コロナ禍で孤立したり、孤独を感じたりする若者が増えていることが少し前に話題になりました。しかし、これはコロナ禍以前から指摘されていた社会問題といえるものであり、さらにいえば、若者に限った話というわけでもありません。このことは日本が今年2月、世界で英国に次いで2番目に「孤独・孤立対策担当大臣」のポストを設置したことが象徴しています。

関係性の「質」問われる社会に

 そもそも、孤独は悪いものなのでしょうか。「1人の方が気が楽だ」という人も多いのではないでしょうか。これはこれで真理といえます。かつて、神学者のパウル・ティリッヒは「一人きりでいるという恵み」を「孤独(ソリチュード)」、「一人きりでいる苦痛」を「孤立(ロンリネス)」と呼びました。

 この「孤独」「孤立」という分け方は「積極的孤独」「消極的孤独」といわれる分け方とほぼ似ています。要は「薬になる孤独」と「毒になる孤独」とがあるということであって、誰でも建設的な営みや、成長のための自己投資としての「1人の時間」が重要な意味を持ってくるのです。では、「昨今問題視されている孤立や孤独」は何を指しているのでしょうか。

 まず、「孤立」は社会との接点の有無など、物理的に定量化される傾向があります。例えば、「人との交流がまったくない」など関係性の数で推し量ることが多いです。一方、「孤独」は極めて主観的なもので、家族や友人がいても強い孤独感に襲われる人もいれば、月に1度の「オフ会」でしか人と会話する機会がなくても平気な人もいます。これは一般化が困難なものです。

 つまり、当人が望んでいない「孤立」は何らかの支援が必要な福祉的な対応が求められることもありますが、「孤独」は「各個人がどう感じているか」という私的な事柄といえるため、政府がコントロールできる代物ではない側面があります。この点を、少子化対策として婚活支援事業などを行い、結婚を推奨する国や自治体の担当者、コミュニティー(地域社会)の復活を声高に唱える人々は見落としています。メディアがつくり出したステレオタイプの幸福像の弊害ともいえます。

 人を健康に、幸福にする要因を75年にわたって追求した「ハーバード成人発達研究」という有名な研究があります。研究責任者で精神科医のロバート・ウォールディンガーは「私たちを健康に幸福にするのは、よい人間関係に尽きる」と述べました。しかし、「ここで重大なことは、友人の数だけがものをいうのではなく、生涯を共にする相手の有無でもない」と続け、「重要なのは身近な人たちとの関係の質」であると強調するのです(ロバート・ウォールディンガー「人生を幸せにするのは何? 最も長期に渡る幸福の研究から」TED)。

 言い換えれば、家族やパートナーの有無、友人の数は結局、幸福の決定的な要素ではないということです。「生活の質」(quality of life)ならぬ「関係の質」(quality of relationships)とは言い得て妙です。そう、当人にとって良好な人間関係を享受できているかどうかが大事なポイントなのです。これが結局のところ、1人で楽しく過ごせる「孤独の質」に直結していることはいうまでもないでしょう。

「孤独格差社会」の悪夢

 では、その良好な人間関係はどうやって構築できるのでしょうか。経済的な基盤(生活が安定しているかどうか)や文化的なリソース(趣味や教養があるかどうか)はもちろん無視できませんが、最も大きいのはコミュニケーション能力といえるでしょう。コミュニケーション能力がなければ、最低限の人間関係を営むことが難しいからです。よく、「友達なんて自然にできるものだ」と話す人がいますが、その人は、自身がコミュニケーション能力に恵まれていることに対して鈍感なのです。

 コミュニケーション能力は資産や社会的地位と同じく、個人差があり、また、生育歴なども能力の向上に影響します。ただし、コミュニケーション能力の有無は外見だけではなかなか分かりません。つまり、大勢に囲まれて華やかなように見えて、実は良好な人間関係とは程遠く、孤独に苦しんでいる人もいれば、外見はさえなくても、実は良好な人間関係を難なく築いて、孤独を満喫している人もいるのです。

 例えば、お笑いタレントでYouTuberのヒロシさんがいます。メディアでは「彼女も友達もゼロ」という面ばかり強調されることが多いのですが、ヒロシさんの著書「ひとりで生きていく」(広済堂出版)を読むと「僕はソロキャンプをする者同士で集う『焚火(たきび)会』に参加している」と語り、「共通の趣味と話題を通じたゆるい人間関係を築いていこう」とまとめます。

 これとて、その輪の中に入って、なじむためには基礎的なコミュニケーション能力が要求されます。また、どんな緩い関係性にも「ウチ」と「ソト」があり、よそ者を自分たちの輪の中に入れてもよいかどうかを、グループ内で事前に選別している場合が大半です。

 コミュニケーション能力が求められる現代社会は単身者かどうかを問わず、自分にとって良好な人間関係をうまくコントロールし、かつ維持することができる「積極的孤独」に生きる人を勝ち組に、良好な人間関係を築ける見込みがなく、常にあっぷあっぷしている「消極的孤独」に生きる人を負け組に、いやが応でも分けてしまいます。

 つまり、現代社会は「孤独格差社会」ともいえます。なぜなら、能力主義と同じく、良好な人間関係は自らの手でつくり上げるしかないからです。労働市場や恋愛市場における過酷な生存競争の延長線上にあり、相手に好印象を与えられるかどうかという当人のコミュニケーション能力に依存するのです。

 先述のウォールディンガーは、人間関係は複雑に込み入っているものであり、「家族や友達との関係をうまく維持していくのは至難の業」とご丁寧に付言しています。気の合う人々と広く浅い関係性を持続させるのも才能であり、時間も余裕も必要になります。これはやはり、公共政策でどうにかなる問題とは思えない一方で、すべてを自己責任に帰する風潮と相まって、社会的孤立までが放置される恐れがあることに注意すべきです。

 今や、ティリッヒのいう「孤独の恵み」はぜいたく品と化しています。「豊かな孤独」には、不愉快な仕事や報酬に甘んじなくて済む経済的な安定性もさることながら、不愉快な人々や立場に振り回されなくて済む関係的な安定性が必須であるからです。単身者がマジョリティーになってゆく日本の未来において、この恵みにあずかれる者は少数派であることは間違いないでしょう。

「孤独格差社会」の悪夢とは「資産とみなされない資産=関係資本」によって、個々の健康や幸福の格差が天と地の差といえるほどまでに開いていくことです。そして、「孤独格差社会」とは、その残酷な事実が驚くほど意識されない、大っぴらに語られない不穏な世界なのです。

 そのため、単身者もそうでない人もすべての関係性を自分の力で築き、維持していかなければならないことを熟知する必要があります。関係性を適切にメンテナンスできる者だけが健康や幸福を高めることができるのです。「孤独格差社会」の到来は自由の謳歌(おうか)と、見えない不自由が同居する終わりのないゲームの始まりといえます。

評論家、著述家 真鍋厚

現代における「孤独」「孤立」の意味とは?