(武藤 正敏:元在韓国特命全権大使)

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 福島第一原発から出た汚染水から多核種除去設備(ALPS)を通じて放射性物資を取り除いたALPS処理水(以下、処理水)を、日本政府は海洋に放出することを決定した。これについて韓国政府は、「日本政府からの事前協議がなく、日本側が一方的に決定したもので遺憾である」と猛批判を展開している。これに呼応するように、韓国の政界、マスコミ、漁業関連団体も連日、日本政府への非難を繰り返している。まさに韓国では現在、日本批判の嵐が吹き荒れているのである。

 ほとんどのメディアが日本批判を展開する中、一部には客観的事実に基づき、この問題を分析しようという試みも見られる。例えば保守系メディアとして知られる「中央日報」は、感情的な批判ばかりになっている多くのメディアとは一線を画し、様々な角度から客観的な分析も行っているのである。その報道姿勢を見ていると、日韓関係をマネージすることの難しさを実感するのと同時に、事実関係を客観的に分析し対応することの重要性も理解できるように思えてくるのである。

まともな交渉が難しい「ダブルスタンダードが当たり前」の文在寅政権

 文在寅政権は、これまで自分に都合のいいようにたびたび事実を歪曲してきた。ニューヨークタイムズ紙もソウル・釜山市長補欠選挙における文在寅氏与党の敗因に、「ネロナンブル」(自分がやればロマンス、他人がやれば不倫=ダブルスタンダード)という文在寅政権の性向を挙げているほどだ。今回の日本政府の決定についても日韓の見解の相違が目立っている。

 こういう政権と信頼関係を作り上げるのは極めて困難であり、日韓関係の回復は基本的に次期政権に委ねざるを得ないだろう。その際重要なことは、国民感情に振り回されるのではなく、客観的事実を踏まえ協議・交渉していくことである。福島第一原発の処理水の問題を一つの事例として、今後の日韓関係を進めるためのモデルを検討してみたい。

放出するのは「汚染水」ではなく「処理水」

 日本政府は「当該処理水を放流せざるを得ない状況と、放流の妥当性」を報告書にまとめている。福島第一原発では現在も原子炉を冷却するため大量の汚染水が出ている。そこからALPSを使って、セシウム・コバルト・ストロンチウムなど核分裂生成物及び活性化物質を取り除き、ほぼ浄化したものが処理水である。ただし、トリチウムだけは現在の技術では処理水から分離は不可能だ。つまり処理水はかなり浄化された状態ではあるが、トリチウムだけは除去できず残っているのである。

 この処理水は原発敷地内に設置されたタンクに貯蔵されている。現在タンクは1000基以上あるが、これが2022年夏には満杯になる。一方、敷地内にこれ以上タンクを増やし続けることはできない。この処理水をどのように扱うかが、福島第一原発の廃炉作業を進める上でも長年、大きな懸案事項となってきた。

 有力視されてきたのが海洋放出だった。

 実はトリチウムは自然界にも存在し、雨水、海水、水道水にも含まれている。また、仮に福島第一由来のトリチウムが海洋放出され、それが体内に取り込まれて内部被ばくを引き起こしたとしても、その放射線量は自然放射線による年間被ばく線量などを比較しても極めて低いとされる。

 それによって引き起こされる人体や自然界への影響を不安視する声もあるが、それらは恐怖を誇張しすぎているとも言われている。実際、IAEAも昨年2月、日本の報告書に対し「(海洋放出は)世界中の原子力発電所や核燃料サイクル施設で日常的に実施されている」と述べており、処理水の危険性については否定しているのである。

 もっと言うなら、昨年9月のIAEA定期総会では「韓国政府代表団が日本の東京電力福島第一原発対策に対して批判的な発言をしたが、韓国以外の国々からはそのような発言はなかった」という。科学的見地に立てば、福島第一原発の処理水を海洋放出しても、甚大な影響が及ぶとは考えにくいことを理解している国が多いからではないだろうか。

 それでも今回の海洋放出の決定について、日韓双方の漁業団体からは懸念が表明されている。トリチウムの海洋放出で、漁業関係者は実害を被る可能性が高い。だから彼ら反対する気持ちはよく分かる。日本の漁業者は風評被害を心配している。韓国の漁業者は「全世界の核攻撃と変わらない破滅的行為」という表現を使う人々もいるようだ。

 放射能の問題はなかなか客観的な事実だけでは片づけられない側面もある。そこに感情的な恐怖心も含まれるからだ。しかし、真実を知って対応していく以外ないのではないだろうか。

