(勢古 浩爾:評論家エッセイスト)

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 いまだにこういう愚かな男がいることが信じられない。

 日本の刑法では13歳未満との性行為を禁止している(刑法176条「強制わいせつ罪」、177条「強制性交等罪」)。この法律は明治時代に作られたもので、13歳というのはG7のなかで一番低く、2008年、国連から年齢の引き上げを勧告されていた。立憲民主党は「性犯罪刑法改正に関するワーキングチーム」をつくり、性交同意年齢を「16歳未満」まで引き上げることを目指して何回も議論を重ねていた。ここまではよかった。

 ここに初老の立民衆院議員が登場する。その議員はだれを擁護するつもりなのか、「例えば50歳近くの自分が14歳の子と性交したら、たとえ同意があっても捕まることになる。それはおかしい」と発言したのである。どうやらこの男は、する側の立場に立って発言しているらしい。「同意」があるのに、こんなことで捕まってはたまらんではないか、と。

 かれはその後の会合でも「12歳と20歳代でも真剣な恋愛がある」だの「日本の『性交同意年齢』は他国と比べて低くない」だのとまくしたてたらしい。さぞかし自信満々だったのだろう(「『14歳と同意性交、捕まるのはおかしい』立憲議員発言」朝日新聞デジタル、2021.6.7、https://www.asahi.com/articles/ASP676TZPP67UTFK010.html

 この発言に対して、「ひろゆき」こと西村博之氏は「同意があっても、捕まって刑務所に入るべきだと思います。近所にいて欲しくないでしょ、こんな人」と一蹴した。近所どころか、シャバにいてほしくない。

発言自体をなかったものにしようとした

 ここまでも十分問題だが、このあとがさらに大問題になった。ワーキングチームの座長の寺田学衆議院議員は「発言したとみられる議員本人から『そのようなことを言ったという正確な記憶はない。ただ、もし発言していたとしたら、伝えたかった真意ではなく、撤回したい』と説明があった」とコメントし、問題発言を記録から削除したといった。福山哲郎幹事長も記者団に「本人が『撤回』と言っているので、それでいいのではないか」と述べて、発言者を公表しなかったのである。

 立憲民主党は当初その発言者を公表せず、発言自体もなかったものにしたかったらしい。しかし隠し通すのは無理と悟ったか、本多平直という議員(比例北海道ブロック)が名乗り出た。かれは現在立憲民主党代表である枝野幸男氏の秘書を10年間務めた人で、その威光を笠にきて、態度もデカいが声もデカいことで有名だったようである。「50歳近くの自分」といっていたが56歳である。その本多氏がいけしゃあしゃあと「趣旨において私の理解が足りていない、真摯に反省をし、認識を深めていきます。お詫びして撤回いたします」と発表した。

「同意」ということの意味も内実も知らないこういう男の、口先だけの釈明を聞く気はない。「謝罪・撤回」をするにも問題のスジが悪すぎる。名前が公表されるや、福山哲郎幹事長は「厳重に口頭注意した」とおざなりの処分ですまそうとした。枝野代表や蓮舫議員や辻元清美議員はダンマリで、「身内に甘すぎ」と批判が続々した。

与党も野党もみなおなじ、と思うだけ

 もしこの発言が与党議員からなされたものだったら、さぞかしかれらはここを先途とばかりに議員辞職だ、審議拒否だと騒ぎ立てたことだろう。だが立場が逆転すれば、釈明も正反対にならざるをえない。枝野代表は後になって「本人は真摯に反省してですね、さらに研さんを積んでもらわなければならない」と述べたにとどまり、蓮舫議員は「ご本人の認識が問われています」と、毒にも薬にもならないことをいっただけ。

 作家の北原みのり氏は「本多議員に限らず、同意年齢を引き上げることにリベラルな議員の中に根強い反対があるのは事実だ」といっている(「14歳と性交同意で捕まるのがおかしい? 立憲議員が謝罪・撤回でもリベラル男性の限界を感じた」AERA dot.、2021.6.9、https://dot.asahi.com/dot/2021060900033.html

 与野党の政治家だけではない。法律家裁判官も検事も警察官も、性犯罪の刑罰に対しては大甘なのだ。それにリベラル男性議員といっても、権力をもてば威張りたがるただの俗物が多いことは、先の民主党政権時に証明済みである。

 国民もこの立憲民主党の醜態を見ても不思議とも何とも思わないだろう。立場が変われば、与党も野党も、保守もリベラルもみんなおなじだと思うだけである。党内から本多平直議員を除名処分にせよ、という声は上がらなかったのか。まあ上がるわけがないな。腐っても一議席である。その一議席は絶対に失いたくないのだ。

「身内意識」が発揮されただけ

 日本人は「立場主義者」であると喝破したのは東大教授の安冨歩氏である。わたしも以前から「人間の立場」に関しては関心をもっていたが、安冨氏は「日本国の本当の名前は『日本立場主義人民共和国』だ」といって、この国の憲法を次の3条に制定している(『生きるための日本史――あなたを苦しめる〈立場〉主義の正体』青灯社、2021)。

前文 立場には役がついており、役を果たせば立場は守られる。
第1条 役を果たすためなら、何でもしなければならない。
第2条 立場を守るためなら、何をしても良い。
第3条 他人の立場を脅かしてはならない。

 本多議員は「する側」の立場、「男」の立場に立って、1条と2条を果たしたのである。他の議員たちは個人的には、困ったやつだなと思っただろうが、「立民党員」という立場からは3条を適用しなければならなかったのだ。すなわち「立場上やむを得ず行ったことが、法に反していたとしても、人々は『立場上やむをえなかった』という言い訳を受け入れてくれます。逮捕されても復職できる」ということであり、「人の立場を脅かしたら、皆から指弾され、下手をするとクビになります。そうならないまでも、窓際に追いやられます」ということである。

