長年「反日教育」を進める韓国だが、韓国で反日が醸成されるようになった背景の一つに反日エロ映画の存在がある。反日教育の中で育ち、非論理的な反日に疑問を持った韓国人著者による「いかにして反日が生み出されたか」の第2回。(敬称略)

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1回目「韓国人の反日性向に影響を与えた反日エロ映画の役割」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64527)

(石 光源:韓国人ライター)

 慰安婦問題を煽動した吉田清治は、多くの印税や講演料を受け取ったが、慰安婦で金を稼いだのは吉田だけではない。1982年に出版された韓国の作家、ユン・ジョンモの小説『母・従軍慰安婦 かあさんは「朝鮮ピー」と呼ばれた』 も、大衆文化の時流に乗った成人映画専門のチ・ヨンホ監督が成人映画を制作、1991年に公開して著しい成功を収めた。

 吉田証言が韓国で知られるようになったのは、1983年出版の彼の証言録『私の戦争犯罪』の韓国語訳が出版された1989年からである。韓国語版の出版後、憤慨した済州島の郷土史学者たちが吉田証言を究明して、反論記事を済州日報に掲載した。日本の歴史学者である秦郁彦が1992年、この反論記事を翻訳して紹介すると吉田の地位が揺らぎ始めた。

 さらに、朝日新聞に連載された吉田の記事に対する日本での抗議が続いた。朝鮮半島で生まれ育った人や会社勤めをしていた日本人が少なくない時代で、彼らから証言の信憑性を追求された吉田が何度も証言を翻し、朝日新聞1992年に記事の掲載を中断した。

 当時、女性に対する戦時の性搾取のような揮発性の高い問題に、厳格な検証と確認を主張できる西側自由主義国家の政治家は稀だった。その結果、アジア事情に疎い欧米の外交官や政治家が吉田証言を取り上げ、国連人権報告書やマクドゥーガル報告書などで証拠として採択、日本の著述家たちも引用した。

 そして1998年、記者が「真実を話してほしい」と要請したが、吉田は拒否して蟄居した。吉田が世を去った14年後に長男が真実を明らかにしたものの、吉田の出生から死までの秘密は明らかになってはいない。

 朝日新聞の記者たちは1998年の最後のインタビューの後、16年にわたって吉田証言を追跡した。吉田証言を記事化してから32年目の2014年に記事の撤回を告知した朝日新聞はおびただしい読者離れと訴訟で大きな傷を負った。

「挺身隊問題対策協議会」が名称を変えた背景

 梨花女子大学名誉教授のユン・ジョンオクは、1990年1月4日から同月24日までハンギョレ新聞に挺身隊をテーマとするコラムを4回寄稿するなど挺身隊問題の権威者として活動し、同年11月、挺隊協を結成して共同代表を歴任した。彼女は歴史学者ではなく英語英文学の教授である。

 1980年代初めから北海道や沖縄などで本人が調査したという内容は、口述史学の水準にとどまっている。90年1月4日のコラムで、従軍慰安婦とは何ら関係がない北海道開拓時代の料理屋で働いた朝鮮人女性の自殺に関する小説を書いたが、1月19日の3回目には吉田清治の証言録『私の戦争犯罪』を検証することなく引用した。

 仮にも大学教授で研究者でもあった彼らが、史料の体系的な検討と計量化された分析を行ったのかは疑問である。

 先のユン・ジョンオクや同じく梨花女子大学名誉教授のイ・ヒョジェらが作った「挺身隊問題対策協議会」という名称も批判を浴びた。女子勤労挺身隊は従軍慰安婦とは関係ない。日中戦争太平洋戦争の拡大で、多くの男子が召集されて戦場に赴き、その空いた席を引き受けた女学生たちである。三八式小銃や九六式軽機関銃が、動員された女子学生の手で生産され、最前線の兵士たちに支給された。

 こういった例は日本だけではない。イギリス軍歩兵が使用していたステン機関短銃もイギリスの若い女性たちの手で生産され、2ポンドという低価格で普及した。米国も小兵器に加えて、B29重爆撃機などの大型装備の生産にも多くの女性を投入し、生産量の増大を督励した。ソ連は兵器生産だけでなく、対戦車防護壁の建設といった工兵作業にも女性を投入し、戦争を遂行した。

 このほかにも多くの史学者の指摘が続き、「挺身隊の多くが慰安婦として連れて行かれた」という論理を掲げてきた挺対協は、2018年、名称を「正義記憶連帯」に変更した。

 吉田証言と韓国世論に一番驚いたのは、日本政府より、むしろ戦後整理が終わっていないことに衝撃を受けた日本国民だった。

 元首相の宮澤喜一が謝罪して収拾に向けた協議を韓国政府と行い、当時の盧泰愚政府も匿名を保障して被害女性を探した。約300人余りの女性が申告したが、書類などの証拠資料は全くと言っていいほどなく、検証と証言確認から約230人を確定、彼女らを支援する準備を始めた。

