2020年NHK連続テレビ小説エール」は昭和の名作曲家・古関裕而モデルドラマだった。

 古関は戦前戦中、多くの戦時歌謡を作曲したが、その代表作の1つが1940年の「暁に祈る」。陸軍馬政局が製作した映画「征戦愛馬譜 暁に祈る」(佐々木康監督)の準主題歌だったが、「あゝ(あ)あの顔で あの声で」で始まる印象的なメロディーで広く国民に愛唱された。「詞(野村俊夫)も曲も歌手(伊藤久男)も、渾然一体となった傑作」(塩沢実信「昭和の戦時歌謡物語」)で、古関自身、「私の数多い作曲の中で最も大衆に愛され、自分としても快心の作」(「鐘よ鳴り響け 古関裕而自伝」)と言う。

 今回取り上げるのは、直接この歌とは関係がない、戦争直後、極寒のモンゴルの捕虜収容所での衝撃的な事件。ただ、このネーミングが悲劇の理不尽さを強烈に表現し、人々の記憶に長く深く刻みつけたことは間違いない。事件は、敗戦後の兵士の抑留の困苦と人間性の喪失など、戦争がもたらす惨害の一面をいまに伝えている。

「生身のまま冷凍人間」

 それは一本の記事から始まった。

〈 外蒙抑留所の怪事 同胞虐殺の「吉村隊長」生残り隊員が語る

 生身のまゝ(ま)冷凍人間 鬼畜!リンチの数々

 

 昨年から今年にかけて、ソ連引き揚げ者たちの中から「吉村隊の記録」という不気味な同胞虐殺の物語が各種の刊行物によって伝えられている。それは吉村という狡猾、残忍な男の支配した不気味で中世的な収容所の事件であるが、「吉村隊」に関する限り、いずれも断片的であるか、創意を交えており、自らの体験ではないところにこの惨劇の実態を証明するよすがもなかったところ、たまたまその吉村隊の生き残りを探し当てることができ、ここに吉川慶作君(26)=港区虎ノ門、晩翠軒ビル内、日本繊維教育用品会社勤務=の話を得た。以下はこの吉村隊の残忍な作業で片腕まで奪われた生き証人が語る現代の「死の家の記録」である。〉

 1949年3月15日付朝日は2面(当時はまだ朝刊のみ原則2ページ建て)のトップで「真相を語る、片腕をなくした吉川氏」の写真入りで報じた。「外蒙のウランバートルにこの悲劇は始まる」が本文書き出しの証言は、1945年10月、中国・熱河から貨車で外蒙古(当時=現モンゴル)のウランバートルに到着したところからスタートする。

〈 吉村隊はその西北の川岸に建った羊毛工場にあった。隊長は吉村と自称していたが、本名は池田だということだった。36、7歳の四角い顔のヘビのように冷たい目をした男で宮崎の生まれ。元憲兵曹長とも言っていた。小学校を出て、苦学して高文(高等文官試験)をとり、神戸で検事をしていたとのことだ。吉村ははじめはただの捕虜にすぎなかったが、捕虜中のゴロツキ、遊び人などをうまく引きつけ、一方、外蒙軍の所長に、自分を捕虜の監督にすれば、全員の作業量を20%一挙に増してみせると売り込み、隊長に就任。一躍中佐の階級に任ぜられた。そこでその広言を実行して地位を不動にするため、酷使と私刑を始めだした。〉

「高文」のくだりは事実ではないことが後で分かる。具体的な作業内容についてこう述べている。

4時から午前1時まで働かされた

〈 朝午前4時にたたき起こされると、まず朝飯前に約2000メートルも離れた山から電信棒ほどの材木を2本ずつ運びださねば飯を食わせない。それで、すきっ腹にその重労働をやってのけ、やっと朝飯にありつくと、次には8時間のれんが焼き、羊毛紡ぎ、石切りが待っている。それを終えて帰ってくるのが午後4時。息つく間もなく、収容所のそばを流れる川に追い立てられ、いかだから材木を解かねばならない。それが終わると9時半すぎになる。そして、やり遂げた者だけが晩飯を食うことを許される。晩飯が終わると、羊毛紡ぎを夜業でやらせるのだから、労働から解放されて眠るのはいつも(午前)1時すぎ。4時に起きるから、正味3時間の睡眠しかとれない。

