テレビ史に残る試みで怪物番組になったのは、TBSの「ザ・ベストテン」(78~89年)だ。スタジオだけでなく、全国から追っかけ中継するシステムは、同時に不測の事態も多発させた。

 番組が始まって間もない78年11月16日松山千春(65)が「季節の中で」を初めてテレビで歌う。この日、番組の視聴率が記録的な30%台に乗るなど、関心は高かった。

 ただ、千春のMCが予定より4分長くなり、そのあとの出番だった大スター・山口百恵(62)が、スタジオに到着したのに歌えないという異常事態に。スタジオにいた歌手仲間からは批判の声も飛んだという。

 番組ではメモリアルな回を地方から中継するのが名物だった。85年10月17日には、400回記念として静岡・日本平から中継。ここで満員の客席の中を、とんねるずが神輿に乗って登場。

 ところが、観客が石橋貴明(59)に飛びつき、衣装がボロボロになるなど、パニック状態に。

「てめぇら最低だ! ふざけんな!」

 石橋は怒号のままに、歌うというよりも絶叫で「雨の西麻布」を消化。視聴者からの苦情も殺到したが、もみくちゃにされた石橋にも同情すべき点はある。

 長渕剛(64)は、初めてランクインした80年の「順子」で本領発揮。中継先には共演していた桑名正博やアン・ルイスもいたが、手拍子を送ると一喝。

「これ、失恋の歌なんで手拍子やめてもらえますか」

 そして最初から歌い直すという態度を見せたのだ。

 布川敏和が目撃したのは、横浜銀蝿の曲を紹介する時、ソファに控えていたラッツ&スターの面々。

「実は銀蝿の皆さんって“ビジネス不良”で、ちゃんと大学に通っていたりしてました。そんな話を黒柳徹子さんとしていたら、ラッツの面々が『へえ、不良なのに大学に行ってるんだ』って、場が凍るようなことを言って挑発するんですよ」

 実はラッツの面々こそ、筋金入りの不良だったのである。

 生放送の「ベストテン」においては、歌がうまく歌えずに固まってしまう場面もあった。歴代最多出場を誇る中森明菜(55)は83年1月13日、5週連続1位の「セカンド・ラブ」を歌った。ところが、風邪でノドを傷めていたため、後半はまったく声が出ず。

 涙を流して謝罪する明菜だったが、口パクがなかった時代のエピソードだ。

 明菜と同期の堀ちえみ(54)は、85年2月7日に出演して「リ・ボ・ン」を歌うはずが号泣状態に。失恋ソングだったため、堀自身が失恋していたのではとささやかれた。

 南野陽子(53)は昭和も終わりに近づいた88年11月3日、「秋からも、そばにいて」を歌っている時に、完全にフリーズして、歌詞のほとんどを歌えなくなってしまう。かつて週刊アサヒ芸能に語ってくれた真相はこうだ。

「セットに落ち葉がたくさんあって、長いドレスに引っかからないようにと注意するあまり、歌詞が飛んじゃったんです」

 番組には心配する電話が殺到したそうだ。

 最後はアルフィーの散々な生中継を。84年12月13日、愛知・犬山のファンの家をアポなし訪問して、クリスマスプレゼントで歌おうというシナリオだった。ところがまさかの不在で、せめて近所の人に楽しんでもらおうと、自宅前で歌うことになった。

 そこへさらに追い打ちが。電源車の消費電力を計算ミスしたため、何とも間の抜けたカラオケになり、二重の事故となってしまったのである。

アサ芸プラス