ハンコの聖地である山梨県・六郷町でハンコ作りを続ける、六郷印章業連合組合・組合長の小林成仁氏
ハンコの聖地である山梨県・六郷町でハンコ作りを続ける、六郷印章業連合組合・組合長の小林成仁氏

日本には、"ハンコの聖地"と呼ばれる集落がある。印鑑職人を多く抱える山梨県南部の六郷(ろくごう)だ。昨年よりハンコ不要論が盛り上がっている現状を、それ以前より深刻な後継ぎ不足に直面してきた彼らはどう見つめているのだろうか? 現場で声を聞いた。

■ハンコにまつわるものは六郷ですべて賄える

急速にリモートワークが広まり始めた昨年秋、「押印のために出社する」といった働き方が取り上げられると、行政改革担当大臣の河野太郎氏は直ちに脱ハンコに取りかかった。

こうした動きからハンコが仕事における「無駄の象徴」とくさされる一方で、波紋が広がっている地があった。"ハンコの聖地"と呼ばれ続けてきた、山梨県の六郷地区だ。甲府盆地の最南端、市川三郷町(いちかわみさとちょう)の南部に位置する小さな集落だが、印章生産量は日本一を誇り、ハンコを通じた町おこしを行なってきた。

【写真】ハンコ作りの作業風景

筆者がまず訪れたのは、ハンコの資料を展示する「六郷印章資料館」。今回、取材に応じてくれた六郷印章業連合組合の組合長、小林成仁(しげひと)さん(66歳)との待ち合わせ場所だ。決して大きいとはいえない建物だったが、館内に入るとハンコ関連の展示物が所狭しと並べられていた。

入り口のすぐそばに掲げられていたのは「福寿百体」と呼ばれる掛け軸。聞くと、小林さんの父親で師匠の故・小林雪山(せつざん)氏の作だという。右側半分にいろいろな書体の「福」が、左側には同様に「寿」が並んでいる。

「日本語に古文や方言があるように、漢字も時代や場所によって形を変えるんです。今ポピュラーなのは篆書(てんしょ)と呼ばれるものですが、その印鑑の用途に応じて書体を選ぶのも大切な工程です」

諸説あるが、ハンコがアジアを中心に広まった理由は「漢字」にある。簡単に書けるアルファベットなどの文字と比べ、画数の多い漢字での署名は時間がかかるためだ。

中国からハンコ文化が入ってきた日本では、次第に独自の発展を遂げる。続いて見せてもらったのは、江戸時代に根づいた「花押(かおう)印」だ。重要文書に書かれるサイン「花押」のハンコ版である。

「これは書類を承認できるほど権力のある大名しか使っていませんでした。そのため当時のハンコ職人は『御印師(ぎょいんし)』といって、大名お抱えの存在となり、名字帯刀が許されていたようです」

その後、時代が明治へと移った1873年10月1日、新政府が発令した「太政官(だじょうかん)布告」によって、一般庶民も実印を持つことが許されるようになる。同時に印鑑登録の制度が定められ、ハンコは一気に普及が進んだ。

その明治時代、六郷地区は足袋(たび)の生産で栄えていた。しかし機械化による大量生産の波に押され衰退。その後、副産業だったハンコ作りが伸び始めたのは、足袋で培った全国への営業力があったことに加え、県内の昇仙峡(しょうせんきょう)で印鑑の素材である水晶が採れたからだったという。

ハンコの需要が増えてきたことで、彫る職人や印材を扱う問屋、ケースを作る職人が自然と集まり、その結果ハンコに関係するものがここですべて間に合うようになりました。こうして、いわゆる『ハンコの町』ができたんです」

驚いたのは、宛先が「満州国」の封筒だったこと。戦前や戦中に行なわれていた、通信販売用のものだという。

「当時は台湾や中国からも製作依頼が多かった。日本統治時代に現地の日本人に送っていたみたいですが、台湾や中国の人にも愛されていたようですね」

日本のハンコ文化は、発祥の地である中国に逆輸入するほど発展の目を見たのだ。

資料館に展示された、昭和初期の通信販売カタログ。当時は満州国に住む日本人、さらに現地の人たちからの引き合いも多く、封筒にカタログを入れて注文を取っていた
資料館に展示された、昭和初期の通信販売カタログ。当時は満州国に住む日本人、さらに現地の人たちからの引き合いも多く、封筒にカタログを入れて注文を取っていた

■画数の多い字より「一」のほうが難しい

話を現代に戻す。河野大臣がTwitterに「押印廃止」と彫られたハンコの印影を自身の笑顔と共に投稿したのは、昨年10月末のこと。直ちに六郷印章業連合組合だけでなく、山梨県長崎幸太郎知事からも厳しい抗議がなされ、現在はその投稿は削除されている。

小林さんはこの一件を「現場への影響を考えずに行なったパフォーマンスだ」と憤る。

「あれ以降、仕事は激減しました。卒業記念のハンコを注文してくれる高校がいくつかあったのですが、依頼が途絶えたところも。資料館に来てくれた人が誤解して、『ハンコってなくなるんだってね』と言われることもあります」

果たしてハンコは「無駄の象徴」なのか? 小林さんは疑問を呈す。

ハンコを押すために会社に行かなきゃいけないのは、ハンコ自体が悪いのではなく、会社のシステムが悪いからなのではないか。僕たちは、デジタル化をやめろと言ってるわけではないんですよ。ただ、ハンコは今までそれなりの役目を果たしてきたんで、その文化を残して、デジタル化の中に取り入れるとかできないのかということを訴えているんです」

