まず、こちらの写真をご覧いただきたい。

 今にも飛び立ちそうなこのオオスズメバチ驚くことなかれ本物ではなくフィギュア(模型)なのだ。

 このフィギュアを手掛けたのは、今から57年前に大阪・守口で創業したフィギュアメーカーの「海洋堂」だ。
 現在では、海洋堂は広く一般に親しまれているキャラクターのフィギュアを手掛けつつ、先に述べたような、フィギュア愛好家も思わず唸る精巧なオリジナル商品を数多くリリースしている。

 また、幕張メッセで年間2回開催、毎回約5万人が来場する模型・フィギュア好きにはおなじみのイベント「ワンダーフェスティバル(通称:ワンフェス」を主催し続けるイベント会社としての顔も海洋堂は合わせ持っている。

幕張メッセで開催されるワンフェスの様子。(写真提供:海洋堂

 プロ・アマを問わず、自身がクリエイターとなって製作した模型・フィギュアを販売できる世界最大規模のイベントであるワンフェスは「当日版権システム」という独自の権利処理の方法で運営されている。
 つまり、ワンフェスでは規約に則って申請を行えば、一部の例外を除いて当日限定で「版権モノ」の商品を販売できるという、クリエイターにとって夢のようなシステムが採られているのだ。

 なぜ、いち模型メーカーである海洋堂ワンフェスの運営を行うのか?
 後に本記事で語られることだが、そこには御年93歳となる海洋堂創業者 宮脇修氏と、息子であり“センム”の愛称で親しまれる取締役専務 宮脇修一氏が親子二代にわたって模型・フィギュア業界を支え続けてきた歴史が存在する。
 ワンフェスが運営され、当日版権システムが実現していることはその一端に過ぎないのだ。

 6月26日に大阪・門真市にオープンする「海洋堂ホビーランド」は、そんな海洋堂の歴史を「すべて見せる」と銘打たれた集大成とも言える施設だ。施設の館長には先述の海洋堂創業者、宮脇修氏が就任する。

海洋堂ホビーランド(バナーをクリックで公式サイトへ)

 ニコニコニュース編集部では例年ワンフェス会場を中継していることが縁で、当施設のオープン初日に宮脇修一氏の案内で施設をニコニコ生放送で紹介することと相成った。

 さらに今回、海洋堂には生放送に先立ってウェブメディアとしては初となる宮脇修氏と宮脇修一氏、父子両名に話を聞く貴重な場を設けていただいた。

 「どのようにして小さな模型店から、精巧な技術を持つメーカーへと変わったのか?」「なぜ海洋堂が大規模イベントを運営するようになったのか?」「ワンフェスを支える“当日版権システム”が成立している理由は何なのか?」「他の模型メーカーが扱わないようなテーマを扱うのはなぜなのか?」

 両名へのインタビューでは、海洋堂に対して読者の皆様が抱いているであろう多くの疑問をぶつけることができた。しかし、インタビューの過程で明らかになったのはこれらの疑問に対する答えだけではなかった。

 そこには昭和の模型業界という未開拓なジャンルに単身飛び込んだ父親と、その背中を見て育った息子の二代にわたって繰り広げられた物語があった。本記事では、それらも余すことなくお届けしたい。

※本記事はホビーランドオープンに向けて準備をしている4月中に収録したものです。

取材/トロピカルボーイ田畑・腹八分目太郎
撮影/髙畑鍬名


――今日は、海洋堂の歴史をお二人から聞ければと思っています。よろしくお願いします!

センム:
 これまで単独でインタビューを受けることはあっても、こうしてお父ちゃん……館長と僕が一緒に取材でしゃべることってなかったんですわ。これは前代未聞やね。

左から海洋堂取締役専務 宮脇修一氏、創業者(海洋堂ホビーランド館長) 宮脇修氏

――先程、海洋堂の社員の方からも伺いましたが……そうらしいですね。厚かましいお願いだったかもしれません。

センム:
 いやいや! そういう誰も考えへんような意表をついた取材もおもろいんちゃいます? 

■模型屋か、うどん屋か……商売は木刀が倒れた方向で決めた!