 

 弱い者や基準量をやり遂げぬ者は、吉村の手下のゴロツキが回ってきて殴る蹴るの暴行を加える。そのため作業ははかどるが、収容所内は悲鳴が絶え間なく聞こえるようになった。円匙(えんび=シャベル)で殴られてザクロのように頭がパックリと割れて死ぬ者も出た。私も睡魔と闘いながら作業しているうち、機械に巻き込まれて、ついに左腕を失った。はじめ、共同して吉村に当たろうという計画が出たが、いち早くそれに感づいた彼は巧妙なスパイ制度をとった。密告した者には多く飯を食わせ、仕事の量を減らせる。この巧みな手段に脆くも結束は崩された。吉村の目には、捕虜の動静は針一つ落ちたのでも伝わる。私たちは誰もが信用できなくなった。吉村はそれを見てニタニタ笑いながら、ゴロツキどもと毎日酒を飲んでいるのだった。〉

 ウランバートルは世界で最も寒い首都で、冬の最低気温は零下40度より下がるとされた。当時は首都機能の整備を急ピッチで進めており、国立劇場や国立大学など、いまも残る公共施設が日本人捕虜の手によって造られた。

 それにしても、その日の労働のノルマが果たせなければ私刑を加えるという、信じられない状況だが、証言によれば、恐るべき実態はさらにあった。話は核心に近づいていく。

糸のような最後の悲鳴

〈 ウランバートルの郊外の山のふもとに死亡者の墓地がある。他の収容所の病死者もここに葬られるのだが、その大部分は吉村隊の私刑者の墓だった。春、捕虜たちは深く長い穴を掘らされる。死んだ男たちはその中に放り込まれ、1本のシラカバが無造作に立てられる。そのシラカバ2000本にも達し、不気味な林となった。そして収容所内では、吉村の命令通り働けないため絶食の処罰を受け、骨と皮にやせこけた男が病んだ家畜のように白い目をむいて縛られているようになった。捕虜中の一般地方民や体の弱い補充兵が多く彼のリンチの対象だった。

 

 そのうちに吉村はさらに残虐な私刑を考えだした。“暁に祈る”という儀式である。基準量に達せず、絶食のリンチで労働力をなくした男が吉村の部屋の前に呼び出される。裸にされ縄で縛られ木に括りつけられる。外蒙の冬の寒気が翌日までには完全に真っ白い冷凍人間をつくり上げる。明け方、力尽きて、糸のような細い最後の悲鳴をあげる。それが“暁に祈る”だ。この方法で殺された男だけでも30人はいたと思う。〉

 これが事実なら、たとえ捕虜収容所内の出来事といっても、明らかな非人道的な犯罪行為だ。記事は朝日の特ダネの形だったが、記事にもあるように、事件は一部の刊行物によって一般にも知られ始め、その中では「吉村隊長」を「ウランバートルの鬼」と表現したものもあった。

 1948年に出版されたソ連帰還者生活擁護同盟文化部編「われらソ連に生きて」の中で栗原康譽という引き揚げ者が、ソ連からの引き揚げ船の乗船地であるナホトカの思い出を書いた文章の中に次のような描写がある。

〈(19)47年末、外蒙から到着した部隊はさらに悪く、ほとんどが軍隊組織そのままで、その最も陰惨なのが例の「暁に祈る」の吉村少尉である。

 

