昨年秋のこと。20年来、連絡を取っていなかった友人から、突然メッセージが届いた。名古屋市にある廃墟を見にいって、その感想を教えてほしいという内容だった。廃墟は名古屋市中川区の下之一色という場所にあるという。岐阜県在住の私は、これまで幾度となく名古屋を訪れているが、下之一色という地名は聞いたことがなかった。

 友人は、これまで私が多くの廃墟を訪れていることを知り、このメッセージを送ってきたようだ。確かに、廃墟と聞いたら体が動いてしまう。突然のことに戸惑いながらも、数日後には現地に足を運んでいた。

コンクリート2階建ての“廃墟”

 行ってみると、庄内川沿いに、大きなコンクリートの建物が建っていた。友人のメッセージには、冷蔵倉庫の廃墟だと書かれていた。すぐ隣に魚市場があり、それと関連がありそうだ。友人は昔から釣りが趣味だったので、その関係で川沿いにあるこの廃墟のことを知ったのだろう。

 立ち入り許可をもらうべく、手がかりを探ろうと隣の魚市場を訪れてみたが、誰もいなかった。時刻は午前10時、とっくに市場は終わっていたのだ。下調べせずに来たことを後悔しながら、廃墟の外観だけでも眺めてみることにした。

 その建物は鉄筋コンクリート2階建で、年季は入っているが、そこまで古びた感じはしない。正面からは、冷蔵室と書かれた大きな扉も見える。

 ついでに周辺も探索してみると、川沿いに古びた廃屋や、不自然な空き地が多いことに気付いた。コンクリートの土台だけが残り、要塞のようになっている場所も、複数あった。かつては多くの冷蔵倉庫やお店が軒を並べていたのだろうか。

さらに足を延ばすとレトロ商店街も

 さらに足を延ばすと、商店街もあった。といっても商店はまばらで人通りは少なく、時々車が通り過ぎていく程度だ。半世紀以上前から営業していそうな店を見つけては、嬉しくなって写真を撮ったりした。

《お客様の家に行っています。お電話下さい。》と携帯番号が書かれた張り紙がしてあり、固定電話の子機が椅子の上に置かれていた。レトロで人情味を感じる商店街は、歩いていて退屈しない。

この街に何があったのか?

 結局、この日は廃墟についての手がかりは何も得られずに終わった。ただ、魚市場はたしかに営業しているものの、周辺の廃れた雰囲気が終始気になった。帰宅してから調べてみると、私が訪れた下之一色は、そもそも漁業で栄えた街だということが分かった。

 この地の漁業の歴史は、江戸時代まで遡る。当時は庄内川が度々氾濫し、大きな被害をもたらしていた。そこで尾張藩は庄内川を分流させて、新川を造った。下之一色はその2つの川に挟まれることになり、伊勢湾にもほど近いことから、やがて漁師町として発展してゆく。

 その後、大正元年に鉄道の敷設が始まると、この地を訪れる業者が急増した。カレイやハマグリ、ワタリガニ、クルマエビなど多くの魚介類が水揚げされ、最盛期を迎えた昭和初期には“名古屋の台所”と呼ばれるようにまでなった。漁港の近くに設けられた魚市場は大いに賑わい、遠方から買い付けに来る行商人も多かったという。賑わいは魚市場に留まらず、市場の周辺には船や海産物の問屋も建ち並び、商店街は人で溢れていた。

漁師町としての終焉

 そのように漁師町として活況に満ちていた下之一色だが、時が経つにつれて徐々に陰りが見えてくる。戦後、庄内川の上流側に製紙工場ができると水質が悪化、漁獲高は減少した。また、昭和34年伊勢湾台風が猛威を振るったことをきっかけに、高潮防波堤を建設することとなり、同時期に伊勢湾の埋め立て計画も進行していたことから、漁師たちは漁業権を放棄した。

 下之一色漁協は昭和39年に解散し、漁師町としての歴史に終止符が打たれた。鉄道も昭和44年に廃止された。以後、他の漁港から仕入れた魚介類を販売する魚市場だけが残った――。

 そうした衰退の過程で、多くの冷蔵倉庫が廃墟となり、空き地となったようだ。活気を失った商店街は、わずかな店舗が往時の面影を留め、哀愁を滲ませている。

 今年3月、その魚市場も閉場すると知り、再び現地を訪れた。

朝5時、魚市場に行ってみると……

 早朝5時、まだ薄暗いなか、魚市場に足を踏み入れる。下之一色魚市場は、業者だけではなく個人も自由に出入りして買うことができる。魚介類を扱う店のほか、だし巻き卵をその場で焼いて販売している店などもあり、全部で16軒。空きスペースが目立ち、最盛期に比べると半分以下だが、それでも周辺に何もない立地を考えると、十分賑わっているように感じられた。