――ではさっそく創業の経緯を教えていただけますでしょうか? 海洋堂は、宮脇修一センムのお父様である宮脇修館長が創業されたと聞いていますが。

センム:
 うちのお父ちゃんは僕が小学校に入学するときまでに正業に就いてなかったんですわ。

――つまり……職探しをしていたということでしょうか?

センム:
 いえ、普通の仕事をしてへんかったということです。貸本屋をやりながら、3ヶ月ほどふらっと放浪して小説を書いて帰ってくるというような生活を、僕が幼稚園の頃まで続けてたんです。
 僕が小学校に入るときにやっと、「ほな、何か仕事始めよか」ということで、うどん屋か模型屋のどちらかをするつもりで、木刀を倒して決定したというわけです。

――ぼ、木刀!?

館長:
 おーい! あの木刀あるか?

(スタッフが木刀を持ってくる)

――結構、本格的な木刀を使ったんですね。

館長:
 芝居がかっとることなんですがね。これを玄関に吊るして、床に「東西南北」をそれぞれ書いた紙を置いてやね……木刀を吊るしとる糸を切ったら、「東西」やったらうどん屋、「南北」やったら模型屋、どちらの方向に落ちるかというので天に任せたんです。息子が1年生になっとるのに、親が何もしてへんかったらかっこ悪いやないですか。

センム:
 ひょっとしたら今頃、海洋堂はうどんチェーンになっとったかもしれません。このときまでにお父ちゃんはもう三十回以上も職業を変えとります。おかしいでしょう(笑)?

――三十回以上ですか……今でこそ、いろいろな父親のあり方が認められるようになってきていると思いますが、昭和のその時代では「父親が正業に就いていないと恥ずかしい」といった感覚は強かったのだろうと思います。

館長:
 まぁ、何ちゅうことはないんですが、やっぱり一人の親としての商売を、とね。ちっさい一坪半のプラモデル屋をやっとる中で、やはりやる限りは日本一になろう! と、その頃から思っとりました。

 息子もプラモデル屋やったら嬉しかったかというと、ほとんどそんなこともなしに、家族全員もう必死です。ちっさい店やから毎日仕入れに行かなあかんかった。京阪電車乗って、バス乗って松屋町の問屋まで行くんですな。プラモデルはかさばるから大変なんです。資金もないから、仕入れはいつも昨日の売上を持って行っとりました。

 せやから、「お前さん何買うねん?」とお店の子どもたちに何が売れるかは教えてもらっとりました。それを頭に入れて問屋に行くわけです。

――その頃は、売る側と買う側の距離が近かったのかも知れませんね。

■子どもたちの心を掴んだ採算度外視の販売方法とは?

――海洋堂を創業したときにセンムは子供時代だと思いますが、その頃まさに日本にプラモデルという娯楽が根付き始めた時代だったということなのでしょうか?

センム:
 たしかに当時、昭和40年頃のプラモデルいうのは、日本で流行りだした頃で“アメリカから来た最先端のおもちゃ”やったんですね。

館長:
 そもそも、僕らの家は長屋の一階からはじまって、それを二階にして一階の3分の2を掘って……。

創業当時の海洋堂店舗(写真提供:海洋堂

――え? ……掘るというのはどういうことですか?

館長:
 一階に模型用のプールをこしらえたんです。そこで潜水艦やら戦艦を浮かべる。冬は、そのプールの上にコンパネ貼ってセメントの山やら谷を載っけて、そこにスイッチにつないだ100発くらいの爆竹を入れて砂をかけておくんです。

店舗内の水槽で遊ぶ子どもたち(写真提供:海洋堂

センム:
 スイッチ入れたらボーン、ボーンとね(笑)! もう、店の中は砂だらけになるんですが、すごい迫力なんですよ。

――室内で爆竹ですか!?

センム:
 最初は一坪半のお店だったのが、戦艦を浮かべるプール作ったり、爆竹仕込んだ戦車のジオラマ作ったり、完成したプラモデルを飾る場所を作ったり……それからスロットカーのレーシング場を作ったりしてましたわ。
 それこそ毎月のように、家の中の様子が変わっていくわけ(笑)。僕が小学校2年生になったころには、10坪ぐらいの広さになって、うちの3分の2ぐらいがお店になってしもてました。

――当時のプラモデル屋さんでお店のなかにそんな面白そうなものが揃っていれば、子供心に嬉しかったんじゃないですか?

