「マクスウェルの悪魔」という言葉を聞いたことがあるだろうか?神話に登場する悪魔ではない。ある物理学者が生み出した架空の悪魔だ。
その物理学者は、分子の動きを観察できる架空の悪魔を想定することによって、熱力学第二法則で禁じられたエントロピーの減少を証明しようとしたのだ。
それこそが「マクスウェルの悪魔」の思考実験と呼ばれるものだ。
宇宙は秩序よりも無秩序を好む。スイミングプールにインクを垂らしたとしよう。インクの分子は徐々にプール中にまんべんなく広がっていくはずだ。
インクの分子がとりうる状態としては、最初のインクだけでまとまった状態がある。あるいはプールの底に沈澱した状態もある。だが分子はありとあらゆる方向へ広がることができるので、それらが無秩序に広がった状態は無限にもある。
そうした状態がランダムに発生するのだとすれば、やはり無秩序な状態に落ち着く可能性に賭けたほうが無難だ。
「熱力学第二法則」によれば、無秩序な状態の増大、すなわち「エントロピー」の増大は避けることができない。これは数学的に”ほぼ”保証されている。
科学者が生み出した「マクスウェルの悪魔」
”ほぼ”と断っているのは、1867年にスコットランドの物理学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルが厄介な存在を誕生させてしまったからだ。その存在(あるいは思考実験)は「マクスウェルの悪魔」と呼ばれている。
マクスウェルは次のような状況を想定した。気体が充満する部屋に小さなドア付きの仕切りをつくり、2つの区画に分ける。もちろん気体は小さな1つ1つの粒子によってできている。
この気体の温度を決めているのは、個々の粒子の平均的な移動速度だ。速く移動すればするほど高温ということになる。ただし個々の粒子を調べてみれば、それぞれの移動速度は必ずしも同じではない。遅いものもあれば、速いものもある。
ここで噂の悪魔が登場する。悪魔は仕切りのドアの前に陣取り、左の区画から速い粒子が飛んできたらドアを開けて右側の区画に放り込む。右側の区画から遅い粒子が飛んできたら、同様にして左側の区画に放り込む。
しばらくすると、右区画は素早く移動する粒子だけでいっぱいになった。左区画は遅い粒子だけだ。当然、右区画の温度は高く、左区画は低くなる。
ところが... 2つの区画は最初の状態よりも秩序立って見える。
先ほど述べたように、熱力学第二法則によってエントロピーの減少はないとされている。神に叛逆する悪魔だ。神が創造した宇宙の法則にも逆らってみせたということなのだろうか。
悪魔祓いに挑む科学者たち
神に楯突く悪魔を倒すべく立ち上がったのが、現代のエクソシスト、すなわち科学者たちだった。しかし、それは困難を極めた。マクスウェルの悪魔を退治するためには100年以上もの時間が必要だった。
最初の進展は、情報理論の父と呼ばれ、コンピューターの基礎をつくった人物の1人とされるクロード・シャノンによってもたらされた。それが情報という不確かなものを数量化する方法として1948年に考案された「情報エントロピー」の理論だ。
もう1つの進展が、1961年に物理学者ロルフ・ランダウアーが論じた「ランダウアーの原理」だ。
この原理によれば、情報を消去するといった論理的に非可逆な計算を行うには、ゼロより大きな熱が環境に放出され、それに相当する分のエントロピーが上昇する。また、これは実態がないかに思える情報が熱力学と関係していることを示してもいる。
科学者エクソシストにより悪魔は劣勢に追いやられる
1982年、物理学者チャールズ・ベネットによって、この2つのピースがつなぎ合わされた。彼の功績は、マクスウェルの悪魔が本質的に情報処理機械であると気がついたことだ。悪魔=情報処理機は、ドアを開閉するタイミングを決めるために、個々の粒子についての情報を記録・保存しなければならない。となると、定期的に情報を消す必要もある。
ランダウアーの原理によれば、粒子を区分けすることによるエントロピーの減少分よりも、情報を消去することによるエントロピーの増加分のほうが大きい。つまり悪魔は神の摂理に容易には逆らえないということだ。
21世紀に入ると、科学者たちはマクスウェルの悪魔に容赦のない追撃をくわえた。理論だけでなく、その正しさを確かめるために現実の実験を行うようになったのだ。
2007年、光で動作するゲートを利用して、マクスウェルの悪魔の行為が実演された。2010年、悪魔が持つ情報から生じたエネルギーを利用して、ビーズを操作することに成功。
さらに2016年、マクスウェルが想定した気体を光に置き換えて、超小型のバッテリーを充電するという応用すら可能になった。
悪魔のギャンブル
さらに今年『Physical Review Letters』に掲載された研究では、悪魔はギャンブラーにまで身をやつした。この研究では、やはりドア付きの仕切りで区切られた2つの区画が登場する。だが、ドアは自動で開閉する。なので、粒子はランダムに勝手に区分される。
悪魔にできるのは、ただそれを眺めて、どこかのタイミングでシステムを停止させることだけだ。
理論上、これによって温度の小さな不均衡が生じるので、悪魔がタイミングよく停止して、熱の不均衡を封じ込めることができれば、便利な熱機関になる。それはちょうど、うまい具合にゲームを降りて、勝ち逃げするギャンブラーに似ているのだとか。
悪魔は科学のコンセプトに
こうしたアイデアは、ランダウアーの原理が定める根本的な限界に近づくことを可能にし、冷蔵庫のような熱システムの効率性を高めたり、高度なコンピューターチップの設計に役立つ可能性がある。かくして神の摂理に挑んだ科学者が生み出した悪魔は、科学者によって手懐けられ、物理世界と情報とのおどろくべき結びつきを示す貴重な科学的コンセプトとなったのだった。
References:Abstractions on Nautilus: How Maxwell’s Demon Continues to Startle Scientists/ written by hiroching / edited by parumo
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