「評価値ディストピア」の世界をトップ棋士はどのように見ているのか から続く

 振り飛車アマチュアに人気の戦法だ。しかし、トップ棋士のほとんどは居飛車党である。現在、振り飛車党のタイトル保持者はおらず、10人のA級棋士のうち純粋振り飛車党は菅井竜也八段のみ。ソフト同士の対戦ではほとんど振り飛車は現れず、「飛車を振っただけでも評価値が下がる」は有名な話だ。

 しかし、生粋の居飛車党だった佐藤天彦九段が飛車を振るようになった。昨年10月王将戦リーグ藤井聡太王位・棋聖に先手中飛車をぶつけたのを皮切りに、その後は半分以上を振り飛車で戦っている。後に「シーズン途中でのフォームチェンジは大きなチャレンジだった」と振り返った。

 思い起こせば、大師匠の大山康晴十五世名人も1957年に名人を失って無冠に転落後、多忙な対局日程をこなすために振り飛車党に転身し、1992年に逝去するまでトップ棋士として君臨した。

 佐藤九段の振り飛車は「見切り発車だった」という。話は振り飛車の性質、評価値と将棋観戦のあり方と多岐にわたった。

試行錯誤の一環で飛車を振るようになった

――佐藤九段はデビューから相居飛車の最新形で戦ってきました。いまは飛車を振ったり、陽動振り飛車のような力戦形を増やしています。理由を教えてください。

佐藤 試行錯誤の一環です。ソフト研究をガリガリやる、巧みに外す、オールラウンダーになって手広くやる。どれが自分に合ったスタンスかを見つけようとしています。まだ見つかっていないので勝率は上げにくいでしょうが、長いスパンで考えればそういう時期があるのは仕方がないでしょうね。

 実は、振り飛車を試したのは今回が初めてじゃないんです。2016年に名人を獲った後、角交換振り飛車NHK杯とかイベントの席上対局で何局か指していました。

――当時はまだソフト研究が過熱する前ですし、そもそも居飛車で結果を出した直後なので、不思議な感じがします。

佐藤 とりあえずタイトルを獲得したので、自分らしさを盤上で表現したいと思い、振り飛車を指したんですよ。将棋は基本的に勝利が第一義としてあり、それをみんなが懸命に求め合った結果、よい棋譜ができて個性がにじみ出てくるのが一般的だと思います。私は名人を獲るまで、勝つための組み立ての色が濃く、先手は角換わり、後手は横歩取りというスタイルでした。

 でも、角交換振り飛車を研究した割には数局しかやらなかったですね。棋風に合っていないわけではないんですが、経験が浅くて結果を出しにくく、実際に何局か指して満足したのかもしれません。

――いまは三間飛車や中飛車をエースにしています。どれぐらい準備したんですか?

佐藤 いや、そんなに(笑)。私は結構、見切り発車なんですよ。ずっと居飛車党だった人間が振り飛車で準備万端にするには、1年も2年も温めないといけない。でもその間に飛車を振りたいという気分も去っていくかもしれない。目先の勝率だけで見送り続けていったら、私は振り飛車を一生できません。

わかりやすくファンに楽しんでもらいやすいのが魅力

――改めて、振り飛車のどういうところに目をつけましたか。

佐藤 振り飛車は個性を出しやすく、自分の好みである程度指しても大丈夫な戦法です。最善手を選ばなくても、居飛車と違っていきなり400、500点も減りません。出発点がマイナス100点ぐらいで少なめだけど、そこから減るにしても現局面より模様が悪くなるぐらいですみます。

――なぜ、それが可能なんでしょう。

佐藤 戦法の性質でしょうね。相居飛車は玉の囲いが盤上の対角線上に近い場所にあることが多く、それゆえに相手の攻撃陣が自分の玉の直上にいるので、すぐに玉が危なくなります。感覚で指していると、ぴったり詰む変化に入ってしまうこともよくある。しっかり読まないといけないし、必然手が多いから誰が指しても同じ将棋になりやすいです。

 でも振り飛車にすれば、今度は攻撃陣同士が向かい合っているので、すぐに玉が詰む、詰まないの変化にはなりにくい。だから、最善手じゃなくても、致命傷になりづらいんです。

――それは「評価値ディストピア」とは違う世界で、人間同士が地力をぶつける将棋になりやすいでしょうね。

佐藤 割とごちゃごちゃした戦いになりやすく、見ている側も楽しみやすいと思います。相居飛車は最新形の攻防を知らないと、水面下の駆け引きがわからないでしょう。プロは知っているからいいんですけど、構造的にファンはわかりにくい将棋になってしまう。自分もそういう将棋を指しますけど、そればっかりでは寂しい気がします。