 彼はこの星(階級)の偉力で兵隊たちをこき使いゼイタクざんまいにふけった。そして、気に食わない者があると、いささかの容赦もなく、私刑に処し、その最も重刑が「暁に祈る」なのであった。美しい名前のこの刑罰はどんなのかというと、夕方兵隊を素っ裸にして、東面して木にゆわえつけるのだ。零下何十度の極寒だからたまらない。翌朝、東の空が白むころには、当然冷たくなっている。そして東に向かって頭を垂れているので「暁に祈る」と呼ばれたのだ。外蒙の抑留者たちを震え上がらせたこの吉村が、ナホトカの兵士大会で摘発されて、自らこの刑で殺したと白状したのが17名。そのとき、列中の兵隊が「うそつけ! 28名だ!」と叫んだ。〉

 当時ナホトカなどでは、抑留期間中の上官の行為を糾弾する「人民裁判」がそこここで行われていた。それは、ソ連で社会主義の「民主化教育」を受けた「民主グループ」が、日本国内の政治情勢を見据えて主導した動きだった。この文章では池田を「殺人鬼」と呼んでおり、「吉村隊事件」とも呼称されたこの事件が、既に抑留引き揚げ者の間では有名だったことがうかがえる。

 御田重宝「シベリア抑留」には、ナホトカの民主グループの間で「吉村隊長」について「ウランバートルからすごいのが帰ってくる。生かしては帰さんと言う者がいるそうだ」といううわさがあったとの証言を記録している。

 ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会・編集・発行「捕虜体験記1 歴史・総集篇」に付いている「シベリア歌曲選」には、ウランバートルのアムグロン収容所で真山基という人が1946年1月に作詞した「かちかち氷る蒙古の夜」という歌の歌詞が載っている。その4番はこうだ。吉村隊で厳しい処罰が行われたピークは1946年11月1947年2月ごろとされるので、まだ「暁に祈る」という言葉はできていなかったが、現地の状況をほうふつとさせる。

〈 ノルマあがらず 戦友は

 酷寒零下 三十度

 裸で受けし 制裁を

 暁待ちて 死んで行った

 かちかち氷る 蒙古の夜〉

 そして実は、朝日が報道する直前、「週刊朝日」1949年3月13日号がこの事件を特集で取り上げていた。「吉村隊を裁け ソ連抑留記録から」と題して、シベリア抑留全体について論じる中で「暁に祈る」事件に焦点を当てた。「われらソ連に生きて」や、のちに胡桃沢耕史のペンネームで、抑留生活を描いた「黒パン俘虜記」で直木賞を受賞する清水正二郎「国境物語」など、事件を記した刊行物を紹介。「吉村」について「残念ながら、彼のフルネームはどの書にも記述されていない」とし、「引き揚げの途中、多数の元隊員によって復讐され、殺されたともなっており」などと、彼のその後については諸説あると書いた。

シベリア抑留」の悲劇が背景に

 こうした事件の背景には戦後の膨大な海外からの引き揚げ者、とりわけ悲惨な「シベリア抑留」の問題があった。日本が戦争に敗れ、海外にいた兵士や一般人が日本に引き揚げてきた。「戦後史大事典」と橋本健二「はじまりの戦後日本」によれば、敗戦まで海外にいたのは軍人・軍属約350万人、一般邦人約320万人の計約670万人。1946年末までに500万人以上が引き揚げ、1948年には残っていた東南アジアからも引き揚げが行われた。

 しかし、ソ連参戦と中国の内戦の影響で引き揚げが困難を極めた人々もあった。満洲(現中国東北部)、南樺太(現サハリン)、千島で降伏した日本兵と一部民間人はシベリアへ送られて抑留され、大部分が長期にわたって強制労働をさせられた。

