1945年7月26日、米国のトルーマン大統領、英国のチャーチル首相、中華民国蒋介石主席の連名でポツダム宣言が発表された。これに対し、鈴木貫太郎首相は同28日、記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼き直しと思う。政府としては重大な価値あるものとは認めず『黙殺』し断固戦争完遂に邁進する」(毎日新聞より)とのコメントを発表した。

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 その後、8月6日に一発目の原爆が投下され、9日未明にはソ連が対日参戦し、午前11時には2発目の原爆が投下された。そして、8月14日に受諾証書の発布となり、玉音放送が翌15日の正午から行われた。

 ポツダム宣言発表から広島への原爆投下までわずか11日間、日本はこれを回避することはできなかったのだろうか。少なくとも、長崎への2発目を回避できなかったのか。また、米国は対日戦を終わらせるためとはいえ、日本に原爆を投下する必要はあったのだろうか。

「黙殺」を誤訳という考え方は間違い

 誰の目にも明らかなのは、日本が「黙殺」などと言わずに7月中にポツダム宣言を受諾していれば、原爆が投下されなかったということだ。日本国内には、連合国側の通訳が「黙殺」をignoreではなくrejectと誤訳したことで、「強い拒否」という語感になったというが、それは間違いだろう。なぜなら、「黙殺」の後に「断固戦争完遂に邁進する」と続けているからである。

 また、鈴木貫太郎首相は海外経験(ドイツ駐在武官)があるうえ、東郷茂徳外相など英語を操れる閣僚もいたことから考えて、日本語を訳す際の誤りを避けるような文章で記者会見のコメントを準備できたはずだ。このため、発表文の中に敢えて「黙殺」という熟語を使った理由は、宣言を拒絶することをクリアにするためだったと考えた方が自然な気がする。

 米海軍の記録では、8月12日に沖縄の南東で帝国海軍潜水艦が米艦船を攻撃している。少なくともこの日までは帝国海軍は対米戦闘を止めていなかった。それゆえに米国からすれば、降伏の条件として「天皇の尊厳保持」と「国体の護持」を連合国に認めさせるかどうかという交渉に注力していたというのも事実としては正しくない。

 もちろん、既に帝国海軍の指揮命令系統が壊れていた、または海軍が鈴木内閣の動きを無視していたというのなら別だが、それもあり得なかっただろう。

原爆を投下せずとも日本は降伏していた?

 一方、米国内にも原爆という非人道的な兵器を使う必要はなかったとする論考は少なくない。

 これについては、最も有名なのがルーズベルト大統領の前の第31代大統領のハーバート・C・フーバーが『Freedom Betrayed』(全1000ページ)の中で、ニミッツ大将(太平洋艦隊司令長官)やル・メイ大将(東京大空襲等を実行した人)が、日本の降伏に対して原爆投下が決定的な意味を持ったとは思わないと発言したことを記している点だろう。

 トルーマン大統領が主張した「原爆投下が日本本土での決戦による米兵の死傷者を減らすためだった」というのは、米軍関係者の声を拾うと必ずしも正しくはなかったという意味だ。

 また、東京など日本本土への本格的な空襲を始める前の1945年2月には、マッカーサー元帥がルーズベルト大統領に対して、「(最早勝利の見込みのない)日本に降伏を促す際、天皇制を維持すること、ソ連に対する譲歩を求めないこと」という提言を送っている。フーバー大統領もこれを著書に書き込んでいる。

 トルーマン大統領は、ルーズベルト大統領が4選目に初めて副大統領となった人材で、彼の死までにほとんど一緒に行動していなかったとのことだが、もしこの手紙の内容がトルーマンに伝わっていたならば、日本はポツダム宣言の中に「天皇の尊厳保持」が含まれて、日本は(「国体の護持」にこだわったという当時の記録が事実ならば)ただちに受諾しただろうから、原爆投下を避けられたのではないかという気がする。

 もちろん、帝国陸軍本土決戦を考えていた以上、原爆およびソ連の参戦という決定的な一撃を食らわなければポツダム宣言を受諾しなかったという想定も十分成り立つ。

和平交渉の仲介を受け入れなかったソ連

 1945年5月7日ドイツが降伏したことで、日本が真剣に和平交渉を開始したのは事実だ。5月11日には最高戦争指導会議を設置し、近衛文麿元首相をソ連への特使としてモスクワに派遣しようとした記録もある。しかし、ソ連は特使を受け入れることなく、日本からの和平工作にはのらりくらり戦法で2カ月間も放置した。

 この段階で、日本が講和の仲介者として期待できる国は、ソ連、スウェーデンスイスの3カ国であった。

 ソ連に対しては、日本は7月13日にも近衛特使のモスクワ派遣をソ連に打診しているが、同18日には再び断りを受けた。これに対して、7月21日に東京の外務省から駐モスクワ日本大使に和平の仲介を頼むよう指示が出るが、それがソ連政府に届いたのは同25日。ソ連は、その返事をしないままにヤルタ密約に基づいて対日参戦した。

