経済財政運営の基本方針(いわゆる「骨太の方針」)に最低賃金引き上げ(1000円を目指す)による地方創世が盛り込まれた。労働組合も全国一律で1500円への引き上げを求める声明を出しているが、中小企業の中には昇給の原資を捻出できないところもある。(加谷 珪一:経済評論家

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地方だからといって生活費が安いとは限らない

 政府が2021年6月9日に示した経済財政運営の基本方針の原案に、東京一極集中の是正と地方創世を実現するため、最低賃金の引き上げを目指すという文言が明記された。時期は明記されていないが、早期に全国平均1000円を目指す。

 これに先んじて労働組合総連合会(全労連)は5月31日、「全国各地の生活費に大差はなく、国民が相応の生活を送るためには、全国一律で最低賃金を1500円に設定する必要がある」との声明を発表している。全労連では、全国各地の生活費について調査を行っているが、一定以上の生活水準を前提にすると、生活に必要な支出の額は地域によって大きな差がなく、どこに住んでも月額22万円から25万円程度の収入が必要だという。全労連では地域ごとに差をつけず、一律で時給1500円まで最低賃金を引上げるべきだと主張している。

 地域によって物価に違いがあることはよく知られているが、一方で、チェーン店の普及などによって生活費に差が生じにくくなっているのも事実である。極限まで生活費を切り詰めるのであれば話は別だが、一般的な生活を送ることを前提にすると、地域によってそれほどコストに違いが出ないことは、多くの人が実感として理解しているのではないだろうか。

 コロナ危機をきっかけに地方への移住を希望する人も増えているが、地方は意外とコストが高く、都会並みの賃金がないと地方での生活は逆に苦しくなることすらある。

 企業も賃金を上げないと人員を確保できないことはよく理解しており、ゼンショーホールディングスはコロナ危機で業績が厳しい中、ベースアップを2030年まで毎年実施する方針を固めた。定期昇給分を含めた毎年の賃上げ率は2%程度になるという。

 だが、賃上げを決断できるのは体力のある企業だけというのが現実であり、中小企業の多くは賃上げを実施する原資がないというのが実状だ。

 最低賃金をめぐっては、積極的な引き上げで消費の起爆剤にすべきだという意見と、無い袖は振れないという意見が対立しており、最小限の上昇幅にとどまってきた。賃金が先なのか、景気(消費)が先なのかというのは、ニワトリタマゴの論争のようなものだが、実際問題として最低賃金の大幅な引き上げには効果があるのだろうか。

生産性が上がらないと賃金も上がらない

 賃金は基本的にその国の経済成長と密接に関係しており、GDP(国内総生産)が伸びなければ賃金も上がらない。日本は過去20年間、賃金がほとんど上昇しないという状況が続いてきたが、OECD(経済協力開発機構)の調査によると、2019年における日本の平均賃金(年収)は約3万8600ドル(購買力平価の為替レート)となっており、20年間ほとんど変っていない。一方、米国は6万6000ドル、ドイツは5万4000ドルと日本よりも大幅に高く、ほぼ毎年のようの賃金が上がっている。ちなみに韓国もこのところ賃金上昇が著しく、2018年には日本と韓国の賃金は逆転している。

 日本だけが賃金が上昇しない理由は、繰り返しになるが経済全体が成長していないからである。

 経済が順調に成長していれば、その分だけ物価や賃金も上昇していくのが普通である。逆に言えば、経済成長なしに賃金が持続的に上昇することはあり得ないわけだが、どうすれば経済の持続的な成長が可能になるのだろうか。最終的には企業の生産性を向上させる以外に方法はない。

 マクロ経済の理屈上、人口や資本が同じ水準だった場合、経済成長率を決定するのは全要素生産性である。日本は人口減少が進んでいると言われるが、過去20年における日本の人口は微増だったので、人口動態や資本に大きな変化はなかった。

 結局のところ、日本の低成長が続き、賃金が上がらなかったのは、生産性が低く推移しているからである。日本の生産性が主要先進国中、最下位であることは厳然とした事実なので、究極的にはこの状態を解消できなければ賃金は上がらない。

最低賃金の引き上げと企業改革をセットにすれば話は別

 生産性が変化しない中で無理に賃金を上げると、売上高の減少や、物価上昇といった弊害をもたらす可能性があるので、強制的な賃上げには慎重になった方がよい。だが、最低賃金の引き上げが経済学的にまったく意味がないのかというとそうではない。最低賃金の引き上げが、生産性向上の引き金になる形で実施されるのであれば、最終的には全体の賃金も上がっていくからだ。

 具体的には、IT化を通じた業務効率の改善と、人材の最適配置など、ビジネスモデルの改革と賃上げをセットにする方法である。

 日本では深刻な人手不足が続いているが、一方で企業は過剰な雇用を抱えている。日本企業は1万ドルを稼ぐために29人の社員が7時間労働する必要があるが、米国は同じ7時間の労働で社員数は19人しかいない。人が余っているのは、ルーティンワークに従事するホワイトカラー層であり、こうした仕事の多くはIT化を進めることで、より少ない人数で実施できる。

 諸外国では、単純作業は可能な限りIT化を行い、余った人材は付加価値を生み出す別の仕事に従事している。このため経済全体のパイが日本よりも大きくなり、結果として賃金も高くなる。過剰な雇用を抱えたままでは、需要は減少する一方であり、賃金も上がりようがないのだ。

労働者には無償でスキルアップ支援を実施すべき

 過剰な雇用を是正し、余剰となった人材を新しい業務に再配置するきっかけとして最低賃金が機能するのであれば、それは有益な解決策となり得る。最低賃金が上昇すれば企業は利益が減少するので、同じ業務をより少ない人数でこなす必要に迫られる。余剰となった人材を新規事業に投入できれば、付加価値の絶対値が増えるので、これが全体の賃金上昇につながっていく。

 下請けへの値引き要請などコストダウンに走ってしまっては逆効果だが、賃金上昇による利益の圧縮を、新事業への取り組みでカバーできるようになれば、賃金の引き上げ効果をもたらすだろう。

 しかしながら、人材を新しい業務に再配置するためには、スキルアップ支援など人材育成とセットにする必要がある。こうした仕組みがないままで、最低賃金だけを無理に引上げると弊害の方が大きくなってしまう

 生産性の向上は1年や2年という期間では実現できないので、最低でも5年程度を見ておく必要がある。中小企業の中には、こうした投資をする余力がないところも多いので、本気で賃金上昇を実現したいのであれば、政府が大規模な支援を行うことも視野に入れる必要がある。

 一方で、各種支援を実施しても一連の改革を実施できない企業については、残念だが市場から退出してもらうしかない。市場から退出する企業に勤務していた従業員には、政府が無償でスキルアップ支援を行い、その間の生活費も同時に支援すれば、従業員は不安を抱えることなく、新しいスキルを身につけられる。

 コロナ危機は、10から15年かかると思われていた変化を5年程度に短縮する作用をもたらしている。「企業のIT化対応」と「ビジネスパーソンのスキルアップ教育」は実は最良のコロナ対策でもある。賃金の引き上げを本気で実現したいのなら、この2つを決断することが何よりも重要である。

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