朝比奈 一郎:青山社中筆頭代表・CEO)

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 菅義偉首相の長男が勤務する東北新社から高額な接待を受けていた問題で、元総務審議官で菅政権の内閣広報官を務めていた山田真貴子さんが3月1日付で辞職しました。さらにその後、NTTからの高額接待も明らかになりましたが、辞任した当時に問題視されていたのは、東北新社からの7万4000円ほどの接待でした。

 当時、国会もメディアも、この菅首相の長男による接待問題で大騒ぎしていたわけですが、この騒動について、海外在住の知人とやり取りがありました。

 中国の友人はわずか7万円でクビになることに驚いていたようです。確かに中国では金額の桁が全然違う話かもしれません。その上で彼はこう推察したようです。

「山田氏はずば抜けて優秀なので、周囲からすごく妬まれていたんだろう。だからこれっぽっちの接待で周りから猛批判を浴びて、それでいたたまれなくなって辞めたんじゃないか。あるいは逆にものすごく無能で、周りも早く辞めさせたかった。そこにちょうどいい口実が見つかったので、辞任に追い込まれた。そのどちらかじゃないのか?」

 私は、「たぶん、そのどちらでもないよ」と答えたところ、彼はさらに驚いていました。

「たった7万円の接待を受けただけで政府の要職にある人物が事実上のクビになるなんて、日本ってすごい国だね」

接待疑惑の追及に膨大なエネルギーを費やしている余裕が日本にあるのか

 もう一人、シリコンバレー在住の日本人の友人は、一連の騒動に憤っていました。

「日本は世界に後れを取っていて、どんどん存在感をなくしている。そんなときにいったい何をやっているんだ」

 彼はこういう表現もしていました。山田氏の法律違反は、制限速度時速80キロの道路を85キロで走ったという程度のもの。それを国会でワーワー議論して、肝心な議論が脇においやられている。いったい何をやっているんだ――。

 彼らの意見には頷かざるを得ない部分もありました。もちろん官僚が接待を受けるのはいいことではありませんし、今回のケースは明らかに規定違反でした。しかし、それはそれで、罪に応じた処分をしたらいいだけのことです。なにも国会の予算委員会などをつかって、国をあげて追及ショーをするほどの大問題なのでしょうか。時すでに遅しの感もありますが、今、NTTは、ドコモを吸収して、大きく再度世界と闘おうとしている時でもあります。その立役者の澤田純社長が引きずりおろされて、迷走する姿を見て留飲を下げても仕方ありません。

 政治家や官僚の不正やスキャンダルの追及は、国会に特命委員会を設置して、そちらで議論すべきではないでしょうか。そこで粛々と議論して、淡々と処分して終わりにすればいいのです。社会の効率化のためにも、国際環境への対応という意味でも、官民連携ということが叫ばれていますが、過度に罰することで、官民が一緒に戦略を練って協働することについて双方が益々臆病になることが、本当に国のためになるのでしょうか。官民の接触が過度に制限され、現場を踏まえた国際競争力を国としてつけるための政策が出来ない状態と、巨悪ではないちょっとしたルール違反はたまに起こってしまうが、基本的には官民でガッチリ議論をして政策をつくる状態と、どちらが良いのでしょうか。

 国会に話を戻しますが、本当なら大事な国の予算案を巡る議論をするはずの予算委員会が、疑惑やスキャンダルの追及の場となっています。野党は予算案を人質に、政権与党の攻撃に力を入れています。予算委員会はテレビ中継も入ることも多いので、支持者や有権者に対するアピールの場にしたいのでしょう。

 ところがそのために、国の根幹となるテーマをちゃんと審議する時間の確保が難しくなっています。国会がいつまでもこんな状況のままでいいはずがありません。

平時に慣れすぎた日本、危機対応が極めて不得手な国に

 大前提として、国会は国にとっての大問題をきちんと議論すべきです。例えば、コロナ下において日本では緊急時の医療体制の維持が諸外国に比べて極めて心もとないことが赤裸々になりました。人口当たりのベッド数は世界随一と胸を張っていたのに、いざパンデミックに直面したら、医療従事者が足りないとか、民間医療機関を強制的に活用する術がなく行き場のない患者が溢れてしまうとか、さまざまなボトルネックがあり、人口当たりの感染者数は国際的に見て極めて少ないのに、それでも医療崩壊と言っていい状況になりました。

