときに驚きしかなかったよ」

ドイツで大きな感銘を受けた小幡氏は帰国後、スポーツ文化施設の拡充に尽力。国、ひいては地域に根ざしたクラブを目標とするようになり、宮城県を中心にいくつものグラウンドの造設に携わった。多くのJリーガーを輩出してもなお、塩釜FCのスローガンは「地域に根ざしたスポーツクラブ」のままだ。

◆塩釜を襲った大地震
こうして、ベガルタ仙台の発足にも携わった小幡氏は、後にベガルタ仙台の役員になるとともに、宮城県サッカー協会会長という地位に就く。そんな中で起きたのが東日本大震災だった。

「地域に根ざしたスポーツクラブ」であった塩釜FCは、震災直後には機能がストップした役所に代わって復興の拠点となる。

「九州から車で来たり、山形の鶴岡から大雪の中ガソリンと食料を持ってきてくれたり、岩手や秋田からも運んできてくれたり、いろいろな思いで、友達のありがたみといういか、助けられてきた」

関わってきた人々に助けられた小幡氏だが、同時に「もの凄い勉強させてもらいましたね。ありがたいとか、いろいろな嫌なこととか。人間の性を見たりさ」と、やや沈痛な面持ちで当時を回想してくれた。

小幡氏は、震災当時、なでしこリーグに所属していた東京電力女子サッカーマリーゼの引受先探しに奔走した。マリーゼの前身は、1997年宮城県で設立されたYKK東北女子サッカー部フラッパーズで、2004年にチームを東京電力が引き継いだ過去がある。

2005年からはマリーゼとして活動するも、活動拠点が福島県双葉郡楢葉町および広野町にあるJヴィレッジにあったため、東日本大震災原発事故を受けて活動が停止した。当時は、MF鮫島彩(現大宮アルディージャVENTUS)やDF長船加奈(現浦和レッズレディース)らなでしこジャパンのメンバーも所属。タレントとして活躍する丸山桂里奈さんも所属していた。

最終的には震災翌年の2012年にベガルタ仙台が新たな移管先となり、ベガルタ仙台レディースに。2021年秋から開幕するWEリーグに参戦するにあたり、マイナビ仙台レディースとして今に至っている。

YKK時代からチームを知る小幡氏は、震災当時はクラブ会員が会費を払うバルセロナのソシオ方式の導入を提案していたという。

「そういうもの使ったら面白いでしょ。面白いと言ったら悪いけど、今がチャンスだと。この女子チームを助けてくれと。みんなでソシオ制度を作って、今でいうクラウドファンディング。例えば年間1万円ずつくらい出してもらってね」

小幡氏は具体的な金額まで考えていたが、その想いは「地域に根ざしたスポーツクラブ」にするため。しかし、小幡氏の発想が先を行き過ぎていたのか、その提案は受け入れられず。その後、小幡氏は自ら公職を降りることとなった。

「どのクラブも地域に根ざしたと言っている。ただ、果たして本当に地域に根ざしているのかと。そこが一番の疑問点だった」

「日本のプロスポーツは社長が金集めに奔走しなければならない。大企業におんぶにだっこだね。だからいつまで経っても本当のクラブはできないんじゃないかと思っている」

◆公職を離れ原点へ
その後の小幡氏は「地域に根ざしたスポーツクラブ」という原点に戻り、継続して塩釜市で子供たちを教えている。

震災という一大事に小幡氏が最も強く感じたことは、子供たちを「自分で考えられる」ように育てなければならないということ。「指示を待つだけでなく、主体的に考えて行動する人物になってもらいたい」ということだった。

さらに、震災以降、小幡氏はあるポリシーを改めたという。それは保護者との関係性だ。

「今まで私は保護者と一切喋ってこなかったのね。えこひいき的なこともあるから。試合に出られない人もいるじゃないですか。でも、そこから保護者と何を目的にスクールをやるのかというところから話を始めたんですよ」

「問題は、世界が近代化されてAIが発達する時代になる。そうすると機械に使われる人間というのがいる。でも、機械を使うような人間を育てるべき。そのためには、自分で考えて行動できる子供たちを育てないと、いつまで経っても駄目だよね」

そこで、小幡氏が最初に選んだのはやはりサッカーだった。しかし、子供たちが前のめりになるまでは、時間がかかった。

「当初はサッカーを教えようとしたんですよ。ところがサッカーを教えると、みんな嫌な顔をするんですよ。『つま先を固めろ』とか。技術の話ね。でも、あんまり乗り気でなかった」

「そこで、たまたま子供たちが喜ぶように靴飛ばしをするようになった。そこから、俺も含めて変化が出てきてね。一番飛ぶ子が、体の使い方が上手いんですよ。スムーズに動くんだよね」

子供たちから学んだ体の使い方の重要性。小幡氏はその後、体の使い方に着目し、偶然にも“古武術”に出会ってのめり込んでいく。海外の恵まれた体格の選手たちに比べ常々フィジカルが弱いと言われる日本人選手にとっては、“古武術”の体の使い方を覚えることがサッカーの技術にも通じてくる“最適解”になる可能性があると考えているようだ。

こうした様々な出会いや考えの変化。これも震災が1つのきっかけになったと小幡氏は語る。

「こういういろいろなこともできるのもね。震災後に会っていろいろ指導を受けたり、震災を契機に、俺の進むべき道を変えてくれた。震災で亡くなった人たちのためにもそういうことを伝えていきたい。その思いで、今は遊びまわっています」

小幡氏は現在も、塩釜で1年生1人、2年生1人、3年生8人、4年生1人、5年生5人、6年生1人で全部で16人を教えている。規模が大きいとは言えないが、本人は「今が一番楽しい」と断言する。

「地域に根ざしたスポーツクラブ」。その根幹は揺らぐことなく、震災でより確固たるものとなった。小幡氏の目は未来を見据え、自らで体現し続けている。

サムネイル画像