大坂なおみ選手は、5月27日、全仏オープンで最初の試合に勝利した後の記者会見をキャンセルした。主催者側は、行動規範に抵触するとして1万5000ドルの罰金を科した。さらに、四大大会(全豪、全仏、ウィンブルドン、全米)の主催者は、違反を繰り返せば、全仏オープンでの失格または四大大会の出場停止もありうるとのレターを共同で発送した。その後、大坂選手は6月1日に、自身がうつ病であることを明かし、全仏オープンを棄権している。

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 この一連の騒動において、他のプロテニスプレーヤーだけでなく、米国の政治の中枢、ワシントンDCでも注目を集めている。バイデン大統領が推し進める大型財政出動プランがテーゼとしている「人に優しくすべき」という昨今の流れに反していると見ているからだ。後述するが、この件については米民主党プログレッシブ(急進派)であるオカシオコルテス下院議員やBLMブラック・ライブズ・マター)が敏感に反応している。

 また、プロスポーツを産業の一つと位置付けてきた米メディアだけでなく、その方向を是としてきた欧州のメディアも、プロスポーツ選手のメンタルヘルスに対する問題提起という論調を出し始めた。

 ジョージ・フロイド氏の殺人事件から1年、BLMやアジア系市民に対するヘイトなど、米国の人種差別問題は拡がりを見せている。それが、プロスポーツ選手の精神的プレッシャーという問題に飛び火しつつある。しかも、スポーツ選手全般ではなく、人種的な差別を受けやすいスポーツ選手をどう守るか、という視点である。

うつ病告白で手のひらを返したメディアの理由

 6月1日に彼女がうつ病であることを告白すると、メディアも主催者側も態度をコロッと変えて、彼女を気遣うコメントを出し始めた。米国の場合、どんな人であっても病気の問題を掘り下げることは法律で禁じられている。大坂選手の場合、個人的に追い込まれてやむを得ずの告白だったと思われるが、その背景には、米国の法律に守ってもらうという意図があった可能性は否定できない。

 6月2日には、彼女をサポートしているスポンサーが彼女への共感を示した。

 本件がワシントンDCでも話題となっているのは興味深いことだが、それはこの問題が、現在の全米に渦巻く黒人差別や女性差別、その他アジアヘイトを含むマイノリティー差別に相通ずるものがあると感じている人々が少なからずいるからだ。彼ら、彼女らは、5月27日の彼女の記者会見のキャンセルに瞬時に反応した。

 大坂選手は日本国籍なので、米議会や米政府の機関が取り上げる問題ではないかもしれないが、オカシオコルテス下院議員をはじめとするプログレッシブBLMの関係者が共感を示したのは、たとえ国籍が日本でも、言葉も生活様式も米国人に見える彼女を放置できなかったということだろう。

 会見拒否とマイノリティー差別の関連については、英Financial Times(FT)が6月1日のオピニオン(翌日の日経が日本語訳掲載)で、その可能性を感じさせる書き方(彼女が日本人の母親とハイチ系米国人の娘など)をしたが、今のところ、それ以外に差別問題に触れた米メディアや海外メディアはないようだ。

 先月FTを高齢で退職した女性記者に話を聞くと、彼女に対する質問の中には、「刺身が好きか」など、普通の米国人ではないことを浮き彫りにするようなものが常にあり、それが彼女をうつ病に追い込んだのだろうと語っていた。大坂選手にはメディアの過剰な報道から自分の身を癒す場所がなかったということであろう。

 米国の精神科医に聞くとうつ病の原因は、心の問題であると同時に、精神的プレッシャーを受けたことで脳が微妙な変化を起こすこともあるようだ。そこから回復するには、薬物治療を含め、原因を取り除く必要がある。それが周囲に理解されなければ、自然と自分を追い込んでしまいかねない。

 彼女の地元のメディアであるロサンゼルスタイムズは、6月1日に、彼女に必要なのは批判ではなく共感だと書いた。翌2日には同紙の4人のコラムニストの座談会を掲載し、(1)強者はメンタルにも強いという誤解、(2)彼女と同様の精神的な病に陥ったプロフットボール選手だったウィリアムズ選手の例(米国では知る人ぞ知る境界性人格障害と診断された)を取り上げ、彼女を取り巻く環境の問題を指摘している。

 また、ポッドキャストでは、6月下旬に始まるウィンブルドン選手権に彼女が参加できることを期待するコメントをした。地元紙だけあって、取り上げ方も注意深く、また詳細だ。

米国型プロスポーツのビジネスの暗黒

 米国には、プロスポーツとして、テニスやゴルフ、フィギュアスケートといった個人種目とは別に、チームで戦うスポーツとして、野球、バスケットボール、アイスホッケーアメリカンフットボールサッカーなどがある。