韓国政府も処理水放出による影響はほぼないとの評価しているのに

 では韓国政府は、福島第一原発の処理水海洋放出が海洋汚染に及ぼす影響について、科学的立場からどのように見ていたのだろうか。

「国民の力」安炳吉(アン・ビョンギル)議員が政府の資料を入手し明らかにしたところによれば、海洋水産部をはじめ政府部署合同タスクフォースは、昨年10月「福島原発汚染水関連現況」という報告書を作成し、「日本が福島原子力発電所内に保管中の汚染水処分方案の決定を完了し、発表の時期の決定だけ残っている」と報告していたという。

 政府は関係部署による合同部会を構成し、専門家らを交え対応を検討した。昨年10月に作成された報告書は専門家の意見として、放射性物質を除去する日本の設備について性能に問題はないと指摘し、除去できないトリチウムに関しても「海洋放出され、数年後に(韓国の)国内海域に到達しても、移動中に拡散、希釈され、有意味な影響はないと予想される」と報告。日本の近隣地域の放射線影響評価に対しても「妥当だ」との見方を示していた。

 さらに報告書によれば、韓国の原子力委員会は専門家懇談会を7回開き、「汚染水を浄化する日本の多核種除去設備(ALPS)の性能に問題がない」との判断を下していた。また、国際標準と認められる原子力放射線の影響に関する国際科学委員会(UNSCEAR)の手法を使い、日本海岸近接地域の放射線影響を評価した結果、放射線数値が「妥当だ」とも評価していたという。

「専門家の意見は政府の立場とは異なる」

 だが、こうした報告書が韓国政府内で作成されていたと国民に知れ渡ったとたん、首相傘下の国務調整室は、「専門家の意見は政府の立場とは異なる」とし、韓国政府が「汚染水」の海洋放出に反対する立場を改めて強調した。国際海洋法裁判所への提訴なども検討しているという。

 文在寅政権は、日本に関連する問題となると科学的根拠を無視し感情的な反発を示すことがしばしばである。しかし、ここまで明確に韓国政府の機関が原発処理水の問題について安全性を示しているのに、「それは政府の見解ではない」とするようでは客観的な事実に立脚した交渉や協議は不可能である。

 放射能の問題となると、どの国の国民も神経質な反応を示しがちな面は否定できない。ただ、それを科学的な根拠に基づき冷静かつ客観的に説明していくことは政府の役割である。ところが文在寅政権は、こと日韓関係になると、常に感情的に国内世論を刺激してきた。その思考回路がこうした事態を一層こじれさせているのである。

日本政府、「一方的で突然の措置」という韓国政府の主張を否定

 日本政府が処理水の海洋放出を決定したことに対し韓国政府は「日本政府の今回の決定は周辺国の安全と海洋環境に危険を招くだけでなく、最隣接国のわが国と事前の協議及び了解の過程なく取られた一方的な措置」とし、「政府は強い遺憾を表し、わが国民の安全を最優先とする原則で、必要なあらゆる措置を取っていく計画」との立場を明らかにした。

 文在寅大統領は14日、青瓦台における内部会議で「日本の原発汚染水海洋放流決定に関連し、国際海洋法裁判所に暫定措置を含めて提訴する方案を積極的に検討するように」と指示したという。

 さらに文大統領は同日、日本の相星孝一新任大使と接見して信任状を受け取ったが、その席でも「日本の原発汚染水海洋放流決定に対して地理的にもっと近く海を共有した韓国の懸念が非常に大きい」と述べた由である。新任大使の信任状捧呈式でこのような抗議を行うことは異例であろう。

 文在寅政権は、この日本政府の決定が「一方的で突然の措置」だったという。しかし、日本政府は韓国の意見を十分に聴取し、必要な情報も共有したと主張している。

 相星大使は、13日に韓国外交部に呼び出された後の報道資料で「韓国政府を含む幅広い関係者との意思疎通の結果も参照した」とし「本件について、これまで日韓両政府が互いに努力して築いてきた信頼関係に基づき実施した」と明らかにした。

 実際、日本は韓国側に何度も説明し、理解を求めてきた。

 例えば2019年8月13日の定例会見で外交部のキム・インチョル報道官は「政府は2018年8月、日本の汚染水海洋放出計画に対する情報を最初に入手した直後、2018年10月日本側に我々の懸念と要望事項をまとめた意見書を伝達した」と明らかにしている。その後韓国政府は日本との二国間協議で該当事案をテーブルに上げ続けた。