 店主が魚を慣れた手つきでさばきながら、客に声をかけている。漏れ聞こえてくる内容から、客のほとんどが常連だということが分かった。

 私は、さばいたばかりの刺身と、焼きたてのだし巻き卵を購入した。この状況で美味しくない訳がない。欲を言えばご飯がほしいところだったが、早朝から刺身で満腹になるという、何とも贅沢な朝食にありつけた。

 あさりの佃煮をお土産にして、すっかり気を良くした私は、帰宅した後になって、ようやく廃墟のことを思い出した。魚市場を楽しむので満足し、廃墟のことを聞くのを忘れていたのだ。そこで、魚市場が閉場する3月13日当日、三たび魚市場を訪れたのだった。

下之一色魚市場、最後の日

 最終日の朝5時、生憎の雨天だったが、市場は活気に満ちていた。なかには今日で閉場ということを知らずに買い物に来ている客もいた。「えー! 今日で終わりかね?」「今までありがとね」そんな会話が飛び交っている。

 多くのお店の方に話を聞いたが、皆さん寂しいながらも閉場は仕方がない、とおっしゃっていた。「昔に比べると店もお客さんも少なくなったし、みんな高齢化した。いいタイミングじゃないか」と、自分に言い聞かせるように語る姿が印象に残った。16軒のうち数軒はご自宅などで商いを続けるが、ほとんどの店は廃業されるとのことだった。

 これといったイベントもなく、7時を過ぎると、商売を終えた店から次々と店じまいをして帰ってゆく。

「それじゃあね、長いことお世話になったね」「明日からもう顔見んのかね」

 お店の人同士が、最後の会話を交わしていた。

 午前9時、もう商いは終了し、数軒の店が後片付けをしているのみになった。そのうちの一軒で、ずっと掲げていた店の看板を下ろす瞬間を目撃し、思わず声をかけた。

100年以上の歴史に幕

「ここが始まった時から、何代もずっと商売させてもらった。今はスーパーに行けば何でも買える。これも時代の流れやね」

 お店の方も、お客さんも、私も、仕方がないということは分かっている。時代の流れと言われればその通りだが、魚市場に限らず、これまで便利さや安さと引き換えに、多くのものが失われてきた。非効率で合理性に欠けるシステムが淘汰されるのは自然な流れだが、そこでしか得られない会話や情報、昂揚感もある。また、楽しかったり、寂しくなったりという感覚を経験できるのも、重要なことだと思う。買い物に求められるのは、決して安さや便利さだけではないはずだ。

 後片付けが続く魚市場に、多数の作業員が入ってきた。解体に向けた準備のため、冷蔵庫や照明などの機材を運び出すのだという。余韻に浸る暇もなく、次々と魚市場の痕跡が運び出されてゆき、下之一色魚市場は100年を越える歴史に幕を下ろした。

 これほど急ピッチに工事が進められるのには、訳があった。南海トラフなどの大地震に伴う巨大津波に備え、庄内川の護岸工事を行うためだ。水害対策によってはじまった下之一色の漁業の歴史は、水害対策によって衰退し、水害対策によって終わりを迎えた。

「また漁ができる日が来るかもしれない」

 最後に、忘れそうになっていた廃墟のことを、魚市場の理事長に聞いてみた。昔は多くの冷蔵倉庫があって賑わっていたが、数十年前には使われなくなった。所有者を知る人はもうおらず、現在の状況は分からないという。

 後日、それを友人に報告した。そして、なぜ廃墟を見てきてほしいと私に依頼してきたのか、ずっと抱えていた疑問をぶつけてみた。

「廃墟のことを教えたら、君のことだから魚市場にも興味を持つだろうと思ったんだ。多くの人が関心を持ち、庄内川の水が綺麗になったら、また漁ができる日が来るかもしれない。地元で獲れた美味しい魚を食べたいじゃないか」

 時代は移ろい、そして時代は巡る。数十年後、数百年後には、もしかすると下之一色は再び漁師町になっているかもしれない。下之一色で獲れた魚が再び市場に並ぶ日が来ることを、どこまでも魚が好きな友人とともに夢みている。

撮影=鹿取茂雄

(鹿取 茂雄)

廃墟情報を頼りに、早速足を運んでみた