 兵士のすみやかな帰還を約束したポツダム宣言に違背した行為だったが、その詳しいいきさつと正確な人数は諸説あってはっきりしない。

「捕虜体験記1 歴史・総集篇」によると、当時の厚生省援護局の推定ではソ連とその強い影響下にあったモンゴルを合わせた抑留者は約57万5000人、うち死亡者約5万5000人とされた。ソ連側の資料でも捕虜総数は約61万人、死者約6万2000人。「戦後史大事典」は「約86万人といわれる」としている。うち、モンゴルには厚生省援護局推計では「1万人以上」、ソ連側資料では約1万2000人とされるが、1万3000人とする説や2万6000人説もある。

「わが民族性と人道根本に触れる問題なのだ」

 朝日は初報翌々日の3月17日付の1面コラム「天声人語」で取り上げた。「同胞に加えられたこのような人道の罪は、日本人の手によって徹底的に裁くべきである」と主張。「われわれの民族性の中にこういう血が宿命的に潜んでいるとは信じたくない。それは特殊の例外と思いたい。しかし実際には、外蒙、比島(フィリピン)その他、各地の収容所にも大小の吉村隊事件があったことを聞いている」とし「わが民族性と人道根本に触れる問題なのだ」と指摘した。

 筆者は「天声人語」を17年間担当した有名なコラムニスト荒垣秀雄。彼は雑誌「人間」の同年6月号にも「“暁に祈る”と民族性」という、同趣旨の論文を載せている。当時はまだ外地からの引き揚げが続いており、朝日の記事の反響は大きく、一躍社会問題となった。

リンチは曲解だ」「私に罪はないはずだ」

 朝日は3月19日付で「吉村隊長は日本に居た 本社記者 五島列島で突き止む」の大見出しで2面のほぼ半分を使って報じた。元隊員らの話から吉村隊長が長崎・五島富江町の妻の実家にいることを突き止めて直撃取材。吉村隊長は本名・池田重善(34)であることを明らかにした。「訪れた記者に対して池田は『私に罪はないはずだ。いずれ真相は明らかになろう』と強い態度で語っている」と記述。「“リンチは曲解だ” 精力的な顔、鋭い眼」が見出しの「会見記」を載せた。

〈 池田はその中肉中背の姿―どことなく憲兵隊のにおいがついている―を現した。

 

 浅黒い、精力的な容相、体も頑健そのものだ。折々ギョロッと目玉が光る。記者を待ち構えたかのように落ち着きはらっている。既に15日付の朝日新聞記事を読んでいたといい、「封建的な日本軍隊のどの部隊でも多かれ少なかれあったことなのだ。そうひどいものではない」と前置きしてよどみなく語るのだった。〉

 以下、池田の説明が続く。

〈 私は外蒙のウランバートルの西北郊外の北兵舎と呼ぶ羊毛工場に収容され、いつの間にか隊長に推された。隊員は約300名いたが、その後、南兵舎の長谷川隊が合流。隊員は700名に増えた。隊員の半分は満州国警察官や(居留)民団員(民間人)で、新京刑務所ヤクザも多数いて製材、木工、羊毛工場などの作業に従事していた。私は隊長として隊員に次のようなゲキを飛ばした。「私たちは敗戦によって剣を失ったが、残された玉と鏡を磨いて進まねばならぬ。そのためには、強制労働を完全に克服した者こそ難関再建の礎となって最後の勝利を得るのだ。私たちはただ漫然と労働するのではなく、技術を身につけることが抑留生活を意義あらしめるのだ。そして、この苦しみをむしろ感謝しよう」と。こうして全員ノルマ(労働基準量)を完遂するため頑張り通し、ほかの部隊に見られぬ高能率をあげたため、吉村隊は別名を白星隊(勝利の部隊の意味か)と称され、その技術の優秀を伝えられるほどになった。〉

