「夏を制する者が受験を制する」――受験生にとって「天王山」とも言われる夏休みがやってきた。今年から新たに導入された「大学入学共通テスト」の出題傾向について、強い関心を持っている高校生は多いことだろう。なかでも注目されるのは、「国語」における「文学」の扱いだ。

 国語教科書の執筆に携わり、2022年度から実施される新指導要領にも精通する伊藤氏貴・明治大学教授が、大学入試をめぐる「国語改革」について最新情報をレポートする。

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国語改革における「実用文」の導入

 戦後最大の「国語」改革が今まさに進行中である。大学入試と高校の授業で、私たちがイメージする「国語」の概念を根本から揺るがすほどの変化が訪れているのだ。

 今春、センター試験に代わり新たに共通テストが行われたが、それに先立って示された試行テストは2つの点で驚くべきものだった。

 1つは記述式設問である。理念自体は悪くないが、各人の考えを書かせる問題は、公平な採点という面からは到底不可能な試みと思われ、実際、導入は中止された。

 問題なのはもう1つの「実用文」の導入である。駐車場の契約書や高校の生徒会規約、またさまざまな表やグラフが1つの独立した大問として出題され、これが大学受験の「国語」の試験なのかと目を疑うようなものだった。

 この「実用文」の導入は、改革のもう一方の柱である高校の指導要領改訂にも大きな影響を及ぼしている。これまで高校1年の必修科目だった「国語総合」の時間が「言語文化」と「現代の国語」とに分割され、後者において前述の契約書やグラフのような「実用文」を学ぶことになる。高2、高3では現在多くの高校が選択する「現代文B」に代わって登場する「文学国語」と「論理国語」のうち、授業時間の制約上、実質的にどちらかしか選択できないようになる。

「論理国語」とは違和感を禁じ得ないことばだが、先述の入試改革のことを考えると、ここで「実用文」が重要な扱いを受けるだろう。そしてほとんどの高校が入試対策として「文学国語」ではなく「論理国語」を選択するだろうと予想された。「論理国語」の教科書には文学作品はもちろん、文学者の評論も入れてはならぬとの文科省からのお達しで、中島敦『山月記』や漱石『こころ』のような、日本人なら誰でも読んだことがある文学作品が、契約書やグラフの読み取りに取って代わられることになる。

日本子どもたちの実用文読解力

 文学などいらない、という意見もあるだろう。今必要なのはグローバル社会を生き抜くためのリテラシーでありコミュニケーション能力であると。そもそも今回の入試と指導要領の大改革は、いわゆるPISAショックと、人間がAIに負ける日が来るというAIショックとを発端とするものだ。

 PISAとはOECD参加国で行われる共通テストで、日本の子どもたちの実用文読解の記述式問題の正答率が著しく低かった。その対策としての入試と指導要領の改革という面がまずある。

 この露骨な対策を続ければ、たしかにPISAの点は上がるだろう。しかし、そもそもPISAで得点の高い国が、学校でそのための対策の授業をしているなど聞いたことがない。ヨーロッパ、たとえばフィンランドの学校では、文学どころか絵画をすら「読む」対象として授業で扱っている。

 いっぽう日本のこの度の改革は、文学を排し「実用的」な文章を一気に教育の中心に据えようとするものだ。これが問題だというのは、その裏に、文学は「実用的」でも「論理的」でもないとする誤解が潜んでいるからだ。フィンランドの国語の授業で美術作品の読解が行われるのは、絵画にも論理的な分析が可能であり、それが感性と結びつくことこそが生きていく上で役に立つという信念があるからにほかならない。

「読む」には文法以外の知識も必要である

 AIショックによって「読解力」の危機を煽る者たちも同じ誤謬を犯している。

 オックスフォード大が、10年後に今ある702の職種のうち半数がAIに取って代わられるとのレポートを出し、世界中を騒がせたことがあったが、それは2013年のことで、8年経ってもそれほど大きな変化は見られない。たとえば人間のバーテンダーはいなくなるとされたが、人はただ完璧に調合された酒を求めてバーに通うのではない。バーテンダーという人間そのものを味わいにいくのだ。そういう人間的な要素を抜きにした「実用」ばかりを煽っても意味はない。

