三陸鉄道イメージ(denkei / PIXTA)

2011年3月11日東日本大震災から10年。震災で大きな被害を受けた鉄道といえば、2020年春に全線で運転再開したJR常磐線、そして岩手県の三陸沿岸を走る第三セクター三陸鉄道(三鉄)が挙げられるでしょう。三鉄が全線運転再開したのは2014年4月で、復旧工事は鉄道建設・運輸施設整備支援機構JRTT)が担当しました。

「限られた期間で鉄路を復活させ、しかも被災前より強じんな鉄道を造る」の困難な使命を成し遂げたのは、「鉄道を復旧させて三陸に希望を届ける」という三鉄やJRTTの熱い思いでした。私がJRTTの現場最前線の話を聞いたのは、2014年秋に開かれたJRTT技術研究会での特別報告です。当時の取材ノートを基に、発災から運転再開までをたどってみましょう。

これまでに経験のない業務

三鉄は1984年に全国初めての第三セクター鉄道として開業。震災では地震動とともに、高さ10メートルを超す津波で大きな被害を受けました。最大の被害は北リアス線(宮古―久慈間71.0km)の田野畑村付近。南リアス線(盛―釜石間36.6km)も全線で被災しました。南リアス線の路線長は北リアス線の約半分ですが、被害箇所は3倍以上。南リアス線の方が震源に近かったこともあり、津波と地震動の影響を強く受けたと考えらます。

震災2ヵ月後の2011年5月、国土交通省からJRTTに中小民営鉄道を対象とした被害状況調査と復旧方策検討業務の依頼がありました。その後、同年10月には三鉄からJRTTに対し復旧工事を委託要請。翌11月には協定が締結されました。被災した鉄道の復旧というのは、鉄道整備(建設)を主務としてきたJRTTにとって、ほとんど経験のない業務です。

全社を挙げた推進・支援体制を組む

未経験とはいえ、鉄道の運転再開は被災地復興のシンボルとなる事業で、JRTTは全社を挙げた推進・支援体制を組むことにしました。横浜の本社には復興支援チームを置き、施工方法などを検討。東京支社は特に工程管理に重点を置きました。

現地体制では、2011年11月の受託と同時に北リアス線終点の久慈市に「三陸鉄道復興鉄道建設所」を開所。翌2012年4月には、釜石市南リアス線を担当する「三陸鉄道復興南鉄道建設所」を開所しました。

さらに同年5月には北リアス線南リアス線のほぼ中間の宮古市に「三陸鉄道復興工事課」を置きました。現地に工事課を設置したのは、本社や東京支社から遠距離というハンディを解消する狙いです。

工事は復旧区間を3区間に分けて進めましたが、工期的にはいずれも非常に厳しいものがありました。特に第1区間の北リアス線田野畑―陸中野田間は土木工事がわずか3カ月間、その後の軌道・電気工事も約1カ月間という〝短期決戦〟でした。

第2区間の南リアス線盛―吉浜間は延長距離が21kmもあり、工事内容もさまざまながら、軌道(線路敷設)工事への引き渡しまでにおよそ7カ月間しかありません。

最後の第3区間の土木工事期間は約16カ月間。一見余裕がありそうですが、こちらも構造物の新設があり、厳しい工程管理が求められることに変わりありません。

工法を工夫、法面はコンクリート保護

震災翌年の2012年4月に運行を再開した北リアス線田野畑―陸中野田間の復旧前後。本文にある通り法面を補強しているのが分かります

少々専門的になりますが、ここでは復旧工事の内容を鉄道構造物別に見ましょう。津波で流出した盛土は法面(斜面部分)をコンクリートで保護、頂上部分の施工基面上を強化路盤としました。津波による盛土への大きな被害はなかったものの、地震動による揺り込みで沈下した盛土の補強には、盛土補強材を法面強化工に応用した工法を採用しました。

