10年前、仕事を失う覚悟で反原発運動に飛び込み、その後、俳優から政治家になる道を選んだ山本太郎。「ただちに影響はない」と繰り返した原発事故直後の政府の言葉に恐怖を抱くと同時に、「自分も切り捨てられる側の人間なんだ」と気づかされた。

そして今、「誰もが切り捨てられない社会」を目指し、れいわ新選組を率いる男が語り尽くす、自身の激動の10年とこれからのこと。

(この記事は、3月8日発売の『週刊プレイボーイ12号』に掲載されたものです)

■真綿でと思っていたら針金で首を絞められた

――3・11の前、「10年後の自分」は何をしていると想像していましたか。

山本 当時は芸能界で非常にわがままな仕事の仕方をしていました。「サーフィンが第一」の人生でしたね。中期的には「世界中のいい波に乗りたい!」ということで頭がいっぱい。一方で、役者は人に認められるまでに時間がかかる仕事だから、「勝負は60代、70代、80代」みたいな感覚でいました。ちょうど直前まで韓国映画を撮っていたので、アジアにも活動の場を広げたいなと思っていました。

【写真】激動の10年を語る山本太郎氏

――そこに3・11があって人生が激変した。

山本 一番大きなきっかけを与えてくれたのが当時の民主党政権です。原発事故後、枝野幸男官房長官が「ただちに影響はない」と繰り返すのを聞いて、ものすごい恐怖を感じたんです。確かに嘘は言っていない。今すぐに何かあるわけじゃない。

でも、本当に影響がないんだったら「まったく影響がない」「心配するな」という話になりますよね。晩発性の障害が生じる可能性は排除していないのに、国民を大胆に避難させるわけでもなかった。国の無策を見て、我慢できなくなったんです。

――国は自分を守ってくれない、と感じたんですか。

山本 自分は16歳のときから芸能界にいて、それまでに同世代の中では平均以上の納税をしていたはずで、だから全員を救うことができない状態になった場合も、自分だけには何かしら優しいアプローチがあるような気がしていた。恥ずかしながら、知らない間に選民意識を持っていたんですね。最悪です。

でも、有事には当然、自分も切り捨てられる側の当事者だと初めて気づいたときに、「誰も切り捨てられない社会にするしかない」と思ったんです。

――当時は「ただちに影響が出ないんだから大丈夫だ」と主張する人たちから総攻撃されましたね。どんな感情を抱いていたんでしょうか。

山本 「いや、そうじゃない、知ってくれ。こういう危険性がありえるんだとわかってほしい」と思っていました。だって、それまで年間被曝(ひばく)線量限度は1ミリシーベルトだったんですよ。年間5ミリシーベルトで放射線管理区域なのに、避難指示基準を年間20ミリシーベルトに引き上げた時点で完全に常軌を逸している。「この国の緩やかな解散宣言だ」と思っていました。

――最初に政治的な声を上げたのはいつでしたか。

山本 2011年5月に福島のお母さんたちが文科省前に集まって声を上げる場に出向いて発言したことがスポーツ新聞に載りました。そこから積極的に市民活動に参加して発言するようになりました。そもそも芸能界では、政治的なことに口を出したら仕事的にアウトになるっていうのは常識です。最終的に自分の首を絞めることになるのはわかっていたけど、自分を抑えられなかった。原発に関して物申したくなったんです。

――仕事に関しては楽観的に考えていたんでしょうか。

山本 影響はあるだろうなと思っていました。でも、真綿で首を絞められるくらいの感じだと思っていたんです。そうしたら、針金で絞められて息の根を止められました。

■「自分」というカードは絶対出したくなかった

――芸能界での仕事が一気になくなったんですね。

山本 ええ。そのことをネットで言ったら、全国の人たちが「仲間を集めて話を聞く機会をつくる。食事代ぐらいあげるからウチに来い」と言ってくださった。それから2年ぐらい、全国に出向いて話をしていきました。

――どんなお話を?