 また、中学生の多くが、文学どころか他教科の教科書レベルの文章が読めていない、これではAIの読解力に負けてしまうという報告が日本の数学者によってなされ、世間の耳目を集めた。文学以前に平易な実用文が読めなければ、AIが急速に発展する将来に生きていけなくなる、と。

 たしかにそこで示された、文脈を排した短文を文法的に誤読した生徒は意想外に多かったが、「読む」ということには文法知識以外に、語彙や書かれていることの背景知識も関わってくる。実際の生活の場面で何かを読むときには、これらの要素をバラバラに切り離すことはできない。文法的な読解力だけを鍛えたいのであれば、たとえば英語の学習で能動態を受動態に書き換えるような作業を日本語でも積めば、かなりの効果を上げることができるだろう。

発する者の「意図」を汲めるのかが重要

「実用文」が読めることはもちろん重要だ。しかし、「実用文」の正確な情報処理を行うだけなら、それこそ人間はAIにいずれ負けるしかない。大量の文書資料から必要な情報を集めて即座に処理するという点では、もはやどれほど博覧強記の人間でもグーグルに及ぶべくもない。そして、そういう「実用文」の処理はむしろAIに任せればよい。

 先述の報告をした数学者は、今後もAIが人間に決して勝てない分野こそ「読解力」だと言っている。これは「情報処理」ではなく、自然言語、文学や評論などの文章の読解を意味している。そして、読解力をつける鍵は、多読より精読にあるのではないか、とも述べている。

 社会が人間同士の交わりである以上、そこでの言語はニュアンスや膨らみをもったものでありつづけるはずだが、AIにはそれがわからない。情報としての「意味」はわかっても、それを発する者の「意図」は汲めないのだ。これでは現実の生活の中でまったく「実用的」ではない。そして、後者の「読解力」の低下こそ、現在若者たちの間で起きていることだ。大学では、話のニュアンスを汲み取れない学生にどう対処するかの研修会が教員向けに開かれている。

今春実施された「第1回大学入学共通テスト

 意図やニュアンスの読解には多読より精読が必要であり、それは言うまでもなく「論理的」な作業である。それを担うのが「国語」という教科であり、その中心に文学教材があったはずだ。情報処理や簡単な通訳はAIに任せられる時代だからこそ、真の「読解力」が求められるようになる。それを無視した「国語」改革は一体どこに行き着くだろうか。

 幸い、2021年春に実施された第1回の大学入学共通テストでは、なんとあれだけ騒がれた「実用文」は一切出題されなかった。血眼になって新傾向の対策をした受験生にとってはお気の毒というしかないが、これは試行問題からの大規模な退却であり、無謀な改革への反省のあらわれととるなら望ましいものである。実際に今回の作題に携わった関係者の中からも、もともとこの改革に反対だったという声を多数聞いた。改革を一心に推し進めた首謀者とそのグループは、新傾向の市販の問題集を発売し、途中で辞任したというニュースもあった。あまりに人騒がせな改革の顚末だった。

 ただし、出題の枠組み自体が取り下げられたわけではなく、「実用文」がもう絶対出題されないと決まったわけではない。2022年の出題がどうなるのか非常に注目されるところだ。

東大入試では夏目漱石が出題

 また、高校の指導要領改革に関しても、枠組みこそ変更できないものの、実際の運用においてはかなりの撤退が見られそうだ。「論理国語」「文学国語」の教科書はまだできておらず、検定結果はわからないが、文科省は、授業において「論理国語」4単位を「減単」して、他の教材を入れてもよいとの妥協案を出した。結果として、多くの高校が「論理国語」を減単し、「文学国語」も扱う方向で検討中と聞く。喜ばしいことではあるが、それならそもそも「現代文B」を分割する必要はなかったのだ。

 大学入試と国語教育の行方がどうなるか、ますます注視していかねばならないが、そもそもそれ以前に、より根本的な問題として、「文学」や「論理」について考えておく必要があるのではないか。

 また、文学的文章が読めることは、大学生として求められる学力と無縁なのだろうか。ちなみに今春の東大の入試では夏目漱石の文章が出題された。真に役に立つ「国語」の力とはどういうものなのか、という問が今、問われている。

(伊藤 氏貴)

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