 アスリートがビジネスとして成功するためには、強いこと(常勝がベスト)、優れた力を発揮すること、見栄えがいいことなどの条件がある。このため、選手は成功することを目指して、コーチ、肉体トレーナー、メンタルトレーナー、マーケティングなど、多くの専門家と一体となって戦う。また、選手の卵を見つけるスカウトは、多くの専門家の仕事の成功確率を決める入り口の仕事を担うため、米国では非常にプレッシャーの高い仕事だと言われている。

 スカウトの対象は、小学生から大学生まで各段階で存在する。それは選手の能力がどの段階で花開くかが不確定だからだ。逆をいえば、この仕組みが「小さな頃からプロを夢見て頑張る」というインセンティブになっている。

 だが、選ばれることは光栄な話だが、選ばれた後は実績を上げるまで、ひたすら練習を繰り返すだけで自由がないとも言える。この自由の束縛は、選手に投下される資金が多ければ多いほど大きい。

 この状況は、メディアが放映権を争う時代になって一段と激化した。報酬が高くなればなるほど、求められるハードルが高くなるからだ。ただ、王者になる確率は非常に低いものの、王者になってしまえばそこから選手や彼、彼女を支える人々が刈り取れる成果は格段に大きくなる。

 米ウォール・ストリート・ジャーナルが6月1日のスポーツ欄で、「テニス選手は他のスポーツと比べて精神的プレッシャーが大きい」と指摘したように、テニスは試合に勝とうが負けようが、試合が終われば勝者も敗者も必ずインタビューに応じなければならない。この点は他のスポーツとは異なる。

 しかも、大坂選手のうつ病の一因だと思われるのが、記者の質問がスポーツに限ったものばかりではないという点だ。

 例えば、昨年5月のジョージ・フロイド氏の殺人事件の後、大坂選手は事件のあったミネアポリスに行ってデモに参加していた。報道では「ボーイフレンドと一緒に参加した」と報じられた。ボーイフレンドのことも質問されたのだ。

 FTが書いたように、日本人の母親とハイチ系米国人の父親の子供として、大坂選手はただでさえ注目されている。それに加えて、テニスとは関係のない話を報道されれば、メディアの目が怖くなっても仕方がない。

 大坂選手が過度のプレッシャーを感じていたとすれば、昨今の巨大化したスポーツビジネスの影響があろう。ビジネスとしての価値上がれば上がるほど、さらされる期待と圧力は自ずと多くなるからだ。その意味でいえば、彼女のメンタルを押しつぶしたのは、肥大化したスポーツビジネスそのものといえる。

 一方、大坂選手が2020年に約40億円を稼ぐことができたのは、スポーツビジネスが肥大化したゆえ。そして、SNSを含め、世界に対して大きな影響力を持っている。その影響力も、世界規模で成長するスポーツビジネスの結果である。

日本人や日本のメディアがやるべきこととは?

 日本のメディアは、海外の出来事については海外メディアの影響を受けている。ある大手誌の記者は現地の記事をそのまま訳すようなもので「ヨコタテ」と呼んでいた。また、インターネット記事が増えたことで、左右への偏りが極端になっている可能性も出てきている。

 それは仕方がないことなのかもしれない。筆者も、外国語で論考を書いた際のその言語圏の人の反応と、日本語で論考を書いた際の日本人の反応は明らかに違うと感じる。日本人も外国人も自分が見たい記事を事実だと考えたいと思うものだ。その内容は読者が活動する地域の環境に影響される。

 彼女が既に告白している2018年に始まったうつ病の原因から現在までの出来事をトレースして、それをどう評価すべきか、またどうすれば彼女が心に傷を負った問題を消せるのか、さらには同様な問題の発生を防ぐにはどうしたらいいか、こうしたことをレポートする必要があるように思う。

 また、彼女が5月27日のコメントした際の冒頭でお詫び(“I am sorry”で話し始めた)をした点などは、日本人的な感覚があることを示している。このあたりについては、ロサンゼルスタイムズ6月2日に公開したポッドキャストでも、彼女はアジア系黒人であると同時に日本文化と米国文化の双方を兼ね備えていると指摘している。もしかすると、彼女に対する分析は、日本人の方が、より彼女の心に寄り添う結果になるのかもしれない。

 6月1日うつ病であることを告白する前まで、四大大会の主催者やメディアは大坂選手を我儘な選手だとして批判をしていたことは間違いない。しかし、うつ病を知って大きく態度が変わったことは先に述べた通りだ。だが、本質的な話をすれば、スポーツビジネスの肥大化と、それに伴う責任の増大がアスリートの心をむしばんでいるということが見て取れる。

 それに耐えられるメンタリティーを持つ選手であれば乗り越えるのかもしれないが、すべてのアスリートが強靱な精神を持つわけではない。そして、飛び交うマネーが、生身のアスリートが耐えられる規模を超え始めているのかもしれない。

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全仏オープンを棄権した大坂なおみ選手(写真:AP/アフロ)