トランプ政権が強力に推し進めたデジタル分野の対中規制を、バイデン政権も基本的に引き継いでいる。さらに「人権」の分野でも両国の対立は激化。経済分野への影響は今後ますます大きくなりそうだ
トランプ政権が強力に推し進めたデジタル分野の対中規制を、バイデン政権も基本的に引き継いでいる。さらに「人権」の分野でも両国の対立は激化。経済分野への影響は今後ますます大きくなりそうだ

防衛産業を除く企業や研究機関は国家の「安全保障」に関わらない――。日本ではこれまで、そんなすみ分けが当たり前だった。しかし、猛スピードで進むテクノロジーの革新、そして米中対立の荒波の前に、「経済」と「安全保障」の垣根は吹き飛ばされつつある。今や多くの国際ニュースに関係する新たなホットワードの基礎知識!

■日本は政府も民間もゆるゆるのガード

最近、テレビや新聞などで「経済安全保障」(以下、経済安保)という言葉をよく見かけるようになった。

この言葉を検索してみると、NHKが昨秋、ウェブに特集記事をアップしており、今年に入ってからは複数の月刊誌もこのテーマで巻頭特集を組んでいる。また政府の動きも活発で、昨年4月に"経済安保の司令塔"として国家安全保障局内に「経済班」を新設。

今年2月には公安調査庁が専門のプロジェクトチームを発足させ、さらに民間企業に対しても「経済安保担当役員」の設置を要請する見通しだと報じられている。

これまで、基本的には別分野だと認識されていた「経済=ビジネスやカネの話」と「安全保障=軍事中心の国家防衛の話」をドッキングさせた経済安保というホットワード。"軍事なき戦争"と表現されることもあるが、いったい何を意味するのか?

その背景には、デジタル技術の急速な発達、そしてアメリカと中国の深刻な対立がある。『「米中経済戦争」の内実を読み解く』(PHP新書)の著者で、現代中国研究家の津上俊哉氏が解説する。

「他国から国民の個人情報を抜き取られたり、研究機関や企業の機密情報を盗まれたりすることを阻止するために、各国が体制整備を進めている。これが『経済安保』という概念の中心です。

かつては軍事スパイや産業スパイの主体は人間(諜報[ちょうほう]員など)でしたが、デジタル機器や通信環境の飛躍的な発達でその方法は一変。AIやスーパーコンピューターを使って大規模かつ瞬時に、標的の機密情報へアクセスし、抜き取ることができるようになりました。

近年、アメリカは中国がそうした活動を官民で行なっていると指摘し、さまざまな制裁を科しています。この米中対立が一気に激しくなったのは2018年頃ですが、その後も関係は年々悪化。その過程で、経済安保の必要性が各国で叫ばれるようになったと理解しています」

18年といえば、米当局の要請を受けて中国通信機器大手ファーウェイCFO(最高財務責任者)がカナダで拘束された年だが、その前年にアメリカが本気になる"引き金"があったという。元経済産業省中部経済産業局長で、明星大学教授の細川昌彦氏がこう語る。

「中国では17年に『国家情報法』が施行され、いかなる個人も組織も、国の情報活動に協力することが義務づけられました。アプリや通信事業、eコマースなどを介して中国企業に集まる情報が中国政府に渡り、統治に利用されることへの懸念が各国で高まることになったのです」

しかし、軍事情報などの"いわゆる国家機密"はともかくとして、アプリなどから取れる個人情報はどう使われるのか? 詐欺師の手に渡るのがまずいことは誰でもわかるが、それが国家の手に渡った場合の"活用方法"は?

