さて、この連載が1冊にまとまった。タイトルは『偉い人ほどすぐ逃げる』だ。ドラマ逃げるは恥だが役に立つ」を思い起こさせるタイトルだが、実際に頭にあったのは、この5月で没後30年を迎えたルポライター・竹中労の著作『エライ人を斬る』だ。だが今、斬られながらも意志を貫く偉い人は少なくなり、とにかく逃げる後ろ姿ばかりが目に入ったので、このようなタイトルに落ち着いた。

5年前から問題としては今に続いている

 時事コラムをまとめた本って、本としては売りにくい部類に入る。この手の本では、わざわざサブタイトルに「2016―2021」などと入れ、律儀に「2016年」から順番に掲載していくスタイルをとる本が多い。しかし、買おうかどうか迷っている人に、わざわざ「2016年なんて、だいぶ前のことですよね」と知らせる効果しかもたらさないので、そんなことはせずに、原稿を取捨選択した上で、グループ分けを試みた。

 すっかり前職の編集者目線を復活させてしまうが、いかにして「今に続く問題だらけ」に見せるか、という作業が必要になってくる。実際に本を開けば、2016年東京都知事選に立候補して惨敗した鳥越俊太郎が、政治の場に進出しようとした理由を「ペンの力って今、ダメじゃん。全然ダメじゃん」と述べていたことへの苦言から入っているのだから、とても、今に続いている人物の話題ではない。

 だが、人物ではなく、問題としては今に続いていると判断したわけだ。こういった本を編集していると、「主張」と「こじつけ」って、距離の近いものだと痛感する。主張をはっきりさせるために、自分の思索を整理してみるのって、具体的な作業としては「こじつけ」だったりする。自分の頭にあるAとBの共通項を探し出し、その2つをつなぐ橋をかける。橋を補強し、あらかじめひとつの集合体だと考えてきた、と主張してみせる。考えてきたことの共通項を浮かび上がらせる瞬間、というのが、編集の醍醐味ではある。

結構、簡単に逃げ切れる

 政治家も芸能人も物書きもメディアも、そこに住む偉い人たちが、とにかくよく逃げた5年間だった。なぜ逃げるのか。結構、簡単に逃げ切れるからだ。逃げた瞬間こそ「おい、逃げんな!」と叫ばれるものの、翌朝か、1週間後か、1ヶ月後か、それぞれ期間に差はあっても、その「逃げんな!」の矛先が別のところに向かってしまえば、追及から解放されるのである。

 それでもしつこく追及していると、追及している側のスタンスへの疑義が発生し、「てか、いつまでやってんの」「対案も出さないくせに」というお決まりのフレーズを自信満々の攻撃として向けてきて、その問いかけ自体が奇妙だと指摘すると、なぜか「答えられないんでしょう、ハイ論破www」となり、気づけば、逃げた人や組織は、遠く離れたところで悠々としている。

 自分は鳥越の考え、つまり、「ペンの力って今、ダメじゃん。全然ダメじゃん」とは思っていないので、「ペンの力」を信じ込んだ上で、逃げる人たちの背中を捕まえてみた。是非とも手にとっていただければ嬉しい。「あー、あったね、こんなこと」の後に、「で、この件ってどうなったんだっけ?」が生まれ、「ただただ、そのまま放置されている」という事実に気づくはず。それなりに反省を余儀なくされると思う。

「逃げる」と「頼る」はセット

「逃げる」と同じように、連載全体から浮き上がってきた動詞が「頼る」だった。何か問題が起きた時、これについては彼や彼女がこのように言っているのだから、そんなこと言うもんじゃないよ、という仕組みが方々で繰り返されてきた。「逃げる」と「頼る」ってセットだ。誰かに押し付けて逃げる。もともとそういうものだったのだから、そこで何かあったとしても、特に驚くべきことではないよ、って感じ。

 たとえば、森友学園問題で、公文書の改ざんを強要され、自ら命を絶った財務省近畿財務局・赤木俊夫について、「虎ノ門ニュース」(有本香×髙橋洋一×居島一平2020年3月19日)で、有本が「財務省は自殺率が高い」と言い、先日、新型コロナウイルスの日本の感染者数の推移を「さざ波」と形容して問題視された髙橋が「本人が思い込んじゃってるんじゃないの」「悪あがきしなければどうってことないじゃないか」「早いうちに体を壊しておけば、外してくれるから。そっちのほうが楽なのに」と言いながら、スタジオは笑いにつつまれていた。

