親子三代にわたって刑務所の「看守」として務めた元刑務官・坂本敏夫氏。その長きにわたる刑務官生活の中で、数多くの受刑者たちと関わってきた。

 今回は人質立てこもり事件をおこし、在日差別を訴えた受刑者・金嬉老について。1960年代後半に社会に大きな衝撃を与えた金嬉老事件だが、彼のその後の刑務所生活もまた、大きな波紋を広げるものだった。

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 金嬉老による寸又峡(すまたきょう)事件が起きたのは、1968年2月20日である。

 借金返済によるトラブルから、静岡県清水市(現・静岡市)のナイトクラブ「みんすく」で暴力団員二人をライフル銃で射殺した在日コリアン二世の金嬉老は犯行後、寸又峡温泉のふじみや旅館に向かった。

 M1カービン銃の弾倉を付けた猟銃M300とダイナマイトで武装すると宿泊客13人を人質にとって立てこもり、自ら警察に電話をして居場所を明らかにする。そして人質を解放する条件として、清水署の小泉勇刑事に民族差別に対する謝罪を要求したのである。かねてより小泉刑事は朝鮮人差別の言動で知られた人物であったという。

 籠城をする中でテレビラジオでの中継を入れ、記者会見を開くことで事件は劇場型犯罪の様相を呈していった。カメラの前で在日朝鮮人への差別を糾弾し続けたが、立て籠もってから5日目に逮捕された。人質を取ったことについて「差別を世間に訴えるには、こうした騒ぎを起こすしかないから」と語った発言が当時の新聞には掲載されている。 

「差別と戦った英雄」の逮捕後

 逮捕後には、多くの日本の学者、作家、文化人たちによって公判対策委員会が結成されて、裁判に向けての支援運動が始まった。1972年6月に静岡地裁が下した1審判決は「朝鮮人として受けた被差別の生い立ち等も考慮する」として無期懲役であった。

 これに対して弁護団側は「日本の国家および日本人裁判官に金嬉老を裁くことはできない」として控訴。検察は「民族差別は問題のすり替え」と主張して、最高裁まで争うことになったが、事件から7年が経過した1975年に1審判決がそのまま確定した。獄中にありながら、韓国から来た女性と結婚し、そのこともまた話題になった。

 その後、金嬉老は24年間を獄中で過ごし、1999年に韓国への強制送還と日本への再入国の禁止を条件に仮釈放を受けた。帰国した1年後に愛人女性の夫に暴行を加え、その家を放火するという事件を起こし、現行犯逮捕される。韓国では差別と闘った英雄として迎えられた金であったが、再びの懲役生活を送り、2010年3月に釜山で病死する。

刑務所業界における金嬉老とは

――寸又峡の籠城事件があったのは、坂本さんが父親の跡を継いで刑務官になられた1年後の1968年だったわけですが、行刑界(刑務所業界)における金嬉老とはどのような存在であったのでしょうか。

「寸又峡旅館監禁籠城事件で金嬉老は人質を盾に、テレビラジオを利用して今で言うところのライブ中継をして一気に有名になりました。犯罪の動機を在日朝鮮人として受けた差別をその理由に掲げたことから、大学教授や作家、研究者ら多くの支援者を得ました。私は当時、静岡や熊本で直接処遇に当たった刑務官の方との交流や連絡もあり、早い段階から、どのような存在であったかを聞いていました。

 金嬉老は逮捕後、起訴されると静岡刑務所内の拘置所に移監され、そこで、静岡刑務所幹部に『自分の要求をのまなければ、支援者に救済を求める!』と、刑務所が最も嫌がる外部の著名人への訴えを示唆して、房内での所持を禁止されている物品所持の要求等を次々に行っていきました。

 マスコミの報道を気にしていた幹部たちは、当初、これぐらいなら大した問題にはならないだろうという小さな要求を許可しました。ところが、そこからどんどんと特別待遇が始まったのです」(坂本氏・以下同)

