服飾史家の中野香織氏が、今春オープンした「ブルネロ クチネリ表参道店」を訪れ、そして考えたこと。

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文=中野香織

ローカルとの融合によって輝くクチネリ流美学

 「ブルネロ クチネリ表参道店」が3月末に東京・青山にオープンした。混雑が落ち着いた4月中旬に訪れ、スタッフに案内していただいた。

 表から建物全体を見ると、三角の屋根に縦長の長方形の窓がイタリアの建築を連想させる。その点を指摘したら、「2階から上の部分のファサードは、以前のテナントが入っていた時と同じままですよ」というスタッフの答え。頻繁に前を通っていたのに、そのような建物の特徴に私が気づいていなかったのである。視界には映っていたのだと思うが、意識が及んでいなかった。新しく作られた「ブルネロ クチネリ」のロゴとショウウィンドウの雰囲気が、上層階の部分とみごとに融合したことで、これまで目に入らなかった建物全体の個性にようやく気がつくことができたというわけだ。

 その土地にずっと存在していた要素に、クチネリの美学を融合させることで、両者の個性をより輝かせる。ローカルへの敬意、ローカルとの融合というクチネリ的発想は、建物のファサードだけではなく、新店舗の中、いたるところに見られる。

 たとえば、照明。乳白色のやさしい光を放つオパリンガラスのライトは、古い紙のランタンを着想源とし、この店舗のためにイタリアで制作したもの。木製の鎧戸のような装飾は、ルーバーウォールと呼ばれるが、日本の障子をイメージして作られている。壁紙にはジュート(麻)にセメントを重ねた独特の質感があるが、これも掛け軸にインスパイアされたものだ。

洋服が置かれていない空間

 ローカルへの敬意がもっとも鮮明に表現されているのが、地下2階のアートスペースであろうか。地下といっても明るい自然光がやわらかに差し込む、天高6メートルの空間である。地下に降りていくというのに、燦々と明るい。離れ業をやってのけた建築家は、イタリアロレンツォ・ラディ氏。

この「明るい地下空間」は、クチネリの本拠地であるソロメオ村の劇場や図書館のような、学びのためのアートスペースとして想定されている。初回のゲストアーティストには、陶芸家である辻村史朗さんが選ばれ、彼の作品が飾られている。現在はパンデミック下にあって難しいが、今後はゲストアーティストにちなんだワークショップもこの空間で開催される予定であるという。飲み物を楽しめるバーカウンターがあることにも高揚する。

 この贅沢なスペースに、洋服は置かれていない。棚に飾られているのは、ウンブリア州の職人が手がける食器や花器、そして箸や箸置きなどのライフスタイルコレクションである。クチネリの好きな本を集めたライブラリもある。バーカウンターに座ると、ソロメオ村の雄大で静謐な情景の映像が流れてきて、ヴァーチャルにソロメオ村を旅できる。古城を改修した本社と工場があり、劇場、学校、図書館も整えられ、旅行客も多く訪れるようになっているが、クチネリはこの村にホテルを作るつもりはないという。なぜならば、ホテルを作ると夜も明るくなり、星空を楽しめなくなるから。「世界の美に果たすべき責任」をビジネスの基点におくクチネリらしい。

 

今、ラグジュアリーが果たすべき責任とは?

 クチネリが考える「果たすべき責任」は、自然の美に対してだけではなく、従業員の幸福に対しても、発揮される。連載の第11回で紹介した彼の著書『人間主義的経営』には、ソロメオ村のブルネロ クチネリ社で働く従業員の幸福に対する経営者としての責任が書かれているが、表参道店の店舗で働くスタッフにも配慮がなされている。地上2階、地下2階の4フロアからなる面積915メートルの店舗は日本最大なのだが、実はその三分の1が従業員のためのバックヤードとして使われている。スタッフが快適に働けるようにという計らいからである。ちなみに、すれ違ったスタッフのひとりに、「いかがですか?この店舗でのお仕事は?」と聞いてみたら、「とっても幸せです!」という答えが満面の笑顔とともに返ってきた。たまたまそこにブルネロ クチネリ ジャパン社の社長、宮川ダビデさんが居合わせていたためというわけではないだろう。