 宮沢内閣を継いだ社会党出身の村山富市は謝罪談話を発表し、「女性のためのアジア平和国民基金」を創設した。高齢で家族の世話を受けることができなかったおばあさんたちは各種行事に引っ張り出されることを嫌い、基金の支援で余生を送ることを望んだ。

「償い金を受け取るのは公娼になることだ」という暴言

 当時、基金発起人として重要な役割を果たした東京大学教授の和田春樹は、基金の受け取りを望む高齢者に侮辱的な言葉を投げ続けた韓国の市民団体に失望した。実際、1997年2月27日にユン・ジョンオクは、「挺身隊問題はどこまで来たのか」というセミナーで、「女性のためのアジア平和国民基金(の償い金)を受け取るのは志願した公娼になることだ」と発言。激怒した和田は書信で抗議し、韓国のマスコミに伝達した。

「基金が『買収工作』をしたというのは、おばあさんたちの行動が自らの判断によるものではなくお金に目がくらんだ結果だということになり、おばあさんたちを蔑視するようなことになってしまうのではないですか」

おばあさんの行動を正しくないとして『裁断』する権利は誰から付与されているのでしょうか。民族の立場からそう語ると思うかもしれません。しかしおばあさんたちは一人の人間として、その主体性を尊重されなければなりません」

 和田の回顧を見てみよう

「98年、金大中大統領の時、女性のためのアジア平和国民基金を受領しないと誓約するおばあさんたちに3150ウォンを一時金として与えるという決定が下され、私は体が引き裂かれる思いでした。そうなると金と金の争いになってしまう。私は大統領に何度か手紙を送りました。その年の暮れ、村山総理と私は大統領府で大統領に会い忠実な心を訴えました。金大中大統領はおっしゃいました。女性のためのアジア平和国民基金が『善意』で推進されたことは承知しています。(中略)政府は被害者に支援金を支払ったので、日本から受け取るなとか受け取れとかいう話はしない方針です。運動団体や被害者と話をして、受け取りたければ受け取ればいいし、慰霊塔を建てることが良いというなら建てることも良いでしょう。一度で話がまとまらなかったら、二度、三度と話をしてみれば良いのではないでしょうか」

 盧泰愚政権を継いだ金泳三政権は反日性向だったが韓日協定を尊重、続く盧武鉉政権も同じだった。ただ、盧武鉉政府は朴正熙政権が1970年代に行なった個人請求権補償が不足していたとして個人賠償を予算化した。日本に対する請求権の消滅を再確認した当時、文在寅大統領大統領府の高官だった。その文在寅政権が日本政府による再謝罪と再補償事業を破棄したことは周知の通りだ。

亡くなった慰安婦を看取ったのが日本人だった事実

「女性のためのアジア平和国民基金」は61人の韓国人が償い金を受領し、和解・癒やし財団は37人が受領した後、解散した。女性のためのアジア平和国民基金の償い金を受領した老人たちは金大中政権期、挺対協によって政府支援から排除された。このうち33人が木槿花おばあさん会を結成して挺対協と闘争したが、マスコミの無視と無関心の中で忘れられ、今はほとんどの方が三途の川を渡っている。

 パク・ボクスンおばあさんが亡くなられた時、日本人が最後を見守り、火葬費も日本人が支払った。挺隊協をはじめとする市民団体の参列者はなく、挺対協が主催した水曜集会の空席は中国から連れてきた老人たちで埋められた。

 挺対協はこれまで30年、莫大な資金力とメディア掌握力を持つ権力として君臨してきた。多数の利益集団が絡んだことで権力を持続できたのだ。多くの映像出版従事者が戦争搾取を題材に反日を掲げて制裁を避け、成人映画や刺激的な創作物で金を稼いだ。

 毛澤東思想主義者も朝鮮総連日本共産党と連携する手段として慰安婦問題を利用、自由主義国家の同盟を崩す手段に利用した。慰安婦問題は女性団体にとっても重要な収益事業だった。

 このように、慰安婦問題は多くの高位公職者と政治家を輩出し、法に違反しても制裁されない“聖域”だったのだ。放送局もまた利益団体の憎悪マーケティングを持続するため、実証資料と真実を求める人々を迫害した。

 若い時期に辛い人生を送った老人たちは、多くの集会やマスコミに自分の過去を明かさなければならなくなり、年老いても疲弊し続けている。多くのおばあさんたちの最後を看取ったのが韓国人ではなく、日本人だったという事実は韓国人である私を憂鬱にさせる。(終わり)

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