「差別と戦うヒーロー」を在日コリアンの受刑者たちはどう見ていたのか

――坂本さんは当時、大阪刑務所の刑務官だったわけですが、大阪の所内での金嬉老事件に対する反応はどのようなものだったのでしょうか。

「日本の文化人たちは金嬉老を差別と闘うヒーローとして英雄扱いしていましたが、大阪の在日コリアンの受刑者たちは英雄視どころか、とても憤っていました。

 事件当時の大阪刑務所は約3000人が収容されていて、収容施設が1区から4区まである中で、一番処遇の厳しい3区には900人が居ましたが、その半分は暴力団。そして、その内の多くは在日韓国・朝鮮人でした。彼らも幼少期から筆舌に尽くしがたい差別にあって就職も出来ない、それで仕方なく組に入っていたという半生を私もよく聞いていました。

 そんな彼らが異口同音に金嬉老に対してすごく怒っていました。『わしらも犯罪を犯して刑務所に入って来とるわけやけど、その理由を全部朝鮮人で差別を受けたというせいには絶対にしとうない。人を殺しておいて、差別のせいにして減刑を望む金嬉老だけは許せん。わしらも誤解される。ここ(大阪刑務所)に落ちて来たら絶対にしばいたる』と言っていました。

 実際に酷い差別に遭いながらも人を殺さずに抗議をしている在日の人たちの方が多数いたわけですから、日本人がそういう人たちに目を向けずに金嬉老だけを英雄視するのは私もおかしいと思っていました。

 金嬉老自身は『他の在日朝鮮人も差別を受けているのに殺人は犯さないではないか』と問われると『それは勇気が無いからだ』と答えたといいます。私にいわせれば、殺人を犯さずに反差別の運動をしている人の方が勇気がありますよ。そして在日朝鮮人犯罪者でも立派に立ち直った人たちが沢山いるのに彼はそうならなかった」

「自分が被告席にいないのは奇跡」と語る支援者からの声は…

 すべてを外的な社会のせいにしてしまったら、朝鮮人としての主体を自らが放棄してしまうことになる。在日朝鮮人の側からもその主体の問題の指摘がなされていた。

 作家の金時鐘氏は裁判において金嬉老を支援し、同じ在日朝鮮人の立場から1971年12月17日の公判において「自分が金嬉老の被告席に座っていないのは奇跡に近い僥倖」と一歩間違えば、自分もそうなっていたという強い共感まで示しながら、同じ証言台から、「自分の不幸の一切が日本人によってもたらされている」というような金嬉老の考え方を厳しく批判し、「自分をこうあらしめたのは外部だけではなく、それを受動的に受けとめた自分自身にもあるんだというところまで意識がいってほしい」と述べた。さらに、「韓国の女性と獄中結婚したり、民族衣装を着るといった形式的な行為ではなく、それこそが朝鮮に行きつく行為であると思っている」とまで語っている。

 また、「公判対策委員会側も金嬉老に対して処遇については刑務所側に毅然とした態度を維持してもらいたいと願っていた」と同委員会のメンバーであった鈴木道彦氏も著書「越境の時」で書いている。

が引けていた幹部たち

――金嬉老は拘置所に移監された直後から、官に対して要求をし出すわけですが、それを受けた幹部は公正に接するのではなく、最初から腰が引けていたのですね。

「そうです。この時の対応が本当に悪かったのです。拘置所の場合、被告人の処遇の原則は『推定無罪』ですから強い指示命令はしません。管理上は勾留の目的である証拠隠滅と逃亡の防止だけに気を使いますが、被告人の防御権の行使は最大限尊重します。

 具体的には、逃亡と自殺の防止、共犯者との分離収容、通謀や接触の取り締まり、接見禁止の決定があるものについては、面会と物のやり取りを禁止するといった制限を加えますが、いつ保釈になるか分からないし、弁護人との面会は立会いをしないので 被告人に対する処遇は受刑者とは比べものにならないくらい緩やかです。