 2月25日に、私がCEOを務める青山社中がオンラインで開催した「青山社中フォーラム」に、前厚労省医務技監の鈴木康裕さん(現厚労省顧問)が登壇してくれました。鈴木さんは初代の医務技監(次官級)で、去年の夏までそのポストに就いていました。つまりダイヤモンド・プリンセス号への対処に始まり、ずっとコロナ対応の指揮を最前線で執っていた人物です。

 このフォーラムには、安倍政権の総理秘書官だった経産省時代の同僚も参加してくれるなどして、活発な議論が行われました。そこで指摘されたのは、日本という国はあまりには平時に慣れすぎて、この「平時体制」ががっちり確立されすぎてしまったため、緊急事態に柔軟に対応することが不得意になっているという実態でした。日本は危機管理が不得意で、非常事態に極めて弱い国になっているのです。

 新型コロナが今後収束したとしても、数年後に新たな感染症が世界を襲うことも十分考えられます。であるならば国会は、この国の危機管理体制を確立すべく、建設的な議論しなければならないはずです。しかし現実には、数万円の接待がどうこうという問題に多くの時間が割かれている。そうこうしているうちに、コロナによるダメージはジワジワ広がり、経済面でもどんどん停滞していくでしょう。

どんどん貧しくなっている日本

 もっとも経済に関しては、コロナ以前から日本はかなり追い詰められていました。得意としていた製造業では、家電・電機分野では中国や韓国、台湾などにすでに追いつかれて追い抜かれてしまっています。お家芸だった自動車にしても、トップ企業のトヨタ自動車がEV専業のテスラに時価総額で抜かれてしまった状況です。それでは製造業に代わって、新しい産業、特にIT企業はどうなのかと言えば、こちらも日本経済を牽引するような産業や企業は育っていません。

 あるいは、観光立国として、海外からの観光客をどんどん呼び込み、旅行・宿泊・外食産業などで稼いでいくというシナリオも練られていました。ところがコロナによってその目論見は急速にしぼんでしまっています。起爆剤にと考えていたオリンピックも海外観光客の受け入れは見送りの方針が固まり、インバウンドには結びつきそうもありません。

 企業の元気がなくなってくるのに応じて、日本人もだんだん貧しくなっています。購買力平価(PPP)を基準とした国民1人当たりGDPでは、日本は間もなく韓国に抜かれそうな状況です。かつては日本人は諸外国から「金持ち」と見られていましたが、今や日本国内の所得は諸外国と比べて非常に少なくなっています。そしてもうすぐ、われわれ日本人は「しっかり稼ぎたい」と思ったら海外に出稼ぎにいかないといけなくなる時代がやってきます。いまはまだ東南アジアから日本に出稼ぎに来てくれる人がいますが、早晩この人の流れは逆になっていきかねません。現在でもすでに、上海あたりには「出稼ぎ日本人」の姿が見られます。

 このように日本には「稼げる産業」が枯渇しつつあります。日本は今、これからの「食い扶持」をどう確保していくかという問題に直面しています。これまた国家の大問題です。ところがこれに対する対策に、国会はどれだけ向き合っているのでしょうか。本当に心もとない限りです。

なぜ予算委員会が「スキャンダル追及の場」と化してしまったのか

 ここで見たように、現在は誰が政権を担っても、国の舵取りが難しい時代です。政権にもちょっとした間違いや躓きもあるでしょう。そんなときに、野党は政府与党を攻撃するばかりでいいのでしょうか。建設的な議論をしようという姿勢が希薄になっている気がしてなりません。

 そもそも国会の本会議や委員会でやりとりされるのは、「質問」ではなく、「質疑」です。厳密に言えば、国会法では「質問は、簡明な主意書を作り、これを議長に提出しなければならない」と規定されています。要するに、質問は「質問主意書」という文書で行い、文書で回答を受け取るものであって、本会議や委員会でいきなり口頭で内閣に対して問い質してはならないことになっているのです。

 これは各委員会ではその委員会のテーマに関すること以外は聞いてはいけないという考え方に基づくものです。そしてテレビ中継などで見られる議場での議員と内閣のやり取りは「質問」ではなく「質疑」と呼びます。