山本 最初はとにかく原発を止めたい。原発事故による汚染の広がりに国として責任を持たせたい。避難したい人たちや生産者の方々に補償がなされてほしいと思っていました。そのためには"大勢の声"を集めて届ければ政治は変わっていくんではないかという期待を持っていたんです。

だからこそ福島の人たちにも「とにかく逃げてくれ」と言いました。でも今考えれば、あまりにも粗削り。やっぱりそういうことでは世の中は動かない。国が大丈夫だと言っている。おまえと国、どっちを信じるって言ったら、国に決まっていますよね。

――歯がゆさは感じた? 

山本 どうすれば合意形成していけるかという知識もなければ訓練をしたこともなかった。10分時間をもらったら、全部言葉で埋め尽して説得するんだと気負っていました。私に説得を試みられた人たちは早口でまくしたてられて地獄だったと思います。熱いことは伝わっても、理解して一緒に考えてもらえるかといえば難しかった。かなり"空回り"した状態でしたね。

――でも、その経験から学んで今がある、と。

山本 全国を回り、労働問題、障害者問題、貧困問題など、これまで自分がまったく知らなかった問題とも出会いました。原発事故の被曝の問題だけじゃない。世の中って、こんなに壊れていたんだと知るきっかけになりました。

――政治家を目指したのはそこからですか。

山本 最初は「一市民の立場で世の中を変えよう。変える流れに身を置くひとりだ」という感覚で2年ほど市民運動をやったんです。でも、自分の中で「変えられる」という感覚にはなりませんでした。

――限界を感じた?

山本 ただ声を上げて、みんなが集まって話しているだけでは前に進まない。熱い気持ちを持った人たちが実際に政治の中に入って動かないと世の中は変えられないと思うようになりました。最初は「誰かやれる人がやればいい」と思っていて、「自分が出る」というカードは絶対に出したくなかったんです。できれば関わりたくなかった。

――それはなぜですか。

山本 政治家なんてゴミ箱みたいな存在ですからね。何を言われても意見のひとつとして聞かなきゃいけない。みんな政治家は殴り返してこないとわかっているから好き勝手に殴りかかる。自分が仕事をしてもらった給料でさえ「税金で食いやがって」と見られます。自分のやりたいことを犠牲にしてまでやる仕事じゃない。そういうところに身を置くのは地獄じゃないですか。

――それでも政治の道に進むことになりました。

山本 2012年秋、当時の野田(佳彦)首相が安倍(晋三)さんとの党首討論衆議院解散を承諾しましたよね。民主党政権の原発被曝のアプローチはおかしいと思って政治に目が開いていったけれども、バトン自民党に移ったら、さらに悪化すると感じたんです。もう"自分が出る"というカードを出すしかありませんでした。

■大人の諦めの言葉を聞くと「やらなきゃ」という思いを強くする

――この10年、いろんな人から声をかけられたと思います。政界で戦い続ける原動力となる言葉はありましたか。

山本 「自分のやりたいことを横に置いて立候補してくれてありがとう」と言われたときはグッときましたね。これは自分からは言えないじゃないですか。

――逆にへこまされた言葉は?

山本 きつい言葉は逆に燃料になっています。コロナ禍の今も街中で皆さんの現状や要望を聞いて回っていますが、例えば、私たちの訴える「消費税廃止」に対して「無理に決まっている」と言われることもあります。「いや、無理じゃないんです。海外では何十ヵ国も消費税減税しています」と説明しても「日本は日本、よそはよそ」と言われる。

「政治にアプローチしたって無理。無駄なことするな」とも言われます。大人の諦めの言葉を聞くと少しはへこみますけど、「だからやらなきゃ」っていう思いを強くしますね。

――先月、れいわの木村英子(えいこ)議員が新型コロナに感染したとき、ネット上では「仕事もしていないのに何をやっているんだ」という厳しい言葉もたくさん目にしました。

山本 そのなかには意図的におとしめる目的で騒いでいる人もいるのかもしれません。本人が特定されないということで、もう世界中を呪うことが自由化されていますよね。寛容とか支え合いとは程遠い。よほど疲弊しているのだろうなと思います。

でも、木村英子がこれまで国会の中でどういう活動をしてきたか、何を勝ち取ってきたかを見てもらえれば「仕事をしていない」という批判はクリアできると思っています。

――山本太郎は障害者を利用している、とも言われます。

山本 利用していますよ。これまで国会の中でなかなか前に進まなかった障害者施策を当事者の力を借りて変えていくために。ただ、今回のコロナ感染で考えてほしいのは、木村英子は重度障害があり、常に介護が必要で介護者との濃厚接触が避けられないため、感染対策には日頃から気を使っている。その上でも陽性になりえる。このことから、皆さんがさらに警戒したり備えたりっていうことにつなげていかなきゃいけないですね。