センム:
 ええ、息子の特権をフルに使って遊び場にしとりました。夜になってお店が閉まったら、潜水艦やらのプラモデルと一緒になってプールで泳いだりとか、好きなだけ戦車を走らしたりとか、最高の環境でプラモデルを楽しめる子供やったわけですよ。

――小学校のお友達も、「学校終わったらセンムんち行こうぜ!」みたいな感じだったのですか?

センム:
 まさにそうです。過去に海洋堂とコラボしたことのある、現代アーティストの村上隆さんが宮脇家を「オタクのハプスブルク【※】」と言うたそうですが、子供の頃の僕はジャイアンスネ夫が一緒になったような小学生でした。

ハプスブルク
十五世紀から第一次大戦後にかけて数世紀にわたり広大な領土と多様な民族を統治したヨーロッパの名門家。築いた財産と政界のつながりを生かして、質量ともに世界有数の芸術分野のコレクションを後世に残した。

――それは、想像しうる最高のガキ大将ですね(笑)。

センム:
 その頃、海洋堂ではお店でプラモデルを売るだけやなくて、子どもら集めてタミヤ工場見学バスツアーをやったりしとりました。こういうことをしたのも海洋堂が日本で初めてちゃうかな。

――もしかして、そのバスツアーって海洋堂さんの持ち出しで子どもたちを連れて行ってたのでしょうか?

センム:
 たしか……あれ、お金取ってへんよな?

館長:
 うん、取ってへん(笑)。

――では、完全にボランティアで子どもたちを連れて行っていたのですね。

館長:
 タミヤは子どもらにどんな土産を渡したんやった? どうせろくな土産くれへんねんけどな(笑)。

センム:
 「新製品のプラモくれるかな」ってみんなわくわくしてたら、くれたのが在庫になった売れ残りの、きったないプラモやって……。子供心に「何や、こんなんしかくれへんのか、ケチやなぁ」と思っとりました。これは別に書いてもろてもええけど(笑)。

――その感想は、あくまでもセンムが子供の頃に思ったこと、ということですよね(汗)。 

館長:
 そうして店を始めてから、3年目にしてようやく海洋堂という小さい模型屋が日本中の皆さんから知られるようになったんです。その頃3年間連続で、日本一タミヤの戦車を売ったんです。

センム:
 日本中に海洋堂の名前が広がってました。全国の模型屋さんが、お店の経営について話を聞きに来たりとかね。

――先程、子どもたちのリクエストに細かく応えて問屋から仕入れていたとお伺いしましたが、そういった丁寧な仕入れをすることでお店の売上は伸びていったということでしょうか?

館長:
 ええ、そうして絶えず売上げを拡大しとりました。商いというのは、ほんまはお金もうけが大事なんですけど……店にお金がちょっと貯まったら、先程言ったようにすぐに店を改装しとりました。

――普通は、お金は内部留保という形で残しておいて、売上の不振に耐えられるようにするのかと思うのですが……。

館長:
 いいや、改装する。

センム:
 そう、改装ですわ。

館長:
 お金がないときでも、先にお金を借りることができたら改装しとりました。

――単に、商品を売るだけではなく、子どもたちが海洋堂のファンになるような仕掛けがうまく作用したのかもしれませんね。

■良いニッパーがないなら作ってしまえ! 模型メーカーに先駆けたオリジナル工具の発売

――創業当初から常に右肩上がりで子どもたちに支持されていったということでしょうか?

館長:
 ところが、学習塾が流行りだした時分から母親は子どもらをみんなそこへやるわけです。海洋堂は学習塾の対極のようなものですから、母親たちは「模型屋へは行ったらいかん!」というわけですね。
 ぼくらは公民館で子どもらを相手に、模型の作り方を教えたりしとりましたからそんな母親たちとけんかするわけです(笑)。

海洋堂は、しばしば子どもたちを相手に模型教室を開いていた。(写真提供:海洋堂

 プラモデル屋は子ども相手の商売ですから、子どもらが離れていったらもうお手上げです。
 ところが、子どもにプラモデルが売れなくなっていく一方で高度成長とともに、大きな模型を大人が買うようになっていっとることに気がついたんです。