 ではなぜ予算委員会が、予算と関係のない不正追及の場となってしまっているのでしょうか。これは予算というものはカバーする範囲が広いものなので、「これは予算に関わること」として無理やり解釈して予算委員会のテーマとしてしまっているからなのです。そのため、国民から見て、「予算と関係ないんじゃないか」と思えるようなテーマが大事な予算委員会でやり取りされる状況を生んでいるというわけです。

 これが予算委員会が、極めて非建設的な非難と言い訳の応酬になっている原因です。

国会は「小学生に見せたくない会議」の代表例

 現在の予算委員会や本会議の状況を思い起こしてみてください。これは世の中に数ある会議の中で、小学生や中学生には見せたくない会議の典型のようになってしまっています。会議とは本来、大切なことを建設的に話し合う場であるはずです。そして、国会こそが会議の模範となるべきだと思うのですが、現実は全く逆です。すべてとは言いませんが、多くが建設的でもないし、提案型でもないし、特に野党の発言者の口調は難詰調で、子供たちに見せられた代物ではありません。これは国会議員の方々に、ぜひとも反省してもらいたいところです。

 この非建設的な国会の状況に関して、もう一つ心配なことがあります。

 冒頭で述べたように、内閣広報官の山田真貴子さんが辞職しました。さらにNTTからの接待も明らかになった谷脇康彦・総務審議官も辞職しました。そもそも首相長男による接待をスクープした週刊文春はもとより、新聞やテレビもこの接待疑惑をさんざん取り上げています。となれば、当然のことながら内閣支持率は急落する――というのが従来の流れでした。しかし、不思議なことに菅政権の支持率に目だった落ち込みはありません。これはどういうことなのでしょうか。

 言葉はきついかもしれませんが、これまで国民はずっとメディアに踊らされてきました。政治家や官僚の疑惑やスキャンダルが噴出すれば、新聞、テレビ、雑誌が一斉にこれを取り上げ、次々と新たな疑惑を見つけ出してきます。時にはそうしたものの中に、デマ・フェイクと呼んでもよいようなものありますが、それらも含め大々的に報じられてきたわけです。人々は、それらの報道に接し、権力者の不正に本気で憤ったり呆れたりしてきました。

 しかし、私の分析では、最近は状況が変わっているように見えます。新聞やテレビの影響力が相対的に落ちていて、代わりにネットでニュース情報を得る人が増えているように見えるのです。そのせいか、新聞・テレビが政権の不祥事を大々的に取り上げても、人々がそれに踊らされることが減ってきたように感じます。もちろんネットのニュースのそもそもの出し手は新聞やテレビといった報道機関であることが多いのですが、人々はそれを受動的に受け取るのではなく、見出しを見て、関心を引いたものだけをセレクティブに見ています。従来の、テレビをつけたり新聞を開いたりすれば、関心がないニュースが嫌でも目に飛び込んでくるような状況とは、ニュースとの付き合い方が大きく変わっているのです。

 それだけ人々が情報を能動的に選ぶようになってきたこと自体はポジティブな事だと思うのですが、一方で大きな心配もあります。野党が国会で、政権攻撃のためだけのような質疑を繰り返していると、国民は政治の質の低さに呆れ、政治そのものに対する関心を失ってしまうのではないかと思うのです。

 その証拠に、これだけ国会で首相長男の接待問題が追及され、内閣広報官やら総務審議官が辞職に追い込まれているというのに、各種世論調査の結果を見ると、菅政権の支持率はほとんど落ちていないのです。これは、人々がメディアに踊らされなくなった証拠であるのと同時に、政治への無関心がどんどん高まっていることの表れではないかと思うのです。これは極めて深刻な事態です。

 もう国会がスキャンダル追及ばかりになってしまうような事態は終わりにすべきではないでしょうか。不正は不正で特別委員会で粛々と議論し、そこで責任を追及すればいいだけの話です。それこそ国家運営にかかわるような疑惑の追及なら別ですが、そこまでではない問題で本会議や予算委員会での審議を滞らせている場合ではないのです。国会は、国権の最高機関なのですから、建設的な議論、提案型の議論をして、国の大事な政策や方向性をどんどん進めていかないといけません。日本はもう待ったなしの状況なのです。

国会の質向上のための処方箋

 では、どのようにしたらこの国はそのような体制、すなわち本当に議論すべきことを正しく時間をかけて議論し、その方策を実施できる体制に切り替えられるのでしょうか。私なりに3つの案を考えてみました。