 これは勝負の世界だけの話じゃないと思います。現代の音楽でいえば、わかりやすい劇伴(映画やテレビドラマなどの劇中で流れる音楽)がある一方で、クラシック音楽の流れを汲む最先端の音楽では不思議な感じしかしない曲もある。いままでにない新規性を突き詰めすぎると、大衆性が失われるという面もあるんですよ。いままでのセオリーをある程度踏まえたほうが多くの人が楽しめて、エンターテイメント性が高いということはあるんです。

 しかし、将棋は勝負です。エンターテイメント路線で将棋を指そうとしても、結果がついてこないリスクもある。とはいえ、ちょっとやってみたいんです。自分が楽しむ気持ちを大事にしたいし、ファンの方に楽しんでもらえたらいいですから。もちろん、受け取る側の感性や感情は表現者側が決めることではないし、コントロールできるわけでもありません。それはいかなる芸術表現やエンタメでもそうだと思います。

「いままでの優れた振り飛車党の感性をうまく取り入れたいですね」

――理想の振り飛車はどのような将棋ですか?

佐藤 いまを生きる人間として指すからには、いままでの優れた振り飛車党の感性をうまく取り入れたいですね。あるときは大山(康晴十五世名人)先生の手厚さ、私の師匠の中田功(八段)や久保(利明九段)先生のようなさばき、藤井(猛九段)先生のようにシステマティックな定跡やパワフルな攻め。状況に応じてうまく使い分けられたらいいのですが、まだまだそのレベルではないです。

――最近、振り飛車ソフト研究の影響が強くなってきました。

佐藤 いま流行っている振り飛車ソフトでかなり検証されています。それまでは振り飛車側が「ソフトの点数は居飛車に振れるけど、戦いは長いから実戦だと大変でしょう」という思想でやっている人が多かったと思います。

――飛車を振っただけで点数が下がるんだから、ソフト振り飛車を評価する大局観を持ち合わせていないと考えるのは自然だったでしょうね。佐藤九段自身の振り飛車で、いちばん印象に残っている対局はどれですか。

佐藤 昨年12月順位戦A級、佐藤康光九段戦です。陽動振り飛車の序盤で選択肢が複数あり、どれを選んでもそこまで悪くならない。これは大山先生風かな、これは師匠らしいかなと楽しく考えられました。相居飛車だとそういう時間はあまりなかったですからね。実戦もある程度うまくさばいて勝つことができ、自分好みのすべての駒が働く将棋になりました。

――佐藤康光九段は独自路線で戦っている棋士です。ふたりで力戦形を志向したのですから、余計に波長が合ったのでしょう。

佐藤 ねじり合いになり、佐藤康光九段らしい力強い玉さばきもありました。そういうわかりやすさも、ファンの方が楽しむ上では大事だと思うんです。勝つために難しいことやらざるをえないのはプロであれば避けられないことではありますが、将棋の楽しみ方というのは高度なことをやる合戦だけではないと思うんですよ。例えばAIの進歩を説明するために、将棋というゲームの複雑さが強調され、人間の高度な知性をAIが超えようとしていると報道されてきました。でも、もともとゲームは人間が楽しむためのものです。自分自身、そして将棋界が楽しいものであってほしいと思います。

将棋はひとつのミスが負けに直結しやすいゲーム

――プレイヤーが楽しむ気持ちを持ち続ける、これは簡単なことではありません。どんな競技でも、負けたらモチベーションの低下につながります。

佐藤 もちろん、負けるのはつらいですけど、時間とともに解消されていくものではあります。私は忘れるのが速いので、性格的に向いているのかもしれません。つらい気持ちを引きずりすぎるのもよくないですから。

――「負けは自分を否定されたようだ」と、何十年も前の勝負の痛みを忘れられない人もいます。

佐藤 「自分を否定されている」は、ゲームの性質も関係していると思います。まず、将棋は情報が完全に公開されているゲーム自己責任の色が濃いです。自分で全部をわかって選択しているわけで、トランプカードを引くように「あ、これだった」みたいな偶然はない。もちろん、運はありますけどね。

 また、ひとつのミスが負けに直結しやすいゲームです。囲碁も将棋と同じく完全情報ゲームですが、性質が大分異なります。囲碁は陣取り合戦なので、序盤は基本的にはどこに打っても得になりやすく、どのプラスがいちばん大きいかを考えているゲームですよね。もちろんそこが難しく、考え甲斐があって醍醐味のある部分なのだと思いますけれども。でも将棋は、基本的にマイナスにならない手を指さないといけない。そして、悪手を指すとその下がり幅がすごいんですよね。

――なるほど。将棋は一手で簡単に逆転が起こりやすいゲームですし、初心者から見てもターニングポイントがはっきりしているのかもしれません。

佐藤 王を詰ませば勝ちという展開のわかりやすさもありますよね。局面の均衡を保っているときはよい手が出にくいけど、悪い手はすごくわかりやすい(笑)ソフトの評価値が出て、楽しみ方が野球とかサッカーに近づいているだけなのかもしれないですね。

