具然喆(グ・ヨンチョル)という韓国人は日本ではほとんど知られていないが、韓国ではそれなりに知られているようだ。韓国人に尋ねると、彼に関するニュースサイトなどを教えてくれる。日韓問題の関心に対する温度差の違いなのか、日本のメディアで彼が取り上げられることはほとんどない。

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 具氏は戦時中、端島こと軍艦島に居住し、朝鮮人鉱夫が虐待されていた現場を目撃したと述べるなど、島内の非道を告発する講演を盛んに行なっている。

 事実、韓国・釜山の日本総領事館前に、いわゆる徴用工像を設置しようとしている全国民主労働組合総連盟(民主労総)の2017年8月大会で「(端島は)わが民族の最も痛々しい記憶の場所」だと主張する演説を行なった。だが、その内容は元島民が首を傾げるものだった。

 公開されている経歴によると、具氏は1931年、慶尚南道梁山郡下北面草山里に生まれ、1939年、日本で炭鉱労働に従事していた父親が呼び寄せて家族と共に端島へ移住した。8歳だった具少年は端島高等国民学校2年に編入され、端島で終戦を迎えた。優等生で級長だったという。

 氏は端島で凄惨な現場を目撃したと言うが、元島民は「戦時中に端島ではひどい目に遭うたねっていうような話なんか、全然聞いてないです。周囲の方たちも皆いい人でね。負のイメージはありませんね。地獄で、殴られるリンチが多かったとい言うけど、本当に地獄の島だったらまず(家族は)呼ばんでしょう」と反論する。

 まさにその通りである。虐げられる島に家族を呼ぶ人などいるはずがない。そもそも威厳を重視する韓国人の父親が、虐待を受ける姿を家族に見せようなどとは思わないだろう。

 また、具氏は「熊本は、海を挟み、端島からはっきり見渡せる場所」と話したが、島に住んだことがあれば、誰もが首を傾げる発言だ。軍艦島こと端島の対岸は野母半島(長崎半島)で、その先に島原半島がある。熊本はその島原半島の対岸にあり、端島から肉眼で見える位置ではない。

朝鮮人鉱夫の虐待を説く具証言の違和感

 それではなぜ、1939年から6年間、端島で暮らしたという彼の口から、「熊本」の地名が出てきたのか。熊本に住んだことがあるのだろうか。

 具が端島で暮らしたと自称する時期は第二次世界大戦の只中であり、他地域への移動は簡単ではなかった。学校で級長だった成績優秀な子供が地理的な間違いをするとも思えない。「熊本が見えた」というのはあまりにも不自然だが、暮らしたことがあるのなら納得できる発言だ。

 韓国併合から大東亜戦争が終結するまで、多くの朝鮮人が就労を目的に日本に渡航した。

 1938(昭和13)年の国家総動員法に基づいて、1939(昭和14)年、「朝鮮人内地移送計画」が策定され、朝鮮人労働者が集団的に渡航する労務動員が実施された。労務動員は時期によって自由募集と官斡旋、徴用があった。

 朝鮮人が次々と内地に入り込んで、内務省は「渡航を制限したい」と言っていたが、当時は朝鮮人も日本人であり、本土で職を得た朝鮮人が家族を呼ぶ例も少なくなかった。

 具氏の父親は、徴用ではなく自由募集、すなわち自ら応募したのか。家族を呼び寄せた移住労働者で、九州の炭鉱を転々としていたのだろうか。だとすれば、その移住地の一つが熊本だったということは考えられる。

 熊本県荒尾市に万田坑がある。2015年、端島などとともに世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産に含まれる三池炭鉱の中心的な存在だ。具が万田坑に居住していたのであれば、その記憶から「熊本が見える」という発言につながったという可能性もあるだろう。

 先ほども指摘したように、具氏の証言は元島民が首を傾げる内容ばかりだ。証言に父親の存在はなく、彼の父がどのような仕事をして、どのような待遇を受けていたかもわからない。

 氏の証言と「真実の歴史を追求する端島島民の会」も反証を比較してみたい。記憶違いではすまされないエピソードもある。

具証言に対する元島民の反証

具氏の証言:「軍艦島で6年生活した。強制徴用で連行された人たちの日本の無慈悲による苦痛は口では言い表せない。凄絶な人生で、足枷がなかっただけで奴隷だよ、完全に」「中ノ島という小さな島で、死体を焼く煙が日に1、2回必ず立ち上った。火葬されたのは朝鮮人だった」「(朝鮮人たちは)動物の檻と変わらない合宿所で、集団で起居しながら、毎日迫りくる死の脅威にさらされていた」

元島民の反論:「事故が発生したら現場監督が会議室に呼ばれて、事故の状況を報告せにゃいかん。それに基づいて、現場検証に行くわけです。この作業員がこういう状況で亡くなったと図面に描いて、文章化もして、鉱山監督局に変災(報告)書を書かにゃいかんのです。1日に1人、2人、死んだら、それにかかっていなければならない。そういうことはまずあり得ん」