「全てが命令だった」

〈 しかし、給料の分配問題から隊内にごたごたが起こり、賭博が流行して金に困った揚げ句、盗みが多くなり、ついに40余名が窃盗罪で当局の処罰を受けることになった。かくて窃盗、逃亡の罪を犯した14名の人が手首に縄をかけられたまま、零下20度くらいの寒中にさらされていた。監視付きではあったが、防寒具は身に着けていた。激しい苦しみに耐えようと、努力を続けていた人たちは、ようやく東が白むのを見て、心の緩みから猛烈な睡魔に襲われ、自然に頭を下げる。これが“暁に祈る”というふうにいつの間にか伝わった。私が直接私刑をやったのではなく、全てが命令であったのだ。〉

 記事で池田はこう弁明。周りに用心棒としてゴロツキを置いたことも、隊員の賃金を着服したことも曲解だと主張し、こう付け加えた。「吉村と偽名したのは特務機関長の指示で、抑留されたとき、歩兵伍長として妻の姓を名乗ったもので、このことは抑留後すぐ発覚して、1週間ほど刑務所に引っ張られ、厳重な取り調べを受けた。隊員の死亡者は30人ぐらいで、肺結核がほとんど大部分。その他がけ崩れで5名ほど死亡した」。

 これに対し、元隊員が傷害致死などで池田を近く東京地検に告発することが同じ紙面で記事になっている。元隊員らの「暁に祈る」目撃証言も載っているが、併用写真の説明は「(朝日)本社に集まった吉村隊関係者」になっており、朝日の“仕掛け”であることが分かる。

「これまでの暴虐を同胞の生身に加えたというのは、何と言ったって許されるべきことではない」

 次いで3月20日付朝日は、またも2面トップで「これが吉村隊長」の見出しで池田の写真を初めて載せた。ただし、写真は「昭和17、8(1942~43)年ごろの池田」。その後「トレードマーク」となるロイド眼鏡も掛けていない。

 記事によると、長崎県・五島では報道で知った島民がバスで富江町の池田の居場所に殺到する騒ぎに。本人は「生まれて間もない一粒種の赤ん坊をひざに乗せて長火鉢の前にゆったりと座り」、妻もそばにいた。「最初の新聞記事に出た吉川君の話に『虐殺された兵隊の白い墓標が2000も林立していた』とあったが、吉村隊全員が700名なのだ。誤りは自ら明らかではないか」などと責任を否定した。

 同じ紙面では、告発を想定して「法律はどう裁くか 前例ない事件」の見出しで、当時占領下で外交関係が復活していなかった日本で、外国での犯罪を裁くことの問題点などを論じている。

 3月24日付朝日2面はトップで「吉村隊長を告発 元隊員が東京地検へ」の見出し。初報に登場した吉川慶作・元吉村隊員ら2人が23日午後、東京地検を訪れ、検事正に「吉村隊長こと池田重善のウランバートル収容所における残虐行為」について正式に告発。受理され、東京地検は特捜部に基礎調査を命じたことを報じた。

 別項の「私はこう思う」では作家・大佛次郎が「これまでの暴虐を同胞の生身に加えたというのは、何と言ったって許されるべきことではない」として「告発は当然」とコメント。田中耕太郎・参院議員(のち最高裁長官、文化勲章受章者)は「吉村隊事件は国際法の問題ではなく、私法上また刑法上、人類一般の普遍的原理に基づき正義の実現のために行う裁判だから主権の問題にかかわらずやれることだと思う」との見解を述べた。

 この告発の段階で毎日も「外蒙で同胞を虐待」の見出しで初めて報道した。五島を訪れた毎日の記者に、池田は「デマの出た原因は、私が将校でないのに隊長に選ばれたことからのねたみがあると思う」と語っている。朝日の報道の反響は既に広がっており、同日付朝日の「声」欄には、報道と同様の事実を元吉村隊員の兄から聞いたという人と、「国民の手で裁け」と求める「反戦主義者で長期間拘留された官吏」の投書が載っている。

「私は朝日新聞社に殺された」? 極寒の捕虜収容所「鬼畜のリンチ事件」が残したもの へ続く

(小池 新)

朝日の第一報。センセーショナルなこと!