■「政治家でい続ける」が目的になったら辞める

――政治の世界の構造的な話をすれば、社会的に強い人のために政治をやったほうが選挙の資金は集まりやすいですよね。逆に社会的に弱っている人たちのために戦おうとすると、お金は集まりにくい。

山本 そうですね。大企業は私たちの政策を喜びません。日本がこのまま衰退していくとしても、変化せず今を継続してほしいという意見が圧倒的でしょう。大企業は働く人々をより流動化させたり、企業の税負担が少なくなるような方向性を目指しています。

当然、私たちに応援はありません。大企業やお金持ちの側に立てば一口で大きなお金がもらえるわけだから圧倒的に効率がいい。一方、私たちを支援してくださる方々の一口は、その人が生活の中で出せる精いっぱい。本物の小口です。事務手続きの効率だけでいえば、むちゃくちゃ悪い。

その上にコロナ不況です。だから今度の選挙では皆さんからのご協力以外にも億単位での借り入れもやっていかなきゃならない。そこは乗り越えていくしかないです。

――小口の寄付頼みで、勝機はあるのでしょうか。

山本 宝くじで5億円当たったら、2、3億くれると言ってくれる友達がいます。そういう人が5人、10人いれば風が吹きますね(笑)

――宝くじ頼みですか!?

山本 一気にバーン100議席取ってひっくり返すのは、なかなか難しい。もちろん皆さんが選ぶから可能性はありますが、現実的には難しい。それを考えたら、今の2議席が次は5議席とか、2桁に乗せることで立ち位置が確実に変わります。

今よりも数を増やして、与党も野党も私たちとの話し合いに応じなければいけないような状況にしたい。人数が増えて予算委員会に入ればテレビに映るし認知度は格段に上がります。今、私たちは圧倒的に露出が限定されているから、しんどい。新型コロナで全国を回ることもできていませんしね。

――支援者が「やっぱりお金持ちには勝てない」と諦めてしまう怖さは感じませんか。

山本 自分の中でエネルギーになるのが「大人の諦め」です。世の中は絶望にあふれています。「そもそも勝てるはずない。変化なんて起こせるわけがない」という世の中にどうアプローチできるか。無理だと思って選挙で棄権するくらいなら「ひっくり返したい」という気持ちを持つ私たちに力を貸してほしい。

――この10年を振り返って、政治の道に進んだことは正しい選択だったと思いますか。

山本 難しいなぁ......。もし、まったく政治に関わらないで芸能の仕事を続けていたら、わだかまりを抱えていたと思います。今はまだ、正しい選択かどうかの答えは出ませんね。道の途中だから。

――この先も政治家は続けていきますか。

山本 いつまでもダラダラとやることではないと思っています。国会議員710人のうちのひとりとして「ガス抜き」のような存在であり続ける意味はありません。それは僕じゃなくてもいい。だからこそ自分で党を旗揚げして人数を増やそうと始めました。今の枠組みが何十年も続くとは思っていません。

政治的に実現していかなきゃいけないことがあるならば、当然、ほかの勢力とくっつくこともある。もし、自分が政治家であり続けることが目的になったら、そのときは辞めたいですね。政治の世界に見切りをつけて、海辺の町で猫ちゃんと暮らしながら波がいい日には海に出たい。ゆっくり本も読みたい。

――そんな日は来ますか。

山本 来ないでしょうね。

れいわ新選組山本太郎やまもと・たろう)
1974年生まれ、兵庫県出身。タレント、俳優としてドラマや映画で活躍。原発事故を機に反原発運動に参加、2013年参議院選挙に出馬し当選。19年にれいわ新選組を旗揚げし、同年の参議院選挙で2議席を獲得。著書に『#あなたを幸せにしたいんだ 山本太郎れいわ新選組』など

インタビュー・構成/畠山理仁 撮影/村上宗一郎

「今はまだ、(政治の道を選んだことが)正しい選択かどうかの答えは出ませんね。道の途中だから」と語る山本代表