具氏証言:「朝の登校中、食料を得るために皿を一つ持って列をなす光景を見ました。日本の軍人が棒を持って立っています。頭や首を上げることもできず、皿だけを持ってわずかな食料を得ようと列をなす様を見て、あまりに凄惨だと思いました」

島民反論:「皿を持って道路端でお涙ちょうだい、おかずちょうだいって。こういうバカげたことを、さすがに三菱は許可しないですよ。見たことない。日本軍の兵士が、労務者の食事の監視をした事実もありません」

 独身労務者の食事は寮の食堂で提供され、道端で配膳することはなかったという。

具氏証言:「登校途中の道端に労務者事務室があります。そこから来る日も来る日も悲鳴と叫び声が聞こえます。つま先立ちで窓から覗くと、(朝鮮の)青年たちを2~3名コンクリート塀の前にひざまずかせて、棒で叩いているのです。彼らは『助けてくれ』と叫んでいた」

島民の反論:「端島のどこで、そういう状況、状態が発生していたのか。その場所を聞きたい。端島で見たことない」と反論している。

具氏証言:「(終戦後)朝鮮人は、彼らが連絡船で夜逃げしたことを知った。島に残ったのは朝鮮人と沖縄人だけだった。大人は皆、日本人が去ったその夜にとんでもないことがあったと疑った。1000人も虐殺するなど、純朴な朝鮮人の想像をはるかに超えることだった。日本人が中国人を坑内に閉じ込めて入り口を爆破して皆殺しにしたと疑った」

島民の反論:「1945年8月の終戦前後に端島で、1000人の人間が虐殺された事実はない。外務省が終戦の翌年に作成した華人労務者調査報告書(三菱高島礦業所端島坑)には、島内で就労していた華人労務者183名全員を社船に乗せて、佐世保で米軍に引渡した記録が残っている」

 端島で終戦を迎えた元島民たち全員が、「絶対にあり得ない」と口を揃えて反論する。

制作者がフィクションと打ち明けた映画「軍艦島」

 一般財団法人産業遺産国民会議は2019年2月4日、元島民に具然喆氏の写真や映像を見せたが、誰一人、氏の名前や顔を覚えておらず、存在すら知らなかった。

 島内の小学校は1校だけで、戦時中は1学年1クラスで構成され、50、60名の生徒数がいた。先輩後輩が一緒に遊んだ南北480m、東西160mの小さなコミュニティである。6年間も端島で暮らし、級長までしたという少年を元島民の誰も知らないなど奇妙でしかない。また1894(明治27)年から1947(昭和22)年までの端島小学校の卒業生を記載した「端島校同窓会名簿」(昭和25年出版)にも具氏の名前はない。

 具氏は、キョレハナ旅行事業団が主催した「徐勝(ソ・スン)教授と共に行く第2回東アジア平和紀行」で「里帰り」を果たした。受け皿は岡まさはる記念長崎平和資料館だった。毎日新聞(2016年10月9日)や長崎新聞(同年10月1日)の紙面によると、具氏は、端島の展示に朝鮮半島出身者の過酷な労働の記載がなかったと不満を述べたという。

 具氏は、軍艦島の炭鉱に連行された労働者の地獄のような生活と、その中で繰り広げられる陰謀や劇的な脱出などを描いた韓国映画「軍艦島」見て、「映画的に脚色された異なる部分もあるが、状況が似ている良い映画」だと述べている。

 映画「軍艦島」は監督や制作会社は非公式な場で、単なるエンターテインメント映画だと話す一方、公式の場では創作だと明らかにしなかった。史実を期待した韓国人の批判を浴び、また前評判の割に興行収入が伸びなかったなど制作会社の社長が立場を失ったが、いずれにせよ、具氏は制作者がフィクションだと語った映画を見て状況が似ていると述べたのだ。

 元島民たちは「端島を知らない人が想像で証言していると思う」と言い、また「何か組織がかったものがあり、具然喆氏が組織に利用されているという感じを受ける」と話している。

「デマ」を放置すれば慰安婦の二の舞に

 端島の学校の卒業名簿に名前はなく、元島民の誰も知らず、証言が元島民と食い違っている具然喆。彼は一体何者なのだろうか。そもそも本当に端島に住んでいたのだろうか。

 軍艦島こと端島は、いま問題になっている徴用工判決騒動の中では、取るに足らない存在かもしれない。しかし、具氏の発言をそのままにしておくわけにはいかない。

 歪められた歴史が世界に広まると取り返しが付かない痛手を被ることになる。強制連行や慰安婦問題を見れば明らかだ。事実ではない主張がまるで事実でもあるかのように書籍、新聞、テレビ、映画などのメディアを通じて世界に伝わって、歴史が歪み、さらなる誤解を生んでしまうこともあり得るのだ。

 単なる誤りではなく、政治的意図が隠れている可能性もあり、日本を貶める動きにもっと敏感にならなければならないと考える。

 具氏が家族で移住したなら日本名を名乗っていた可能性がある。2019年12月6日、「真実の歴史を追求する端島島民の会」は弁護士を通じて岡まさはる記念長崎平和資料館と韓国JTBC社に対して、具然喆氏が戦時中に使用していた日本名の開示を求める要望書を送付したが、いまだ回答はない。

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