投了で一区切りスパッとつけたほうがすっきりする

――勝負や競技のなかで、将棋は自ら負けを告げるのが特徴のひとつです。佐藤九段は居住まいを正してから、かなりはっきりした声で頭を下げる姿が印象に残ります。

佐藤 投了はかなり象徴的な瞬間で、一区切りつくところだと思います。実際に負けを意識するのは投了よりも前の段階で、どうやっても勝てないと悟ったときにいちばん絶望するんですよ。投了する直前も絶望の余韻がありますけど、そこで一区切りスパッとつけたほうがすっきりするじゃないですか。自分の気持ちも切り替えやすくなるし、あとは見ている方々も視覚的にわかりやすいほうが「ああ、終わったんだ」と腑に落ちますし。

――その視点は、将棋が棋譜や写真だけでなく映像でもずっと配信されるようになった影響がうかがえます。

佐藤 私は音楽の理論を勉強していますが、この和音が来たらこの音に落ちたい、そうなればこの曲がすっきり終わった感じがするというセオリーがあるんですよ。気を付けしたら次は礼をする、それと似た感覚です。投了の仕方も個性が出て様々ですが、私はそこを濁すと一局が終わった感じがせずすっきりしない印象になる気がするので、なるべくはっきりさせたいと思っています。

――対局後、ツイッターに感想を投稿されています。勝っても負けても淡々と書かれていますが、なぜ続けているのでしょう。

佐藤 中継の補完ですね。盤上の理解を深めてもらえたら嬉しいですし、そこまで難しく考えず単純に対局者の感想を楽しんでもらえたらいいのかなと思います。最近はスポーツ選手でもツイッターをやっている人が多くて、試合の感想を書いてあると「実はこう思っていたんだな」と面白いです。

 プロの将棋は観戦記やネット中継、動画配信で伝える方々がいます。ファンの方々がその将棋にどういう印象を持つかは、棋譜のクオリティだけでなく、そういったメディアに携わる方々が大きな役割を担っていると思います。

 例えば、いくらよい曲があっても楽譜のままではわからないし、絵画でもある程度の前提知識がないと楽しめないものはあります。一方で、印象派以降のように予備知識がなくても楽しめるものもある。ふふ、それは振り飛車に通じるかもしれないですけど(笑)

 私が指してきた相居飛車は、絵画でいえば宗教や神話の前提知識がないと「あ、だからドクロがここにあるのか」と楽しめないものが多いんですよ。そうなると、作品と鑑賞者の間に入る人が必要なんです。音楽でいえば指揮者や演奏者、絵画でいえば美術史家などですね。それと同じように将棋の世界も成り立っていて、そこに対局者である私が感想を投入することによって、見ている人にとってプラスになればいいかなと思っています。

ミスだけを強調されるとつらいです

――観戦の方法も変わってきました。いまはすべての手を評価値にさらされる時代です。それはどう受け止めていますか。

佐藤 もちろんきつい面はありますよ。ホームランを打たれたときやパットを外した瞬間のように、評価値がガクンと下がると誰の目にもわかる形で自分のミスがさらされるようになりましたから。でも、それはスポーツのプロでは当たり前の話でしょうし、将棋もそういう世界になったというとらえ方はできると思います。ただ、色々な押し引きを見られずに、ミスだけを強調されるとつらいです。

――ミスが出てくるのは相手にいろいろなプレッシャーや罠をかけられているからですし、追う側と追われる側の物語は勝負の醍醐味です。でも、水面下の駆け引きはアマチュアだとなかなかわからないでしょうね。

佐藤 それはほかの分野も同じかもしれないです。パットを打つときにのしかかるプレッシャー、野球も駆け引きを繰り広げたすえに厳しいところを攻めたからこそ打たれてしまった。それはプロに解説してもらって、初めてわかることは多いでしょう。

 将棋ソフトの評価値は、ソフト同士が対戦したときの数値なので、必ずしも人間同士の戦いに即した形ではありません。例えばプラス3000点(ソフトなら絶対に負けない数値)と出て、ソフトにとっては簡単な33手詰めの変化がベースになっているとします。でも人間には難しく、ミスも出やすい。それなら遠回りでも確実にプラス1000点をキープできる手順のほうが人間にとって勝ちやすい、イコール実戦的には正解ということもあります。

――将棋ソフトを使えば簡単に好手・悪手が分かります。これは記者自身にとっても非常に便利なものです。でも、実際に棋士に話を聞いてみないと、なぜその手を指したかはわからないことも多い。これは大昔の将棋を調べるときでも同じで、対局者の肉声が残っていないと、現在の合理性に基づいて好手・悪手を判定し、対局の内容をまとめるしかありません。盤上の真理性を追求するという意味ではそれでもいいかもしれませんが、当時の大局観や「たまたま思いついた」などの偶然や感情など、いわば人間の足跡や匂いを漂白している面もあります。それを回避するには、肉声をどうやって残すかに懸かっている気がしますね。

