(花園 祐:上海在住ジャーナリスト)

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 第2次大戦における著名な日本人パイロットといえば、岩本徹三坂井三郎など、海軍に在籍して零戦に搭乗していたエースパイロットらの名がよく挙げられます。しかし筆者にとって最も印象的な大戦中の日本人パイロットを挙げるとしたら、主に偵察用の零式小型水上機を操った藤田信雄(ふじた・のぶお)です。

 藤田信雄は、米国本土の爆撃に成功した、現在に至るまで史上唯一のパイロットです。今回は、藤田信雄が成功させた米国本土爆撃作戦と、戦後におけるその数奇な運命について皆さんに紹介したいと思います。

「ドーリットル空襲」への報復

 日本軍による米国本土爆撃作戦が企図されるきっかけとなったのは、1942年4月18日に米軍によって行われた、東京を含む日本本土への空爆「ドーリットル空襲」でした。

 1941年12月、日本軍による真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発しました。開戦序盤は日本軍が米軍を圧倒し、優勢な状態を維持していました。相次ぐ敗戦に米軍内では士気が落ち込んでおり、心機一転を図れるような作戦案が米軍内で検討された結果、日本本土への直接爆撃案が採用されました。

 この作戦では戦果よりも確実な成功が求められました。そのため、太平洋上の空母から爆撃機を飛ばし、日本本土の空爆後はそのまま同盟国の中国(当時は中華民国)まで飛んで、中国大陸で機体を廃棄するという手段が採られています。指揮官ジミー・ドーリットルの名前から「ドーリットル空襲作戦」と名付けられ、一部で被撃墜機が出たものの、東京、横須賀名古屋、神戸などへの空爆は見事に成功しました。

 この作戦の成功は米軍内の士気を高めただけでなく、日本軍部にも大きな衝撃を与えました。その衝撃を払拭するためか、日本軍部内でも報復として米本土への爆撃作戦が企図されることとなりました。

潜水艦からの出撃

 この時に日本軍が考え出した作戦は、潜水艦で米国西海岸へ近づき、潜水艦内に折り畳んで格納されている零式小型水上機を飛ばして海岸地帯の森林を爆撃し、山火事を引き起こすというものでした。

 作戦を実行するパイロットには、かねてより同機に熟練し、腕が高いと評判であった藤田信雄が選ばれることとなりました。

 こうしてパイロットに指名された藤田でしたが、その作戦内容の困難さから生還できる自信が持てず、遺書を書き残して出撃に臨んだといいます。当時、日本と米国西海岸との間に、潜水艦が燃料補給できる場所はありませんでした。また空爆の前後に米軍の警戒網に感知される可能性も高く、一撃を加えるだけならまだしも日本本土に帰還しなければならないことも含めると、非常に困難な作戦であったことは間違いないでしょう。

 それでも命令を受けた藤田は拒否することはせず、伊号第25潜水艦(「伊25」)に乗り込み、米本土へと旅立ちました。

空爆に成功し帰還するも・・・

 日本出発後、約1カ月の航海を経て、藤田の乗った伊25は無事に米国西海岸まで接近しました。満を持して9月9日、藤田は爆装した零式小型水上機に乗り込んで出撃し、オレゴン州の森林地帯に焼夷弾を落とすと、大過なく帰還することに成功しました。続いて9月29日にも出撃して、やはり前回同様に焼夷弾を投下した後、無事に伊25まで帰還しました。

 三度目の攻撃も計画されていましたが天候不良により中止され、伊25は日本への帰路につきました。途中、ソ連の潜水艦を米軍の潜水艦と誤認して沈めるなどいくつか小規模の戦闘こそあったものの、懸念された米海軍の追跡などはなく、伊25は無事に日本本土への帰還を果たしました。

 こうして困難な作戦を成し遂げ九死に一生を得て帰還した藤田でしたが、軍部へ出頭するや、上司からの厳しい叱責が待っていました。というのも、藤田の落とした焼夷弾は森林地帯で燃え広がらず、木を数本なぎ倒しただけで終わっていたからです。結果が伴わなかったことから、作戦は軍部では「失敗」として扱われました。

突然、首相から呼び出される

 米本土爆撃作戦の後、藤田は航空隊の教官となり、終戦間際には特攻隊に配属されたものの、実際に出撃する前に終戦を迎えました。

 終戦後もパイロットとして方々から誘いを受けていましたが、藤田はそれらを断り、茨城県土浦市の工場で働き続けました。しかし1962年のある日、政府の役人から都内の料亭に来るよう告げられます。呼び出されて訪れたその料亭では、なんと時の総理大臣池田勇人と、官房長官大平正芳が待っていました。

 2人は藤田に対し、米国が藤田の行方を探していることを伝えた上で「日本政府としてはこれに一切関与しない」と述べました。言うなれば、煮るなり焼くなり米国に全部任せるといったところで、これを聞いた藤田は即座に「米国が報復に来た」と感じたそうです。

 その後、米国側から正式に連絡があり、藤田は米国へと連れて行かれることとなりました。戦犯として裁かれ、処刑されることを覚悟した藤田信雄は、自決用にと家宝の日本刀を携え、かつて自分が空爆を行ったオレゴン州ブルッキングス市へ向かいました。

 現地に到着した藤田が戦々恐々としてタラップを降りたところ、その眼下には、思いもよらぬ光景が広がっていました。多くの市民が明るい笑顔で藤田の来訪を歓迎してくれていたのです。

「戦犯」を裁くためではなかった

 実は藤田の招聘は、戦犯としてではなく、ブルッキングス市の地元で行われるお祭りへのゲストとして招くためでした。かつてこの地への爆撃に成功した敵国の英雄を招こうと企画されたものだったのです。これには当の本人の藤田も大いに驚くとともに、そのあまりの歓待ぶりに感激して、自決用に持ってきた刀をそのままブルッキングス市に寄贈しています。

 この時の訪問以降も、藤田とブルッキングス市の交流は続きました。藤田自身がお金を工面してブルッキングス市の高校生を日本に招いたことがあったほか、1990年、92年、95年にはブルッキングス市を訪問しています。95年の訪問時には、当時の市長を同乗させながら自らセスナ機を操縦し、かつての空爆航路を飛んだと言われています。

 それから2年後の97年、藤田は85歳で亡くなりましたが、その直前にはブルッキングス市から名誉市民の称号を贈られています。空爆から始まった藤田とブルッキングス市との縁は文字通り終生続く交流となったわけです。

 米国が藤田を戦犯ではなく敵国の英雄として扱った背景としては、空爆で人的被害が全く出なかったことが大きいでしょう。仮に死者が出ていたら、戦犯として懲罰を受けていたかもしれません。

 ただそれを差し引いても、かつて空爆を行った相手をゲストとして招いた米国、というよりブルッキングス市の度量の深さには恐れ入ります。同時に藤田に米国からの呼び出しを告げた池田勇人首相は、国家ぐるみの壮大なサプライズを仕掛けたようにも見えます。もちろん悪気はなかったと思いますが。

 以上のように、米国本土への史上唯一の爆撃に成功したパイロットは、戦後の日米交流の1ページを彩る人物となりました。日米の戦後における1つの“ノーサイド”とも言えるエピソードであり、後世に伝えていきたいと筆者が常々感じる第2次大戦にまつわる逸話でもあります。

(参考資料)
・『たけしさんま世紀末特別番組!! 世界超偉人5000人伝説』(日本テレビ、1995年12月29日放送)
大分県豊後高田市ホームページ

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