国家安全保障局次長の兼原信克氏はこう語る。

「例えば、ある個人が誰と、いつ、どこで会合したか。宿泊したホテルや移動に使った交通機関、そのときの電話通信の音声記録......。膨大な量のデータの中から、こういった情報を人間が仕分けようとすれば100年かかりますが、スパコンを使ってAIにかければ、瞬時に高度なインテリジェンス情報に加工されます。これが現代のサイバーインテリジェンスです」

前出の細川氏もこう補足する。

「アメリカが自国民の個人情報を本気で守るのは、それがどういう使われ方をされかねないかよく知っているからです。なぜなら、自国にも諜報機関があるから。

例えば、相手国の個人の弱みを握り、協力させ、情報を提供させる――そういったことは諜報の世界では日常茶飯事です。日本人はそういう世界を知らず、無防備、無関心ですが、個人情報が他国に渡ることについてもう少し身構える必要があります」

では、それに対するアメリカの"守備"はどうなっているのか?

アマゾンやアップルといった先端企業は、それぞれが顧客情報を守る強力なセキュリティシステムを構築しています。しかし、それでもサイバー攻撃などで突破されるリスクは残るため、米政府は通信産業や防衛産業などの企業も含めた国家機密に関わるデータを格納するクラウドを構築し、"デジタル要塞"を構えています。

このデータにアクセスできるのは、麻薬や酒に依存した過去がないか、交友関係に問題がないか......などの審査をクリアした限られた人材のみ。その上、もし何者かにデータを抜き取られても、ハイレベルな暗号がかかっており簡単には解読できません」(前出・兼原氏)

一方、日本の防御体制は?

「政府は今、社会保障など国民サービスのデジタル統合に取り組んでいますが、国家としてデータを守る"デジタル防衛"の体制はまったくできていません。自衛隊外務省、警察、財務省の税関、経産省の貿易管理部局など、機密を扱う組織が縦割りで、機密情報や個人情報も各担当職員のパソコンに入っているレベル。

民間が保有する個人情報の管理も企業任せで、誰がどんなデータを持っているか、どのデータが盗まれたら危ないのか、という仕分けすらできていないのが実情です。

今年3月、韓国のサーバーに置かれていた日本のLINE利用者の個人情報が、中国で閲覧可能な状態にあることが判明しました。国民の膨大な個人情報を保管するサーバーを他国に置くなんて、セキュリティ上ありえない話。これは一企業の問題ではなく、国家の経済安保意識の低さが招いた問題ととらえるべきでしょう」(兼原氏)

■楽天・テンセント「提携」の問題点

前出の細川氏は、日本における「経済安保」の問題例として、今年3月に楽天が中国IT大手テンセント子会社から約657億円の出資を受け入れたケースを挙げる。

テンセントは、米政府が大統領令で使用禁止の対象としたアプリ『ウィーチャット』を運営する企業。そして楽天は、eコマースなどで日本人の大量の個人情報を取り扱い、さらに携帯電話の通信事業も行なっている企業です。安全保障上、両社の組み合わせは相当にリスキーだというしかありません。

にもかかわらず、楽天の三木谷浩史会長は『eコマースなどの業務提携を進めていく』と記者会見で説明した。日本のITインフラの一角を担う企業でさえ、経済安保上のリスクには無頓着であったことを露呈しました」

さらに、この出資案件では日本の法規制の甘さも浮き彫りになったという。

「すでに中国企業からの投資に対する規制を大幅に強化していた欧米諸国と比べて出遅れていた日本も、19年11月に外為法を改正。通信事業など安保上重要な業種に関わる『株式総数の1%以上の取得』を伴う投資案件については、事前届け出による審査が義務づけられたはずでした。

ところが、この改正法の施行前に、多くの外資系金融会社などが『過剰規制だ!』と騒ぎ立てたことを受け、財務省は省令で『一定条件を満たせば事前届け出は免除』という抜け道をつくってしまった。これにより、テンセントの出資も事前届け出が免除されたのです」(細川氏)

しかし今後、楽天にはアメリカからの厳しい目が向けられることになるという。

「楽天はアメリカでも5G通信事業などのビジネスを行なっており、対米外国投資委員会(CFIUS[シフィウス])による規制の対象企業です。CFIUSはCIA(米中央情報局)などの諜報機関と連携して調査を行ない、もしセキュリティ上の問題が発覚すれば、いつでも出資契約を無効にできる権限を有する。