――たしかに、高度経済成長は「余暇の時代だ」なんて言われていたようですし、大人が高価なプラモデルを買うようになっても不思議ではないですね。

館長:
 けれども、そういう変化を他の模型屋さんにどれだけ言っても誰も何もせえへんかった。「変化に対応せんと模型屋は商売にならんぞ!」と言うてもね。
 大人相手なら金はいくらでも出てくるから、いいものさえ作ったら金になるんちゃうかと。そやから、海洋堂は帆船模型に手を入れて、完成品を売るという商いをはじめたんです。

センム:
 アメリカのレベル社という模型メーカーが9800円で売っていた帆船模型を完成させて僕らは売りよったんですよ。

館長: 
 普段は本社に置いておるものですが……これが海洋堂が当時作っておった帆船模型の完成品「修羅」です。

市の展覧会でアート作品として入選した、帆船模型「修羅」。宮脇館長が自ら赤銅色で彩色しブロンズのような質感で表現されている。(写真提供:海洋堂

――すごい……! プラモデルの完成品販売も知られるようになって来ていますがその頃から海洋堂は完成品販売に手を広げていたのですね。

館長:
 そうです。ところが、売り物になるような帆船模型を作るには、その時分には、良いニッパーがひとつもない! 帆船には、滑車やらマストやら細かい部品がいーっぱいあるのに、切ったり削ったりするのに良い工具がないんですわ。

 当時はニッパーだけでなくて、穴あけ用のピンバイスやらもなかったから歯医者さんの商売道具を使ったり、釣り道具を使ったりしておりました。せやから海洋堂で帆船模型用の道具を作ったんです。

海洋堂が開発した帆船模型用の工具(写真提供:海洋堂

――帆船模型の組み立てには高度な技術が必要と聞いていますが……。たしかに、帆船模型のキットを買ったとしても道具がダメでは作りようがないですものね。

センム:
 当時は、まだプラモデル専用の工具もない時代でしたからね。

館長:
 良い工具を作るなんて、ほんまはメーカーがやらないかん仕事なんやけどね。「余計なことせんと模型の品物売ったらええから」という発想やね。ところが海洋堂の取り組みを見てか、しまいには他の模型メーカーもニッパーやら何やらまねして売り出しよった(笑)。
 その点、われわれは自分で作ってるからこそ、どんな道具が必要かがよーくわかっとりますから。

■プラモデルキットの完成品を高額販売! ビジネスの転換

――完成品販売は始めからビジネスとして軌道に乗ったのでしょうか?

館長:
 始めはそれほどお金も取れへんわけです……まあ、売値が20万円やったかな?

センム:
 そんなぐらいやったね。

――売値が20万円でも元の値段を知っていると十分高価格な気はしますが……そこから値段を上げる工夫をされたということでしょうか?

館長:
 帆船は絵画と一緒で、絵画にとっての額が帆船を載せる台なんですわ。絵もいい額作ってそこに入れると価値が違ってくるでしょう。そういうわけで、帆船の台には世界地図とかをあしらった銅板をこしらえて貼り付けるやら、色々工夫しとりました。すると、だんだん売れてくる。

――なるほど、そうして少しでも高級感を出そうと。

館長:
 初め10~20万円で売っとったものが、最後はもう80万円ぐらいの値段がつきよったんです!

――ええっ! 元が1万円くらいのキットが80倍の値段になったんですか? もはや、プラモデルというより芸術品の趣がありますね。

館長:
 完成品販売は、「プラモデルのアート化」として“アートプラ”というスローガンでやっておったんです。

――アート化……?