 一つ目の案は、政治に見切りをつけることです。現在でもそうですが、「日本をどうするのか」という原案を考え、それを法律にし、補助制度や予算を作っているのは基本的に行政です。制度上は、法律も予算も国会で決定していますが、原案を作っているのはほとんど役所(霞が関)です。法案のおよそ9割は行政の手による「内閣提出法案」で、「議員立法に基づく法案」は1割ほどとされています。

 そこで「政治が日本の課題に対処しきれていないのなら、政治に代わって行政を強化していけばいいじゃないか」という発想です。

 そのためには霞が関に優秀な人材を集める必要があります。現在、中央省庁の仕事環境は「ブラック霞が関」などと指摘され、優秀な学生たちが敬遠する傾向が見られます。ですからまずそこを改善し、霞が関に超優秀な人材を集め、超強力な体制を作っていく。外資のトップコンサルタントにも遜色ないレベルに官僚の年収も引き上げ、国内の優秀な人材をかき集める。そして、日本を立て直すプランを練ってもらうのです。

 政治の役割は、行政が暴走しないようにチェックするくらいに留め、政治や行政に関するスキャンダルが発覚すればもちろん厳粛に処分しますが、その不正追及によって行政がマヒしてしまうことがないよう行政を強大・強力にして国家運営を担ってもらう――。

 一つの考え方ではありますが、とはいえ国会は国権の最高機関だし、政治家にしっかりと議論してもらうのが本来のあり方です。そういう意味で、この案は適切とは言えないでしょう。

 そこで二つ目の案ですが、これは政治家の質を飛躍的に高める、という考え方です。

 例えば、政治家に政策に関する試験を科して、きちんとクリアした人だけが政治家になれるという規定を作る。あまりにも政治の素養のない人は政治家になれないようにします。

 それと同時に政治家のスタッフを増強します。政治家一人で選挙対応から政策立案まで引き受けるのは難しい。そこで税金を投入してでも、政治家のスタッフを現在以上に充実させるのです。

 しかしこの案もあまり現実的ではありません。政治家に試験を科すというのはかなりハードルが高そうですし、スタッフの増強にしても1~2人ではさして現状と変わらないでしょう。そもそも現在の政策担当秘書というのも、政治家の政策立案能力を向上させる目的で設置されたものですが、想定されていたような成果は出ていないように思います。アメリカのように、極端な場合、一人の議員に立法スタッフ30人もいるような体勢に持っていくのなら話は別ですが、そうなると日本では予算的に難しかろうと思います。

もっと「野心型」の政治家を

 そこで三番目の案です。これがもっとも現実的で、しかも最優先でやるべきアプローチだと思います。それは「政党の強化」です。

 各政党の機能を強化し、ちゃんと政策を提案できる体制を備えてもらうのです。政党がそれぞれの大方針を掲げて、しっかりとした具体策を作っていく。考えてみれば、そのために政党助成金の制度があるのです。野党も批判型ではなく、実務家中心型の政党に生まれ変わってもらえれば「なお良し」です。

 作家の塩野七生さんは、人間のタイプを「虚栄心型」と「野心型」とに分類しています。

<私個人は、先にも述べたように、虚栄心とは他者から良く思われたいという心情であり、野心とは、何かをやり遂げたい意志であると思っている。他者から良く思われたい人には権力は不可欠ではないが、何かをやり遂げたいと思う人には、権力は、ないしはそれをやるには必要な力は不可欠である。ところが、虚栄心はあっても野心のない人を、人々は、無欲の人、と見る。またそれゆえに、危険でない人物、と見る。かつがれるのは、常にこの種の「危険でない人」である>(『ユリウス・カエサル ルビコン以前--ローマ人の物語IV』新潮社

 要するに、虚栄心が強い人は、何か行動を起こしていても、その目的は「他人から良く思われたい」「チヤホヤされたい」ということであるため、本当の大事は達成が難しい。一方、野心が強い人の行動は、何かを成し遂げたい、やり遂げたいということが主目的であるため、大きな成果を上げる傾向が強い、ということです。