佐藤 私が棋譜を並べていて、面白いのは生の声が入っている実戦集です。『升田将棋選集』は「この将棋はいただいた」みたいな(笑)、升田先生の感情が入っている。確かにそういうのは残しておかないと、後世に伝わっていかないでしょう。

仮想通貨に投機したらもっと儲けていたのに」といわれても

――記者の立場からいえば、感想戦でソフトの手をどこまで指摘するかはかなり難しいです。記者によってそのスタンスバラバラですし、ケースバイケースでしょう。佐藤九段はソフトの手を示されることについて、どう思っていますか。

佐藤 ソフトの指摘は「そんな手を指せるわけないっしょ~」というときもあれば、「確かにそうか」と腑に落ちるときもある。だから、記者の人はとりあえずいってみるしかないでしょうね。ポイントは対局者の世界観にあるかどうかです。「一局の将棋は人生」といわれますが、二人は指し手や水面下の読みなどで無言のうちにコンセンサスを形成しながら、一局の将棋を進めていく。そして終局してから、感想戦でそれを確認するんです。その二人に共有された世界観・価値観から大きく外れたことをいわれると「は?」ってなります。

――仮にそれが正解でも、戸惑うわけですね。

佐藤 そうですね。負けた側の正解の手が、例えばいきなり全財産の半分を仮想通貨に投機するような、当たり前の選択じゃなかったとします。ソフトによる解のみをもとにして一局を語るのは果たしていいことなのかは疑問です。地道な貯金や長期的な投資で頑張ってきた人が、突然「仮想通貨に投機したらもっと儲けていたのに、なぜあなたはしなかったのか」といわれても、かみ合わないと思うんですよ。突然、ハイリスクハイリターンの瞬間が訪れたといわれても、自分の常識に照らし合わせて99パーセント失敗しそうな方法は見向きもしないのが普通ですから。

勝負を解説する棋士も力量が問われている

――異文化の価値観で論評しても意味がないですし、技術がどれだけ進化しても一局の将棋をどう描くかは難しいです。

佐藤 何を論点とするのかは難しいです。盤上の合理性に基づいて、その将棋を判断するというのはもちろんあり。でも、その二人が指した将棋の魅力という点では、後から見た合理性よりは対局者自身が何を考えていたかが大事だと思います。

 昨年の竜王戦第3局▲羽生善治九段-△豊島将之竜王戦で、評価値は羽生さんがよかったんですけど、最終盤の▲5三銀が致命的な悪手になり、その銀を渡したばかりに最後は自玉が詰まされちゃったんです。ソフトは▲9四角だけが優勢を保つことができる手と示していたんですよ。一瞬は詰めろで、相手が受けてきたら詰めろは続かないけど、今度は受けに回ったら働くという手なんです。長く続いた一分将棋のなか、発見するのは相当に現実的ではありません。ここで「何で▲9四角を打てないんだ」「衰えた」と批判されるのは、プロから見るとありえない感覚に思えます。「そんなこといわれても知らないよ」というラインですよ。

 じゃあ、どう論評されるのがバランスの取れた視点なのか。▲5三銀を指して詰まされたのは良くなかったかもしれないし、それは指摘されたら認めるしかない。ただ、▲9四角を指せたんじゃないかという批判も、一分将棋ということも考えると現実的ではない。そこで純粋な合理性と人間的に指せるかどうかというバランスを考えた解釈として「▲5三銀は確かによくなかったかもしれない、でも▲9四角は指せない、じゃあ▲5三銀以外の手で粘れた可能性はなかったのか」という考えが浮かび上がってくる。これなら事実をもとにしつつも、対局の状況や人間の能力といった現実的なものを加味した論評・批判として、理解はできるとは思います。

 ただ、記者の方々はともかく、それを趣味で見ているファンの方々にも求めるのはハードルが高い。それに評価値が出てきて、「これのみが勝ちで、これが指せなかったから負けた」と解釈してしまうインセンティブをつけられていると思うんですよ。だからこそ、解説する棋士もかなり力量が問われていると思うんです。評価値に現れない勝負の駆け引きは、棋士自身も読まないといけませんから。

写真=松本輝一/文藝春秋

佐藤天彦九段が語る「藤井聡太の絶妙手▲4一銀はなぜ美しいのか」 へ続く

(小島 渉)

佐藤天彦九段と藤井聡太二冠は、2018年の朝日杯将棋オープン準々決勝で初対戦した(結果は先手番だった藤井二冠の勝ち) ©文藝春秋