 終戦直前の話として、しばしば「日本によるソ連を仲介者としての和平交渉」という話が上がる。もっとも、日本が真剣に考えていたとしても、ソ連は全く受け入れていない、これを「講和への努力」と表現するのは、後から誰かが当時の日本の行動を正当化するために脚色したものではないだろうか、という気がしてならない。

 日本は1945年2月、「ソ連はドイツ降伏から3カ月の準備期間をおいて対日参戦する」というヤルタ密約の内容を入手し、ただちに日本の外務省に打電しているからだ。しかも、満州国の関東軍は、その後に160万のソ連兵がシベリア鉄道で極東に移動し、満州国との国境沿いに集結していったことを察知していた。そのため、ヤルタ密約の情報を頭から否定することは難しかっただろう。

 従って、ポツダム宣言発表後に、東郷外相が「ソ連の(和平への仲介の依頼に対する)結果を待つ」と言ったという話も真偽のほど(および彼の真意)は疑わしいと筆者は思う。

 次にスウェーデンだが、1945年3月に駐ストックホルム日本大使が重光葵外相から平和の仲介をスウェーデンに頼むよう指示を受けている。大使はその指示に従って動いたが、スウェーデン王室からの返事を貰わないまま8月15日を迎えた。

 その間、同大使館付武官が個人的に国王グスタフ5世の甥であるプリンス・カールなどに和平の仲介を依頼したのも事実だが、この時もスウェーデン側は反応しなかった。従って、スウェーデン仲介説というのも、現実にはほとんど有効ではなかったと見るべきだろう。

 最後に、スイス仲介説だが、これについては、筆者はほとんど資料に触れることができていない。また、筆者の知るスイス人およびスイス政府の人達の性格からすると、彼らは日本の講和仲介の依頼を受けるようなことはなかったのではないだろうか。それは、永世中立の維持に対して大きなリスクとなるからである。

 なお、日本の外務省と駐モスクワ日本大使館の電文内容は、暗号の解読によりすべて米国に筒抜けだった。米国は日本の和平に努力していた事実を知っていたのは確かである。

ソ連参戦と同時に降伏という選択

 広島への原爆投下は、ヤルタ密約にあるソ連が参戦する可能性がある1日目(ドイツ降伏からちょうど3カ月目)であった。しかし、ここで重要なことは、日本は一発目の原爆を投下されてもポツダム宣言受諾をしなかったことである。

 既にボロボロになっていた日本は原爆など落とさなくとも降伏した、という主張は誤りであり、一発目を受けてもなお戦うつもりがあったと考えるべきだろう。

 今では、日本(最高戦争指導会議)は「国体の護持」だけを条件としたとしているが、そこに「天皇の尊厳保持」という条件もあったことは間違いない。これも、後になって「国体の護持」という表現に一本化して日本の国体全体を守ろうとしたという脚色をしたものだと感じる。外務省スウェーデン大使館に8月15日に打電した講和のための条件には、「天皇の尊厳保持」と「国体の護持」の2つが入っていたからだ。

 ここで、筆者は鈴木貫太郎首相を議長とする戦争最高指導会議が天皇制の維持にこだわったということを批判するつもりはない。天皇制が維持されたことによって今の日本があるからだ。ただ、日本は天皇親政の国だったということを示すためにも、事実として「天皇の尊厳保持」という条件も求めていたことを明示すべきだと思う。

 では、8月9日未明のソ連参戦は日本にどのように影響したか。戦後、マッカーサーに会った昭和天皇が日本を赤軍から守って欲しいと頼んでいる事実からしても、敗戦やむなしとなった日本が最も恐れていたことは共産化であったことはほぼ間違いない。

 しかも、既に主力を南方に送ってしまった関東軍にソ連軍を食い止める力はなく、万一の場合、北から上陸するソ連軍と太平洋側から上陸する米英軍の同時本土侵攻があれば、日本の運命がドイツのように分割されたのも事実だろう。それは何としても避けたかった状況だ。ソ連参戦は日本の降伏を決定づけたと言える。

 従って、日本はソ連参戦直後にポツダム宣言受諾の連絡をしてさえいれば、長崎への原爆投下を間一髪のところで回避できたかもしれない。かなり神業に近いものだったことになるが、このB29は小倉への投下予定を天候の理由で長崎に急遽変更したことまで考えると、投下回避の可能性もあったと言えるのではないだろうか。

 殊更さように、終戦直前の日本の歴史はもっと史実を調べて研究すべきである。

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原爆投下後の広島(写真:Rapho/AFLO)