地震動で損傷した橋梁の橋脚は、コンクリートによる巻き立て補強を実施。鋼製の支承部は吸収力のあるゴム支承に交換し、移動制限装置を設置しました。

限られた工期内に工事を終えるため、JRTTは多種多様な工夫を凝らしました。エピソード的に紹介すれば、通常の盛土法面の施工では盛土の完了後、構造物は下部から上部へと順番に法面を施工し、最後に施工基面となる天端(線路を敷く盛土の頂上部分)を仕上げます。

しかし今回は、早期に施工基面を軌道に引き渡す必要があったため、天端を先に施工し、その後に法面を施工する工法を採用。逆順の施工で工期を短縮しました。

安全確保に最大限注力

先に述べた通り、南リアス線盛―吉浜間は延長が21kmに及ぶことから、全体を3区間に区分しました。最も注意するのは、もちろん安全確保。万一何かがあれば全体の工程に影響を生じ、予定通りの運転再開が難しくなる可能性もあるからです。

万全の備えを敷くため、JRTTは現場に正副2人の監督員を配置しましたが、幸い大きな事故を発生させることなく、工事を終えることができました。

直接の工事を離れた話題では、現地での宿舎確保に苦心。現地と東京支社との会議に、インターネット会議システムを活用したのも有益でした。「JRTTは、2020年のリモートワークを先取りしていたのかも」と思ったりもします。

被災地復興の様々な工事が重なる中では資材確保も課題で、一部には発生材、再生材を利用しました。例えば、島越駅付近は従来の高架構造から地域防災の機能を担う盛土に変更しましたが、盛土には近隣の国道工事からの発生材を使用しました。

震災前の高架から盛土で復旧した北リアス線小本―田野畑間。工法的には盛土より高架の方が新しいのですが、震災で図らずも盛土の防災機能が判明しました。

サケにやさしい工事!?

工事区間の河川にはサケが遡上し、工事期間も一部制約を受けます。特に南リアス線は被災した橋梁が多く、事前にそれぞれの漁業協同組合と入念に打ち合わせる必要がありました。

なるべく十分な工事期間を確保するため、三鉄の担当者とともに漁協の事務所を訪れ協力要請した結果、漁協の協力を取り付けることができました。冬期間の工事は除雪の工夫も必要でした。

工事の仕上げとなる監査では、建築限界車に代わり三鉄のモーターカーに建築限界フレームを取り付けて確認しました。

鉄道を造る技術者集団・JRTTへの社会的信頼感高まる

沿線住民が手を振って列車を歓迎(左)。ホームでは大漁旗を持った住民が到着客を出迎えました。

こうした工事を経て三鉄は全線で運転を再開。2014年4月6日、三鉄の全線運転再開を記念する式典が宮古市で開かれました。

三鉄の復旧工事は2014年4月に三鉄の全線で運転再開することが至上命令でしたが、三鉄はもちろん、JRTTや施工業者、沿線自治体など関係する人たちの熱意や協力で、無事達成することができました。

工期通りに完成できた最大の理由は、地元の理解を得られたからといえます。JRTTには三鉄から感謝状が贈られ、〝鉄道を造る技術者集団〟としての存在感や社会的信頼も高まったはずです。

あっという間の3年間

式典でJRTT職員の心に残っているのは、普代村元村長があいさつで防災への心構えを説いた、「2度あった津波の被害が、3度あってはならない」だそう。技術研究会で特別報告したJRTTの現場長は、三鉄の復旧に現地で携わった3年間を、「今振り返れば、あっという間の3年間だった」と回顧しました。

建設所や工事課をはじめとするJRTT全職員の心は、「三鉄を復旧させて、被災地に希望の灯を灯そう」で一致しました。報告で聞いた、「本当にいい仕事をさせてもらった。技術者冥利に尽きる」の言葉は、今も取材した私の心に強く残っています。

文:上里夏生
(写真:鉄道・運輸機構提供)