 そうした経緯を踏まえ中央日報も「一方的かつ突然なことで受け入れることができないという反論論理は力を失うほかない」と断じている。

 それでも韓国政府は公式コメントで「われわれ国会、市民社会、地方自治体、地方議会がすべて反対している」と主張し、「国民」や議会を前面に出して抗議している。

また出た、韓国政府の「ちゃぶ台返し」

 韓国政府は日本政府と内々で協議してきたことでも、国民が反対すればいとも簡単に前言を翻してしまう。

 筆者は過去にも慰安婦問題でこうした事例を経験している。

 慰安婦に関する「河野談話」、「アジア女性基金の設立」のいずれの場合にも韓国政府の要請で内々に措置の概要を説明していた。

「日本政府が独自に取る措置」という位置づけであったので、事前説明は必ずしも必要はなかった。しかし、現実の問題として措置の発表の後、韓国政府が「措置に反対」と言えば、逆に状況が悪化するのは必定である。そこで内々の説明を実施していたのだ。

 それでも、この措置はあくまでも日本の独自措置であるので、韓国側から出された要望事項について交渉したわけではない。韓国サイドの要望については、受け入れ可能なものについてのみ日本側の独自判断で受け入れたまでだ。

 それでも韓国政府の最初の反応は「日本政府としても努力したものだ」と好意的であった。その反応は、われわれ日本政府側に事態の進展を大いに期待させるものだった。

 ところが、慰安婦団体が抗議の声を上げたとたん、韓国政府はコロッと態度を硬化させ、あたかも事前に韓国政府の要望を出していた事実はなかったかのように、「日本側が勝手にやったことである」と逃げてしまったのである。

 今回の処理水放出についても同じような態度をとったわけだ。日本が「突然に一方的に」決めた判断であるとの態度に終始したわけだが、それはこれまでの経緯から外交上の信義則に反すると言わざるを得ないだろう。

ブリンケン国務長官は日本政府の透明性を評価

 日本政府は、近隣国だけでなく、広く国際社会に対しても透明性の確保に努めてきた。駐韓日本大使館は別途の参考資料を通じ「東京駐在の外交団を対象にこれまで100回以上の説明会を行った」と明らかにした。現に米国のトニー・ブリンケン国務長官は同日ツイッターを通じ「我々は日本政府の透明性の高い決断に感謝している」と述べている。

 加藤官房長官は13日の定例会見で「中国、韓国含む外国政府、国際社会に理解を得ていくよう努めていくことは重要だ」と述べた。日韓関係は政府レベルの関係だけではなく、国民同士の関係の方が緊密である。したがってこれまで「蚊帳の外」に置かれてきた韓国国民の理解を得る努力は必要と言えるだろう。しかし、本来それはこれまでの経緯から日韓両国政府が協力して行うべきことであろう。

 韓国のメディアによれば、処理水放出の決定に韓国や中国から批判が上がっていることに対し、ある日本政府の高官が「中国や韓国なんかに言われたくない」という感情的反発を示したという。お互い感情的になっては事態は解決しない。特に放射能の問題については、冷静に判断していくことが重要である。

韓国側が日本提訴なら日韓関係の泥沼はさらに進展

 ただ気になるのは、文大統領が「国際海洋裁判所に暫定措置を含めて提訴する方案を結局的に検討」するよう指示したことだ。その指示に従い、青瓦台の法務秘書官室が具体的検討を始めるという。

 国際海洋法裁判所への提訴について、中央日報は専門家の意見を紹介し、「法的手続き上は可能な選択肢だが、被害の立証責任は韓国にあり、結果を楽観するのは難しい」と指摘している。

 専門家によると、韓国政府が取ることのできる具体的な措置は、「国連海洋法条約付属書7の仲裁裁判所に対する提訴」と「国連海洋法裁判所への暫定措置要請」になるという。青瓦台の関係者は「暫定措置とは一種の仮処分だと考えればよい」としており、日本が放出決定を実際に執行に移すことができないよう決定の効力を中止するよう求める趣旨になる可能性がある」という。

 しかし専門家によれば、いずれの訴訟であろうとその可能性を立証する責任は問題を提起した韓国側にある。「一方的な決定」「十分な協議がなかった」という主張でさえ、上記の通り疑問の余地が大きい。日本はすでに外交団を対象として100回以上の説明を行い、国際原子力機関や米国の支持を得ているのだ。この事実を韓国が突き破るのは容易ではないだろう。

 また、韓国政府が危険性を立証するデータが必要だが、処理水に関連したデータは日本側が持っている。加えて韓国の海域に及ぼす影響を正確に測るには、海流調査やモニタリングなど精巧な科学的立証作業が必要である。第一、日本政府が処理水を海洋放出するとしているのは早くても2023年からだ。

 福島第一原発の処理水問題で法廷闘争に突入することになれば、その影響は日韓間の他の懸案にも及ぶだろう。日韓関係はさらなる泥沼にはまり込む可能性も出てきた。

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