18年には、日本の建材メーカーLIXILが、イタリア子会社を中国企業に売却する契約を解除させられたケースがありましたが、米国内で5G事業に携わる楽天、そして相手がテンセントとなれば、CFIUSはより厳しい目を光らせるはずです」(細川氏)

■米当局の規制が日本企業を直撃

LINEや楽天のケースは日本の個人情報に直接関わる問題だが、米中の対立に伴う「経済安保」の影響はさらに広範囲に広がっている。

前出の津上氏はこう語る。

「トランプ前大統領は昨年、ファーウェイとの取引を売買両面でボイコットする制裁を発動しました。米企業のみならず海外企業でも、アメリカの技術や設計を使って製造された半導体をファーウェイに売るな!と、強烈な『域外適用』の仕組みを使って他国を従わせる手に出たのです。日本ではソニーやキオクシアもこのルールに従わざるをえなくなり、大幅な減収を強いられました。

また、ハイテク製品の禁輸措置に違反して数億~数十億円の制裁金を科されることを恐れて、日本企業の間にはファーウェイのみならず中国企業全般との取引を自粛する動きが広がっています。

例えば、多くの企業は半導体の製造委託先も中国から台湾に切り替えました。最近、車載半導体の調達難で自動車メーカーが減産を余儀なくされていますが、米中対立もその一因になったわけです」

そして、今年1月に発足した米バイデン政権は、トランプ政権時代の中国ハイテク企業との対立構図を引き継ぐとともに、「人権問題」というもうひとつの対立軸を前面に押し出し始めた。

その影響をもろに受けたのがユニクロだ。ユニクロの綿製シャツのサプライチェーンが、新疆(しんきょう)ウイグル自治区の強制労働をめぐる米国の輸入禁止措置に違反している疑いがあるとして、今年1月、米税関当局が輸入を差し止めていたことが発覚した。

こうしたケースは今後、さらに増える恐れもあるという。津上氏はこう語る。

「米議会で現在審議中の新たな法案では、新疆産の全製品が原則輸入禁止になります。さらに自治区外の工場で製造された製品も、その工場でウイグル人が働かされていたら輸入禁止の対象にすべきだという声もあり、より厳しい内容になっています。こういう規制が広がれば、日本を含む外国企業は中国現地工場の従業員問題に起因する大きなリスクを抱え込むことになります。

また、こうした『人権問題』で製品の調達にリスクを抱えるのは困る一方、それを理由に中国工場との取引を停止すれば、中国国民から反感を買って不買運動に直面する恐れもある。そうなると進退窮まる問題になります」

地理的に中国と近いこともあり、サプライチェーンの中国依存度が高い日本にとっては、これも新たな"経済安保上のチャイナリスク"というべきだろう。

「経済安保に無自覚ではいけませんが、対中ビジネスで日本企業が必要以上のハンデキャップを背負わされるのは問題です。特に、ハイテク製品に関する米国法の域外適用は日本企業にとって極めて不利。政府は『日本企業については、米国同様の規制を日本政府が責任を持って守らせるから域外適用は控えてほしい』と求めるべきです」(津上氏)

前出の細川氏も次のように提言する。

「安全保障分野の問題にしろ、人権問題にしろ、企業がいくら調べてもわからない部分はある。しかも日本のような政治力のない国は、アメリカと中国の挟み撃ちに遭うのが宿命です。そのなかで企業がどう生き延びていくかという仕組みを作ることこそが政府の仕事。今回のケースはユニクロだけの問題だけではないのです」

政府や企業のセキュリティ体制と法制度の構築、そして米中対立における柔軟な立ち回り。日本の「経済安保」は、やっとスタートラインに立ったところなのかもしれない。

取材・文/興山英雄 写真/時事通信社

トランプ政権が強力に推し進めたデジタル分野の対中規制を、バイデン政権も基本的に引き継いでいる。さらに「人権」の分野でも両国の対立は激化。経済分野への影響は今後ますます大きくなりそうだ