資料館を後にし、小林さんの工房「対岳堂(たいがくどう)印房」へ向かった。騒動ののち全町議14人が名刺に押すための落款印を製作したと聞き、同じハンコを作ってもらうことにしたのだ。

彫っていただくのは、筆者の名前のひと文字である「愛」。これの篆書体を辞書などで選択・確認して字入れ(印面への文字の書き込み)へ進むのだが、小林さんが取り出したロウ石は想像以上に小さく、印面は一辺6㎜しかなかった。字入れ用の筆の先は、目に見えないほど細い。

「何㎜単位の仕事なのかと聞かれますが、ミリなんて大きいほうです。1㎜角の中に線を2本彫るのは当たり前の世界ですからね」

画数が多いとイヤになりませんか、と尋ねると、こんな答えが。

「昔は細かい仕事が来れば来るほど『よし』ってなったもんだね。(比較的印面が小さい)訂正印に2文字も彫らされて、その1文字が『鷲(わし)』だったときは燃えたなぁ」

ハンコ作りの作業風景。6㎜角のロウ石に鏡文字で字入れ(筆で書き込み)し、その筆跡に沿って彫っていく。印刀は自分で研いだものを何種類も使い分ける
ハンコ作りの作業風景。6㎜角のロウ石に鏡文字で字入れ(筆で書き込み)し、その筆跡に沿って彫っていく。印刀は自分で研いだものを何種類も使い分ける

忘れがちだが、ハンコは常に「鏡文字」で彫らねばならない。

「まあでも、実はこういう画数が多くて左右非対称な漢字よりも、むしろ『一』とかのほうが難しいんです。『一』が入る位置ひとつで、カッコよくも変にもなる。ハンコって文字以外の空間があるわけで、その空間が生きてないと、全体のバランスが取れない。オヤジがよく『空白の美』なんて言っていましたね」

小林さんは、師匠であった父の言葉が今になってわかることも増えてきたそうだ。

「若いときの作品を今見ると『なんでこんなもん彫ってたのか』ってのもあるし、逆に今見たら『けっこういいことしようとしてたんじゃないか』と思うのもある。よくオヤジが『経験を重ねると字が枯れてくる』なんて表現してましたが、ようやくわかってきた気がします」

ただ、そんな匠(たくみ)にもかなわないものがある。体力だ。

「還暦を超えたら、なかなか数を作れなくなる。昔は2、3時間ぐらいあっという間に過ぎたんですけどね。年を取ると集中力も衰える。辞めてもいいんだけど、ほかにやることなくてね(笑)。職人は死ぬまでが職人ですよ」

■「息子に後を継げとは言えない」

六郷のハンコ作りの最盛期は、バブル時代だったそうだ。

「大きいモノ、高価なモノほどよく売れたし、この小さな町にハンコ職人だけで100人近くいましたね。当時の指定郵便局の荷物取扱量は、山梨県の中でも甲府市にある一番大きい中央郵便局に次いで2番目に多かったそうです」

しかし現在、六郷にいる職人の数は20人。この伝統技術の継承が今後の大きな課題になるが、地域の一番若い職人は50代だという。

「若い後継ぎはいないです。弟子がいたり子供が継ぐという人はもうほとんどいません」

小林さんにも息子さんがいるという。継いでほしいとは言わなかった?

「息子が高校を卒業するときに『やろうか』と言ってきたんですが、『やりたいことないのか』と聞いたら『ないこともない』と。『だったら好きなことをやれ』って言ったんです。それでギターの道に進んでいきました。

自分も高校生のときに日本武道館レッド・ツェッペリンを見て以来、ずっとロックが好きなんです。エルトン・ジョンと握手しに行ったこともあったなぁ。今でも休日はエレキギターをいじってるくらいだから、その影響もあったのかもしれない。

おじいさんの代からある対岳堂の名前がなくなっちゃうよ』と言われましたが、『そんなこといいんだぞ』と。対岳堂の息子だと誇りを持ち、胸を張って生きてくれればそれでいいんです」

そしてひとつ間を置き、こう言葉を継いだ。

ハンコの見通しが良くないからね。今の仕事を辞めてハンコ職人になりたいという人がいたとしても、受け入れる側が『じゃあ弟子にしてやる』って言えないです。師匠には弟子を食べさせる責任がありますから」

ハンコを訴える多くの人が口にするのは、「海外向けに売り出せばいい」「ハンコ好きの人向けに売り続ければいい」という意見だ。しかし、国内でその技術が評価され、存在価値が認められない限り、後継ぎを育てようとする環境は構築できない。

「できたよ、ほら」

出来上がったハンコを、小林さんが筆者の名刺に押してくれた。小さいけれど、存在感のある「愛」の字だった。取材から帰ってきた後も、名刺を出す機会があるとこの印を見返している。そのたびに、事務用品のハンコにはない魅力があると思わされる。

六郷印章業連合組合・組合長 小林成仁(こばやし・しげひと)氏。22歳で父・雪山氏に弟子入りし、印鑑職人の道へ進む。工房「対岳堂印房」を父から継ぎ、現在も職人としてハンコを作っている
六郷印章業連合組合・組合長 小林成仁(こばやし・しげひと)氏。22歳で父・雪山氏に弟子入りし、印鑑職人の道へ進む。工房「対岳堂印房」を父から継ぎ、現在も職人としてハンコを作っている

取材・文・撮影/橋本愛

"ハンコの聖地"山梨県・六郷町でハンコ作りを続ける、六郷印章業連合組合・組合長の小林成仁氏