 安冨氏は、戦前までの家制度が崩壊して、やってきたのは個人主義の時代ではなく、「立場」の時代だと考えている。しかし家制度は崩壊しても、家意識はいまでも厳然として残っている。自分の属している組織や会社がそうである。そのなかの省、部、課もまた家意識である。

 要するに身内意識である。身内の恥は外部に出してはいけない。かくして社内の不祥事防衛大学校のいじめ、自衛隊内のパワハラは隠蔽される。今回の立憲民主党の対応は、むしろ身内意識による二重基準と見る方がわかりやすいだろう。

「立場主義」は永遠になくならない

 立場主義は両面ある。片面は、立場にどこまでも忠実で、役目を守るためにはなんでもする面である。国益よりも省益というのがそれだ。役人は組織や上司や同僚を守るために、記憶をなくしウソをつく。もう片面は、立場にがんじがらめに縛られることである。森友学園問題で決裁文書の改ざんを命じられた財務省近畿財務局職員の自殺や、最近のJOC経理部長の自殺はその悲劇的なケースだと考えられる。そこには立場を厳守する者と、立場に締め付けられる者がいる。

 安冨氏は「立場主義は、戦後に完成したと思ったらすぐに崩壊し始めている」という。21世紀の半ばまでには「跡形もなくなっているだろう」が、「その後に何が来るかは、まだ分かりません」。

 安冨氏の「立場主義」とわたしが考える「立場主義」はかなりずれているのかもしれない。

 立場主義は日本だけにあるのではない。役職による権限があるところでは世界中どこでもあることである。立場が違えば、いうことも態度も変わるのは、どこでもおなじである。ただ先輩後輩など、上下関係に異常なまでに拘泥する日本はとくに強いだろう(韓国や中国も?)。安冨氏は、立場主義は「すぐに崩壊し始めている」というが、組織が存続するかぎり立場主義は永遠になくならない。国や地方の役所だけではない。いじめを隠蔽しようとする学校、パワハラセクハラが蔓延している会社、テレビ局、新聞社も例外ではありえない。

表面を取り繕うことに人々が全力

 安冨氏は京都大学卒業後、住友銀行に入った。それは「就職活動の時に出会った京大の先輩がすばらしい人々だったから」。ところが「住友銀行というところは旧態依然たる軍隊的組織で、入行時のランキングみたいなものが一生ついて回るようなところでした。そして、表面を取り繕うことに人々が全力を挙げており、上下関係が明確であり、人々が自由に意見を出し合う、というようなことは、決して起こらない世界でした」。結局、安冨氏は銀行を2年半で辞めた。

 しかしその当時、「立派な方」もいたという。安冨氏の弟は三和銀行に入った。かれの入った大阪支店の支店長は「無理な不動産融資が始まった時に、これはおかしいと考え、『こんなこと、やらんでいい』と言って職員を毎日5時に帰らせて」いた。本部は怒り狂って圧力をかけてきたが、支店長はがんとして拒否しつづけ、2年間の任期が終わると出向させられた。その支店はバブル崩壊後、欠損を出さなかったにもかかわらず、支店長が復活することはなかった。

 なぜその支店長だけがそんな行動をとりえたのか。こういう人はたしかにいる。だからといって、こうはいえない。「トップがちゃんとサボれば、そして皆でサボれば、悲劇は防げたのです」「もしも戦前の日本が非国民だらけだったら、誰も言うことを聞かなかったら、戦争は回避できた。悪くとも、もっと早く止まっていたはずです」。それは形式論理的にはそのとおりだが、現実的には、みんながサボることなどありえない。これからも妄言を口にする政治家は出現し、「謝罪・撤回」は繰り返されるだろう。

「立場」から外れることはできるか

 組織の立場から外れることはできる。年齢・世代という立場から自由であることも可能である。しかし親子という立場から、外れることは難しい、おなじように難しいのは国籍という立場(ヘイトクライムや人種差別)と、男女という性の立場(DVや蔑視や差別)で、これは死ぬまでつづく。

 しかしこれらの立場はまだ、自由とはなにか、平等とはなにか、寛容とはなにか、と思考を深めたり、相手の立場に立ってみる立場変換をすることによって相対化することが可能である。

 一番最後まで残るのは「自分」という立場だ、とわたしは考えている。これを「立場」と呼んでいいかどうかは問題だが、しかしこの「自分」は始末が悪い。これを克服するのは、自我を無我にすることであって、ほとんど至難である。

 6月12日、周庭氏が釈放された。彼女はインスタグラムに、真っ黒な画像とともに、「苦痛の半年と20日がついに終わった。痩せすぎて体が弱くなってしまったので、よく休みたい」と投稿した。模範囚だったので予定より早く釈放されたのだろうと推測されているが(元々、収監自体が無法なのに、模範囚もへちまもない)、衰弱が激しかったのでまずい状態になる前に釈放したのではないかという気がしないでもない。

 わたしは彼女のことを気遣っていたが、それはまったくの無意味。捕らえるも放すも、結局は当局の胸先三寸。それに気遣うとはいえ、彼女が獄中にあるときに、わたしは新しい自転車を買ってこれは楽しいぞ、と嬉々として乗り回したりしていたのだ。

「自分」という立場はそういうことだ。自分以外のものを最終的には気遣いから外してしまう。どうしようもなく、しかたのないものである。

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立憲民主党の本多平直議員(立憲民主党のWebサイトより、https://cdp-japan.jp/member/3)