太平洋に浮かぶ小さな島で、日本軍の将兵6500人が孤立無援の“置き去り”状態になり、5000人が餓死、病死した悲劇があった。極限状態に陥った「絶海の孤島」で、何が起きていたのか――。昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏が寄稿した。(全2回の1回目/#2を読む)

◆◆◆

サイパン陥落」で日本からの補給が途絶えた

 マリアナ諸島の南方に位置するメレヨン島(現・ミクロネシア連邦ウォレアイ環礁)は戦時中、日本軍の拠点の一つとなった。サイパン島やグアム島など、マリアナ諸島への米軍の侵攻に備えるためである。

 島内には陸海軍合わせて約6500人もの将兵が駐留。飛行場の建設にも着手したが、米軍の空襲によって計画は思うように進展しなかった。

 昭和19年7月にサイパン島が陥落すると、メレヨン島への大規模な輸送は困難な状況に陥った。日本本土とメレヨン島の間に位置するサイパン島の喪失は、輸送の分断を意味した。孤立を余儀なくされたメレヨン島では食糧不足が顕著となり、訓練や陣地の構築よりも「自活」が優先されるようになった。

 米軍は「飛び石作戦」によってメレヨン島を「無視」して、日本本土に進軍していった。周囲の制海権を喪失したメレヨン島は、太平洋上に軟禁されるような状況となった。

自生するバナナマンゴーは米軍が焼き払い…

 補給物資の絶対的な不足により、メレヨン島は「飢餓の島」へと落ちていった。

 島にはもともとバナナマンゴーの木などが自生していたが、米軍の空襲によってその大部分は焼き払われた。米軍が上陸してくる気配はなかったが、空襲はその後も断続的に行われた。

 当初、島の守備隊員には軍の規定通り、1日に米720グラムが支給されていた。しかし、その量は次第に減少し、8月下旬には290グラム、そして9月下旬にはついにわずか100グラムにまで減らされてしまった。将兵たちは水気の多いお粥を、ゆっくりと味わいながら咀嚼した。

 守備隊は自給自足体制の確立を目指して「農耕班」や「漁労班」を組織。自活の道を懸命に模索した。独立混成第50旅団長・北村勝三陸軍少将は「全員百姓」「全員漁師」と訓示。将校らに対しては、部下の命を守ることを厳命し、そのために全力を尽くすよう求めた。北村は「将校は主計であり軍医であれ」とも命じた。

 長野県出身の北村は、陸軍士官学校(26期)を卒業後、シベリア出兵や日中戦争に参戦。元来、部下思いの温情ある性格だったと伝わる。

 そんな北村が推し進めた「現地自活主義」だったが、主にサンゴ礁から成るメレヨン島は畑作には適さず、肥料も不十分だったため、芋やカボチャを植えても収穫量は期待を大きく下回るものだった。

食べたい、食べたいの飢餓地獄

 また、漁具が足りないため、魚を採ることも難しかった。手榴弾を使った漁なども行われたが、やがて爆薬類も底をつき、不可能となった。

 食糧の増産は計画通りには進まなかった。歩兵第41連隊の歩兵砲中隊で指揮班長を務めていた田邊正之は、当時の状況を後にこう記している。

〈飢えの身となっては食べたい、食べたいとの飢餓地獄に落ちて行った。私は小さい網を作り、暇を見ては海岸に出ては石礫の間にいる小さな雑魚を獲り、石でそれを搗き砕いて生で海水と食べていた。海の荒れない日は毎日実行していた〉(『永遠の四一』)〉

 結局、島内にいたトカゲネズミヤシガニヤドカリなどが、将兵たちの貴重な蛋白源となった。とある生還者の一人はこう証言している。

〈「島の守り神」といわれていた一メートル級の大トカゲは、すぐにいなくなった。人さし指ほどのカナヘビは、焼くと縮むので生で食べた。落ちたヤシの実に付くウジ虫は甘味があり、奪い合うようにして食べた〉(「北海道新聞2005年1月15日付)〉

「特攻隊」誘導役が不時着

 昭和20年3月11日の夜、そんなメレヨン島に一機の二式飛行艇が緊急着陸した。鹿児島県の鹿屋基地から出撃した「梓神風特攻隊」の針路誘導役を務めた二式飛行艇が、その任務を果たした後、エンジントラブルによって不時着したのである。

 機長は慶應義塾大学出身の小森宮正悳という人物だった。当時、「世界最高峰の性能を誇る傑作機」と称された二式飛行艇には、小森宮を含め12名の兵士たちが同乗していた。

 なんとか着陸に成功し、現地の部隊と合流した小森宮たちであったが、島内には機体を修理するための機材や器具もなければ、燃料となるガソリンもなかった。

 小森宮たちは帰投の見込みを失った。二式飛行艇は、敵機の標的になるのを避けるため、海中に沈められた。

 以降、小森宮たちも深刻な飢えに悩まされるようになった。島の兵士たちと同様、野生動物に手を出す日々へと入ったのである。

 小森宮はネズミが最も美味いと感じたが、その珍味にありつけたのも2回だけだった。島内ではついに野生動物さえも取り尽くされようとしていた。

 それでも、小森宮らに対し、現地部隊の将兵の中には、自身のわずかな食糧を削って世話をしてくれた者たちもいた。「招かれざる客」であるはずの自分たちに厚情を寄せてくれた将兵たちに対して、小森宮は戦後にこう書き記している。

〈筆舌に尽し難いほど悲惨困難な環境の中で、実に心温かいお世話になってしまった。今もって、なんとお礼申し上げてよいのか、言葉もないほど、熱い感謝の念が続いている〉(「なにわ会ニュース」70号)〉

乱れていく「島の規律」

 その一方、島内に「食糧泥棒」などが増えていったのも事実だった。小森宮も大切にしていた航空時計を盗まれてしまったという。前出の歩兵砲中隊指揮班長、田邊正之は次のように記している。

〈飢餓が進むと生きんがために人間の理性は消えて、動物そのものの食本能へと変わっていった。危険を冒してでも、見つかれば厳しい処罰・制裁を覚悟で農作物を盗む者、日を追って事件も増して行く。どうせ死ぬのだ、腹一杯食って死にたい。これが誰もの当時の悲願であった〉(『永遠の四一』)〉

(文中敬称略)

#2に続く)

《遺骨用に指を切りとり缶に入れ焼却》日本兵5000人死亡 “孤立無援の島”の軍医が残した「悲痛な日記」 へ続く

(早坂 隆/Webオリジナル(特集班))

“飢餓の島”メレヨン島で生き延び、別府港に到着した勇士たち(1945年9月26日) ©️共同通信社