 従業員だけでなく、店舗を訪れたゲストも心地よく過ごせるように配慮が行きわたっている。要所要所にミニライブラリやチョコレートが置いてあり、テラスに出て、イタリアの家具に座って外の空気を楽しめるようになっている。なるほど、クチネリだったらこのように顧客をおもてなしするだろう。「クチネリの家」という別名は、伊達ではない。

 イタリアの家具や建材は、もちろんテラス以外でも使われている。階段や床に敷きつめられる幅の広い木材は、イタリアオーク。日本では育たない大きさの樹に由来するものだ。大理石の一種であるトラバーティンを使ったテーブルも置かれる。重さ540㎏。北イタリアの教会にあったパイプオルガンの一部もインテリアとして使われている。アンティーク家具もリペアされて設置されている。こうした重厚なイタリアの建材や家具などがすべて空輸され、表参道の店舗におかれているのだ。なんと贅沢なことだろう。

 

虚栄ではなく、文化に対する付加価値

 そんな家具や建材は、イタリアらしさを伝えるためだけではなく、クチネリブランドのラグジュアリー観を表現することにも貢献しているように見える。

 クチネリのアパレル製品は、一部をのぞいて、ブランドの特徴がわかりやすく示されているわけではない。ロゴや個性的なデザインによって「クチネリだ」とわかるようには作られていないのだ(もちろんそのクオリティの高さから、見る人が見ればわかるだろうけれど)。

 クチネリの著書からもうかがい知ることができるが、おそらく彼の製品を愛する顧客は、ブランドの力を借りて自分を他者にアピールするようなことには関心がない。最高品質を好み、上質な服を長く大切にしながら身に着けたいと願うものの、ブランドロゴによって社会的な意味づけをされることは好まない。「できるだけクチネリとわからないように作ってくれ」という顧客からの要望もあるそうだが、いわば、虚栄が見え隠れする社会的な意味付けやトレンドから無縁のところで心身の快適を提供するのが、クチネリのラグジュアリーというわけである。

 その「快適」には、よいものを修理して使い続けるというサステナビリティの精神や、職人の尊厳を守ることで創造性を発揮させるというフェアな経営者の哲学や、イタリアの自然と文化を誇りその価値を継承するといった地元への貢献も含まれる。顧客はそのような企業文化に価格以上の価値と良心の満足を見出し、高価格を支払う。これからのラグジュアリーには、そうした要素が不可欠になっているのだ。

 イタリアの誇りを伝える建材や家具、丁寧に修復されたアンティーク群は、職人の創造性が発揮されたニットとともに、価格を超えるタイムレスな価値のあるラグジュアリーの提供者としてのクチネリブランドの性格をより明瞭に伝えている。手間暇かけてイタリアから運ばれてきた甲斐は、十二分にある。

 『人間主義的経営』は、クチネリの体験やそこから生まれた思想をわかりやすく解きほぐした本としてばかりではなく、地球と人間に優しいこれからの資本主義のあり方を示す一つの模範例としても話題になっている。「ブルネロ クチネリ表参道店」は、そんなクチネリの思想を体感するための、稀有な空間になっている。イタリアと日本が融合したクチネリワールドに没入しながら、10年後、100年後に思いを馳せ、ソロメオ村の人々や古代ギリシアの哲学者とのつながりを感じつつ服を選ぶ。いや、服を着る自分の在り方を選ぶ。社会や人に、どのように向き合う在り方を選ぶのか。そこまで考えさせる店舗である。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  ブルネロ・クチネリ=資本主義を正しく使おう

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2020年4月中旬に取材。写真は地下2階にあるアートスペースにて