 しかし、一旦、規則を無視して要求を飲むと、それ自体が違法行為にあたるのです。だから、『前に自分が受けた差し入れは違法行為だろ。訴えるぞ!』と脅されると、断ることができず、次々にエスカレートして物品を要求されるままに買い与えました。

 遂に、独房では物を置ききれなくなり、狭いからと、拘置所の女区雑居房の一室(12畳程度)に転房させたのです。これは、実は大変重大な違法措置です。男監と女監は分隔(ぶんかく)すること、という法律の条文があるのです。それはつまり、建物を別にしたり、高い塀で囲んで、垣間見ることさえできないように分けて収容しなさいという規定です。しかし、実際に金嬉老が収監されたのは、女監のフロアの端にある雑居房で、他の女子スペースとの交通を遮断するために前の廊下にベニヤ板で仕切りを作っただけでした。しかも居房扉は開け放して自由に出入りの出来るものでした。

 本来、こんなことは許されるはずがないのです。事実上、金嬉老は女囚の部屋に往き来が自由になった。しまいには自他の殺傷が可能な包丁やナイフ、そしてカメラなどの貴重品までが要求のままに差し入れられました」

「凶器差し入れ事件」発覚の背景

――1970年3月に起こった金嬉老が欲した凶器の差し入れ事件ですね。明らかに公正な処遇ではないどころか、金嬉老自身が自殺をほのめかしていたし、女囚を自由に部屋に呼び入れることもできる環境において包丁を渡すわけですから言語道断でした。事態を知って驚いた弁護団が面会の際に金嬉老が差し出して見せた凶器の写真を撮って明るみに出したと聞いています。下手をすれば弁護団が共犯者にされかねなかったと。

「このときは、弁護人が記者会見をして公になったことで、検察庁が取り調べに介入し、かなりの事実が明るみに出ました。金嬉老をやりたい放題にさせてしまったのは、所長以下幹部の責任ですが、彼らは自分たちが罪を被らなければならないのに、専属職員として指定した現場職員に違法な特別処遇の責任を取らせたのです。

 当時の法務大臣はこの問題を『綱紀の重大な欠陥』、地検は『所内の規律問題』としましたが、そんなものではない。組織ぐるみです。検事調べの後、現場職員は自殺しました。それを法務省は自分で責任をとって自死したかのように説明しましたが、とんでもない! あれはトカゲの尻尾にされた職員の抗議の自殺ですよ」

――包丁を買ってきてくれ、食材を買ってきてくれと言われて、それを差し出す特別処遇は現場の刑務官の判断でできるのですか?

刑務所は絶対的な階級が存在する縦社会です。上司の命令又は許可がないと何もできません。必ず指示を仰ぐ申し出が現場の刑務官からあり、その可否を幹部は回答します。小さなことは『希望を聞いてやれ!』と回答したのでしょうが、包丁などの危険物やカメラのような高価なものについては、その判断を回答することさえせずに、幹部は逃げます。

 こうなると上意下達、下意上達という組織と職員間のコミュニケーションが崩壊です。現場の刑務官は、『(保安課長など)幹部の許可を得ている。上司の指示に従わないのなら言いつけるぞ!』と脅されます。こんなことの繰り返しで、幹部も現場職員も深みにはまっていったのです。

 幹部は転勤族ですから、(金嬉老が入所している)静岡刑務所に在職する2~3年だけ、大きなトラブルはなく、勤務すれば栄転が待っているので、金嬉老とは対決しない。見て見ぬふりを決め込んだのです」

