―[連載「ドン・キホーテピアス」<文/鴻上尚史>]―


◆とめ、はね、はらい、できないと0点? 教育の本当の目的とは

西日本新聞」の記事がネットに出ていて、それは、最近、よく話題になる「『とめ、はね、はらい』ができていないと、漢字ドリルは全てやり直し。テストは0点―」という小学校の指導に関するものでした。

 読んでいて、なんだか、哀しみが押し寄せてきました。

 よく分かってないと「うん。漢字を習う時は、『とめ、はね、はらい』が大切だよ。当たり前だろう」で終わるのですが、実際の答案用紙を見ると「この厳しさはあんまりだ」と思うのです。

 この記事では、小学校一年の子供を持つ保護者が、担任の厳しい指導を悩み、実際のテストの写真を載せています。



 もうね、この原稿は活字で書いているから紹介が難しいんだけど、「天」という字の右下の「ノ」の字の先が少し離れているだけで減点。ほんのちょっと、外れているだけですよ。

「青」という文字は、下の「月」の右上の角が丸く書いていたから減点。

 以前、教師が、こうやって採点した後、「文字を正しく書きましょう」みたいな書き込みをしていて、その文字が「とめ、はね、はらい」がちゃんとできてなかった、なんて笑うしかない写真がツイートされてたことがありました。

 これね、「なんのために字を学ぶか?」ということを完全に見失っている指導です。

 それは、つまり、「教育とは何か?」という目的の話です。

 教育は、学校だけで完結するものではありません。
 当たり前ですね。

 教育は、学校と社会をつなぐためにあります。ちゃんと勉強するのは、「よりよい社会人になるため」です。「よりよい社会人」になるために必要なことは、「ちゃんと読める字を書く」ことです。

 それ以上でも以下でもありません。「きれいな字を書くと評価が上がる。だから、厳しく指導すべきだ」なんて言う人がいますが、そんなのは大きなお世話です。綺麗な字を書くかどうかは、本人が選ぶのです。美意識というのは、押しつけるものではないのです。

 相手がストレスなく、ちゃんと読めること。手書きの文字で大切なのは、これだけです。

「天」の「ノ」が少し離れていても、「青」の角が丸くても、ちゃんと読めます。

◆学校で満点をとることが、教育の目標になっている

 記事では、「高校生大学生の指導をしているが、字が雑で読めないことがある」と、厳しい指導に賛成する意見が紹介されていました。

 この意見と、「厳しすぎる『とめ、はね、はらい』を指導すること」は何の関係もありません。

 教育は何が目的か?という点を見失っているのです。

「シ」と「ツ」の違いは大切な問題です。これがちゃんと書けないと、「よりよい社会人」にはなれません。

 でも、「青」の「月」の角が丸くても何の問題もありません。

 もちろん、「青」の字を教える時は、「月」の角は教えます。

 けれど、それができてないからと言って、間違いにしてはいけないのです。

 それは、そういう指導をすることで、子供達に「漢字を正確に書くことのプレッシャー」しか残さないからです。間違いなく、「漢字嫌い」「文章嫌い」の子供を作るだけだからです。

「よりよい社会人」になることではなく「学校の中で満点を取ること」が目標になっている結果です。

 記事では、学習指導要領解説の国語編では「正しい字体であることを前提とした上で、柔軟に評価することが望ましい」と書かれていると紹介し、けれど、文科省教育課程課は、「国語ではなく、社会や理科など他教科で書いた字は『とめ、はね、はらい』ができていないからといって、減点はしないという柔軟な評価を意味する」と解説しています。

 つまり、他の教科はオッケーだけど、国語は別だと言いたいのでしょう。なんだ、それ。文科省が、こんな玉虫色の言い方をするから、教育に真面目過ぎる先生達は、少しの違いでも、減点や0点にするのです。

 じつは、校則と同じく、この「とめ、はね、はらい」指導も、年々、厳しくなっているように僕は感じています。学校がどんどん、子供達にとって窮屈な場所になってないかと心配するのです。

―[連載「ドン・キホーテピアス」<文/鴻上尚史>]―