 その分類に従えば、政治家というものは虚栄心型よりも野心型の人のほうが向いている仕事と言えるでしょう。私の見るところ、菅首相などはこの野心型のように思います。じっくりとやることをやっていくんだ、というタイプです。「この国をこうしたい」「こういう政策こそ日本には必要だ。自分の手でそれを実現させたい」という野心に燃える政治家がどんどん出てくるようにしないと、日本の政治は目立ちたがり屋の虚栄心型ばかりに弄ばれ、とんでもない方向に行きかねません。

 野心型の政治家を増やしていくためにも、政党が政策提案型に生まれ変わり、その中から「日本をこうしたい、そのためにはこういう具体策が必要だ」という発想ができる政治家を育成していってもらいたいのです。政党の政策提案機能、ひいては政治家養成機能を強化するということで、きちんと自分の頭で政策を考えられる政治家を増やしていく――これが現実的な方法だと思います。

 そういう政治家の素養をもった人材が日本にはまだまだいます。例えば、地方の自治体を立て直した実績を持つ首長経験者が各地に何人もいます。そういう人の中には、余力を残しながら一線から引いている人も多い。こういう人たちの力を活用するのも国政に大きな刺激になると思います。叶うなら、そういう実務力のある首長経験者が国政に参集し、新党を結党してほしい。これは私の勝手な夢想ですが・・・。

「稀代の起業家」を潰したリクルート事件

 どうも日本人は、小さな正義を追求することに熱中するあまり、そのことで大きなものを失う習慣があるように思います。

 先日、ジャーナリストの大西康之さんが書かれた『起業の天才! 江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男』(東洋経済新報社)を読みました。リクルートの創業者・江副浩正さんの軌跡とリクルート事件を描いた快作です。

 著者の大西さんは、著作の中で「リクルート事件とは何だったのか」という問いをわれわれに投げかけています。江副さんは稀代の起業家で、かつ情報化社会に対する極めて鋭敏な洞察を備えていた経営者です。ところがリクルート事件により、一転して「稀代の悪者」として世間の猛烈な批判を浴びることになります。日本中を揺るがしたこの政界疑獄事件は、今回の山田氏・谷脇氏の接待事件どころの騒ぎではありませんでした。

 直接的には、子会社リクルートコスモスの未公開株を政財界にばら撒いていたのが贈賄にあたるとされた事件です。

「事件」発覚の発端は朝日新聞のスクープでした。川崎市の助役に対してコスモスの未公開株を配ったという内容です。江副さんは逮捕、起訴されてしまいます。長い法廷闘争の末、執行猶予付きの有罪判決となりましたが、経営者としての活動は大きく制限されることになってしまいました。ところが、その川崎市助役は逮捕もされないし起訴もされていないのです。

 というのも、当時は企業の未公開株をお世話になった関係者に保有してもらうというのは決して珍しいことではありませんでした。それがあれだけ叩かれたのは、多分に「濡れ手で粟」の役得を妬む庶民感情があったのではないでしょうか。ですから現在も「江副無罪論」を主張する識者がいるほどです。しかし江副浩正という起業家は、有罪とする根拠が盤石ではない「犯罪」によって、その社会的生命を半ば絶たれることになったのです。

 江副さんは、1980年代後半に、すでに現在のクラウド・コンピューティングサービスを展開しようとしていました。その当時、Googleのラリー・ペイジやセルゲイ・ブリン、Amazonのジェフ・ベソスよりも先に情報化社会を見通していたのです。リクルート事件がなかったら、もしかしたら日本には現在のGAFAに勝るような企業が生まれていたかもしれないのです。それが、当時は「常識」だった未公開株の譲渡という行為を咎められ、結果的に潰されることになったのです。その余波で、当時世界最高の技術集団を抱えているとも言われていたNTTを、同じように戦略的には正しい方向にリードしていた真藤恒会長も逮捕され、パージされました。リクルート事件は、江副さんだけでなく、日本国民にとっても大きな不幸をもたらしたと言えるのではないでしょうか。

 制限速度80キロの道路を85キロで走ったからといって国民総出で叩いているうちに、もっともっと大事なことを見逃してしまう、ということが本当に起こりえます。不正はその犯した罪や違反の度合いに応じて、本人が責任を取ればいい。国会を責任追及ショーのようにする必要はありません。

 いまこそ国会は、本来取り組むべき課題を改めて思い返し、生まれ変わらなければなりません。

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山田真貴子・前内閣広報官(写真:Motoo Naka/アフロ)