センム:
 父は物書きをしておったんで、いっつもスローガンやら旗印を立てるのが好きやったので当時そのようなことを言うておったわけです。1970年かな? 最初に海洋堂が取った商標登録が「アートプラ」という言葉です。
 先程ご紹介した帆船模型の「修羅」もそのスローガンの一環として市の展覧会に出品したものでした。

 プラモデルって、塗る色が指定されてるのがほとんどでしょう? たとえばゼロ戦の羽根は緑で車輪は黒でとか……。でも、アートプラでは塗る色は自由です。
 プラモデル塗り絵じゃないということです。館長はよう言うてました「ゼロ戦は赤く塗れ!」って(笑)。

――たしかにアートなら作り方は自由、だとすればゼロ戦が赤色でもいいですもんね。

センム:
 「修羅」のように帆船をブロンズ風に塗ってもええんです。あるときは中国の青銅風に仕上げてみたり。土のイメージを出すなら焼き物風にしてみたり、陶器風にしてみたり。表現者として普通のプラモをアートにする“アートプラ”が造形物に対する海洋堂のスタイルだったわけなんですね。

館長:
 プラモデルのアート化、「アートプラ」という考え方は、色のことだけやないんです。
 模型が売れんようになっていくなかで、僕が模型メーカーの今井科学さんと協力して作った「ローマの軍船」いう帆船模型のシリーズやったら、帆柱やらの縮尺の正確さは全部排除した。プラモデルで当たり前やった精密さよりも、見たときの驚きをどちらかというと大事にしたんです。

海洋堂が今井科学と協力して開発した「ローマの軍船」(写真提供:海洋堂

――杓子定規な精密さよりも、作るときの喜びや見たときの驚きを優先したというわけですね。以前、海洋堂芸術家岡本太郎さんの作品をフィギュア化した際に、センムが似たようなことをおっしゃっていたと記憶しています。

岡本太郎アートピース集(写真提供:海洋堂

センム:
 はい、そうです。縮尺にとらわれないようにして、見たときのイメージや手に持ったときの手触りを優先するということはあります。

――そういったセンムのこだわりは、館長の背中を見て学ばれたことなのでしょうか?

センム:
 そういうことですね。リアルなディフォルメはいかにらしく作るかですから。たとえば、帆船模型なら、本来マストは縮小したら、すごく細くなります。けれど、そこの太さだけは何倍も大きくしてメリハリをつける。そんな絵画的な表現の要素を立体として表した模型がアートプラと言えるでしょうね。
 本来、絵だって宮崎駿が描く帆船と、手塚治虫が描く帆船ではもちろん違うでしょう。絵描きによってテーマは同じでも、絵はみんな違うわけです。

 「ローマの軍船」をプロデュースするときに毎日のように今井科学さんの技術部長なり営業部長がうちに来てました。館長が図面じゃなくって「こうやるべきだ」という指示を出して、それを反映させた商品というのが、今井科学が帆船模型をリリースするときのテーマやったわけなんです。
 そのあと、「ローマの軍船」で上手くいって「カタロニア船」、「ケベック船」とまでうまくいってたんやけど、今井科学さんからしたら、「海洋堂みたいな模型屋ごときにメーカーの企画をやられたくない」と考えてたみたいで、挑発されてもうて……僕らけんかっ早いんですぐけんかしてやめてしまいました(笑)。

一同:
 (笑)

館長: 
 あの頃は、模型業界を何とかせな! という思いで、とにかく新しいことを仕掛けました。
 僕ら海洋堂がアートプラいうて帆船模型をたくさん仕入れて売るもんやから、レベル社の社長が不思議がって日本に来られたんですよ。

センム:
 普通はそんな9800円もする帆船模型なんて1年に1隻売れたらええほうなんです。ずーっと棚の肥やしになるはずの商品が、海洋堂では完成品にして売るために、100でも200でも仕入れてましたからね。まぁ、おかしいわけですよ。「何で100個単位でこの店では売れてるんだ?」とね。

――アメリカからわざわざ視察に来ていただけたとあっては、海洋堂の代表として鼻高々だったのではないですか?

館長:
 鼻高々というより……やっぱり来ていただいたことがありがたかったね。
 その時分は、レベルの社長がまだ40代の若さで、彼は全面的に自社のプラモデル作りに関わっとった。もし彼が今まで生きとったら……プラモデルの人気はここまで落ちなかったと思う。

センム:
 レベルの社長はこれからというときに、1971年に早くして亡くなられました。それが、アメリカのプラモの衰退のひとつの要因やと思います。レベルの社長は帆船であろうが戦車であろうが飛行機であろうが博物館にあるようなものをどんどんプラモにしていく勢いがあったんですが、影響力のある社長が亡くなることで終わってしまったんですね……。