他の事件と金嬉老事件が決定的に違うこと

――拘置所の規律が乱れるような事件は他にもあったのでしょうか。

暴力団組員がしばしば引き起こしていました。昭和38年1963年)の広島拘置所事件、昭和40年1965年)の松山刑務所内拘置場事件がそれです。

 いずれも暴力団抗争によって逮捕された多数の組員による規律紊乱(ぶんらん)事件です。大勢の暴力団組員による暴力と威迫・脅迫によって現場職員の士気が落ち、居房の出入りが自由になって、酒やタバコ、甘味品の不正差し入れなどを許してしまったのです。

 広島は死刑囚の脱走事件がありました。松山は暴力団員に買収された刑務官がいたことでやりたい放題でした。女性の房にも行き来が自由になり、後に松山ホステス殺人事件を起こす福田和子(当時19歳)も勾留中だったのですが、彼女も性被害に遭っています。殺人事件を起こしてから、約15年も逃亡した動機はここにあったんですよ」

――言わば刑務所に対する絶望的な不信。あの場所でモラルが崩壊すると弱い立場の人が真っ先に被害に遭うのですね。

「あってはならない酷い事件でしたが、こちらの2件は所長以下幹部職員には長期間気付かれずにいたという点で、あくまでも地元に住む現場刑務官の責任でした。刑務所幹部自らが規律紊乱の原因をつくった金嬉老事件とは全く性格を異にしています」

が「その後の金嬉老」を作り出したのか

――無期懲役が確定し、受刑者になった金嬉老はその後、どうなりましたか。

「30年近く服役した熊本刑務所でも特別処遇を受けていました。刑務所幹部に取り入るかに見せかけて、脅しを掛ける。課長以上の幹部職員のほぼ全員が持っている出世欲、その前提にあるのが保身であることに彼は静岡刑務所での事件の際に気づいたのでしょうね。殺害した暴力団関係者からの報復の危険があると訴えるとともに、外部の識者との文通を続け、自分の希望を聞き入れなければ刑務所の不当な取り扱いを暴露するといった脅しを仕掛けるのです。

 刑務所幹部は金嬉老の処遇基準を策定しました。

暴力団関係受刑者からは分離し個別処遇をすること。
・居房は独房とし、工場も単独で作業ができるところに配置する。
・専属の処遇担当職員を指名する。
・この職員はボディガードの役割も担うこととして、武道有段者をあてる。

 ざっと、こんな基準です。その結果、金嬉老は木工場の外に設置された焼却炉の専属、木片やおがくずなどを焼く作業で湯も沸かせるので毎日入浴できるし、食事も好きなものを特別給与させるなどの特別処遇を受けていたのです。

 指定された刑務官はボヤいていました。これでは『受刑者の更生支援をする矯正職員というポリシーで看守になったのに、金嬉老のお守り役兼ボディガードで、まるで召使のようだ』と」

――刑務所犯罪者の更生のためにあると考えている坂本さんからすると、そのような特別待遇を認めてしまったことによって金嬉老をスポイルしてしまったということに対する怒りもあるわけですね。

「ええ、仮釈放で出所して韓国に行ってからの彼の行状を見てもそうです。またしても殺人未遂、放火という犯罪を起こして逮捕されてしまった。日本における差別の中で殺人を犯した金嬉老に対して日本の刑務所は更生させるどころか、ひたすら弱腰で、無責任にも放置してしまった。結果、彼を救えなかったわけじゃないですか。

 刑務官であった私が考える金嬉老事件は、たった一人の男(殺人と監禁、銃刀法違反事件の犯人)に国家権力の象徴のような刑務所が翻弄、愚弄され、更生施設、拘禁施設としての信頼を失墜させられたという恥辱事件でした」

 金嬉老をアンタッチャブルな存在として処遇と更生の責任を放棄し、言われるままにトップが「優遇」してきた刑務所の行為には、在日朝鮮人だけでなく、性被害に遭った女性受刑囚など、他の様々な来歴の果てに檻の中に行き着いた人々への「存在の蔑視」が、明らかにあったのではないか。そしてこの「優遇」それこそが、差別ではなかったか。

(木村 元彦)

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