 この笑いを思い出すとき、先日の髙橋のツイート「日本はこの程度の『さざ波』。これで五輪中止とかいうと笑笑」というツイートに含まれる「笑」の意味も見えてくるが、こうして、起きた出来事に対して、声をあげることのできない、あるいは、声のあげにくいほうにその原因があると見せて、それに頼ることによって、問題から逃げていくのである。とにかくいくつもの話題に共通する。できるかぎり、誰かのせいにするのだ。

池江璃花子選手にすがる人々

 ネガティブな話題は、誰かのせいにする。ポジティブな話題は、誰かにすがる。同じ「頼る」でも、角度は変わってくる。東京オリンピックパラリンピックの開催をめぐり、なんとしてでも開きたいと考える人たちが競泳の池江璃花子選手にすがる様子がなかなか見ていられない。

 池江に対して、どうして開催に反対しないのか、とSNSなどに書き込むのはよろしくない。池江自身が「選手個人に当てるのはとても苦しいです」とSNSで述べたのを受け、その手の書き込みへの批判が殺到した。

 だが、この池江を、東京五輪の象徴にしようと画策してきたのは、SNSで突っ込む人たちではない。昨年7月、五輪開催まで1年を記念した国立競技場イベントに登場した池江は、グラウンドの真ん中に1人で立ち、言葉を読み上げた。このイベントを手がけたのが、「オリンピッグ」なる開会式プランが問題視された佐々木宏だが、女性蔑視発言で大会組織委員会会長を辞任した森喜朗が、その蔑視発言が出た場で、このイベントについてどのように言っていたか。ここで振り返っておく。

「去年の1年前のイベントでご覧になったと思いますが、池江さんを使って、国立競技場で1人で手を挙げて、トーチを持ってましたよ。大きな広告を全国の新聞に出しました」「こんなに体力なくても私はオリンピックを目指します、という感じ」である。象徴にして頼っているのは、私たちではなく、運営する側だ。

選手だからといって、批判を免れるわけではない

 自身に向かうツイートに苦言を述べた池江について、政治家が、池江選手にそんなことを言うのは許せない、私たちは安心安全を確保しながら開催を目指します、との見解につなげているが、これもまた「頼る」の一種だ。

 そもそも、この「選手を批判してはいけない、彼らは頑張っている、だから、オリンピックはやりましょうよ」という頼り方って、素直に受け取ってしまっていいのだろうか。

 ジュールズ・ボイコフ/井谷聡子・鵜飼哲・小笠原博毅監訳『オリンピック 反対する側の論理 東京・パリ・ロスをつなぐ世界の反対運動』(作品社)の補章で小笠原がこう書いている。

〈「近代オリンピックはその始まりからずっと、開催への反対運動や反対意見と共に歴史を歩んできた。反対があるのが当たり前なのである。それを目の当たりにしなくても競技人生を歩んでこられた、代表レベルの選手たちの非社会性は批判されるべきである」〉

〈「日本のスポーツエリートは、非社会的であることを教育によって求められてきた」〉

〈「反対運動や反対意見の現実に目隠しをされて育てられてきた結果が、オリンピックパラリンピックなのだ」〉

 選手だからといって、批判を無条件に免れるわけではない。選手たちがかわいそうじゃないか、と頼られている選手という存在もまた、かわいそうと言ってくれる存在に頼っている。頼ることで、意見表明の機会から逃れている。

五輪が政治化しているのは明らかなこと

 五輪がスポーツイベントとして政治化しているのは、誰がどう見ても明らかなのだから、アスリートの人たちも、目の前にある政治性を受け止めながら、それについてどのように考えるか、個々人が積極的に表明しなければならないのではないか。

 様々な意見があるのは知っていますが、自分たちは練習に励み、開催されることを信じ、その日を待つのみです……こういった平均的な見解は、あちこちから頼られやすい見解ではある。自分たちはただ目標に向かうだけ、と言い、治外法権をほのめかすのって、これもまた「逃げる」の一種ではないだろうか。これだけ、開催そのものが厳しく問われている中にあって、これまで通りの逃げ方を続けるのだろうか。

(武田 砂鉄/文學界 2021年7月号)

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