(武藤 正敏:元在韓国特命全権大使)

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 やはり、というべきか。懸念はあっけなく現実となった。

 7月27日、韓国と北朝鮮は「南北通信連絡線(以下、連絡線)回復」について合意したことを発表し、即日連絡線を復旧させた。これにより、昨年6月に北朝鮮一方的に南北間の連絡線を切断し、さらに開城の南北の共同連絡事務所を爆破して以来絶えていた南北間の通信が可能になった。

 そこのこと自体は評価できなくもないが、前回の寄稿<北朝鮮との連絡線回復の韓国、だが安直な恭順外交は許されない(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66294)>で示したように、これを契機に北朝鮮に圧力をかけられた韓国が、北に一方的にすり寄るような態度をとるのではないかとの危惧があった。

 嫌な予感は的中した。北朝鮮側には、米国軍と韓国軍が原則的に毎年開催している「米韓合同軍事演習」を中止させようとの魂胆があった。そして韓国は、北の意を汲むかのように、8月16日から開始予定の米韓合同演習の規模を、出来る限り縮小して実施する方向で調整しているのだという。

 大統領任期が来年5月までの文在寅大統領は、自らのレガシーとして、最後に南北関係で大きな成果を残したがっているとされる。だが、そのためだからといって、核やミサイル開発を進め各国に威嚇したり他国の国民を拉致したりする国の言いなりになるような態度は許されない。まして北朝鮮のやり方からして、演習の規模縮小で好意的な反応が得られるとはとても考えられない。何度同じ失敗を繰り返したら学ぶのであろうか。

 自らのレガシーづくりのために、北東アジアの安全保障体制を勝手に犠牲にすることなどあってはならない。

匿名の政府高官による「延期論」で観測気球

 文在寅政権の幹部は北朝鮮の言うなりになりたい人が多いようである。南北間の連絡線が復旧すれば、北朝鮮が忌み嫌う米韓合同軍事演習の中止を求めてくるだろうとの見通しで行動している。

 27日の連絡線復元を受け、わずか3日後の7月30日には、韓国統一部の高官による「個人的にだけでなく、当局者としても合同演習を延期するのが良いという考え」との発言が報じられ、韓国内で合同演習の「延期」が大きくクローズアップされることになった。これは軍事演習を直接担当する国防部の幹部ではなく、統一部の匿名の幹部から出たというところがミソだ。いわゆるマスコミを使った「観測気球」である。

「延期」でなく「中止」求めた金与正談話

 このコメントが報じられると、今度はこれを待っていたかのように、2日後の8月1日北朝鮮金与正(キム・ヨジョン朝鮮労働党副部長が談話を発表した。

「数日間、私は南朝鮮軍と米軍との合同軍事演習が予定通りに強行されうるという気に障ることを引き続き聞いている」

「われわれは、合同軍事演習の規模や形式について論じたことがない」

「現在のような重要な反転の時期に行われる軍事演習・・・私は確かに、信頼回復の歩みを再び踏み出すことを願う北南首脳の意志を甚だしく毀損(きそん)させ、北南関係の前途をいっそう曇らす好ましくない前奏曲になると思う」

「合同軍事演習の規模や形式について論じたことがない」というのは、言い換えれば「どんな形にせよ、実施すること自体が問題だ」ということだ。約13カ月ぶりに連絡線復元に合意した見返りに、韓国が米国を説得して合同演習を「中止すべきだ」と露骨に圧力を加えてきたわけだ。合同軍事演習を仮に「延期」したとしても、それがさらなる「南北対話」に進むという見通しは全くない。

一本の金与正氏談話で混乱する韓国政界

 このように金与正副部長が「韓米合同演習中止」を要求すると、韓国与党は対応策をめぐって二分された。

 まず「延期」を促す動きが出た。

 5日、「共に民主党」(以下、民主党)を中心とする与党系の国会議員74人が合同軍事演習の延期を促す共同声明を発表した。「韓米合同演習はその規模と関係なく、北朝鮮を対話と交渉の場に呼ぶうえで難関となることを認めざるを得ない」「韓米両国が合同演習を延期する方針を積極的に検討して決断することを提案する」などと述べている。なんとか「延期」ができれば、北朝鮮の態度を軟化させることができると考えたのかもしれない。

 そもそも韓国の政府与党の中には、「連絡線の回復は北朝鮮が対話と交渉の姿勢に転換したことを意味する」と期待する声が高かった。中には「南北首脳会談実現」まで漕ぎつけたいという主張もあった。

 ところが今回の金与正談話では、連絡線の回復が南北会談につながり得るという韓国側の希望的解釈を「断絶していたものを物理的に再び連結しただけで、それ以上の意味を付与してはならないというのが私の考え。不慣れな憶測と根拠のない解釈はかえって、失望だけを招きかねない」と一蹴している。

 南北首脳会談などというアメを北朝鮮文在寅政権に授けてくれる可能性は低い。むしろ、米国と韓国は、北朝鮮の非核化交渉を後押しするという名分で2018年下半期から米韓合同演習の規模を縮小してきているのに、核開発に関して北朝鮮の変化を引き出すことは全くできていない。そのことを思い起こせば、北朝鮮は一切の譲歩をすることなく、合同軍事演習の「中止」だけを要求することが予想される。

 こうした北朝鮮側の態度を見れば、今回の声明に名を連ねる韓国国会議員はこれまで北に振り回されてきたことへの反省が全くないと言えよう。むしろ北朝鮮の恫喝にいちいち反応することで、北朝鮮によるさらなる圧迫を招こうとしているとも言える。いったい、同じことをなんど繰り返せば気が付くのだろうか。

与党代表は「演習は不可避」と主張

 ただし与党の中にも、こうした北朝鮮追従姿勢に必ずしも賛同しない人々もいる。

 同じ5日、共に民主党代表の宋永吉(ソン・ヨンギル)氏はラジオインタビューで「韓米間で合意した演習は不可避だ。韓米同盟と韓米間の信頼に基づいて、南北関係を解決すべきだ」と語った。

 政界で盛り上がりを見せる「延期論」を牽制したわけだ。

 また、韓米連合軍司令部副司令官出身(予備役大将)の金炳周(キム・ビョンジュ)院内副代表も「合同演習の延期や中止を主張するにはとても遅いタイミング。五輪で考えれば予選試合が始まったも同然だ」「演習に参加する米軍がほとんど韓国に入国した状態で、真っ最中の演習が進められる中で政界が縮小したり中止したりするように求めるのは適切でない」と指摘した。

 極めてまっとうな意見と言っていいだろう。米国との間で従前から決まっていた合同演習を、金与正副部長の談話ひとつだけで慌てて中止したり縮小したりするのは、まともな国家の姿ではない。

「国家情報院は金与正の下命機関に転落した」

 ところが、文在寅大統領やその周辺は、その常識が通じなかった。

 文大統領は4日、徐旭(ソ・ウク)国防部長官に「さまざまなことを考慮して(米国側と)慎重に協議せよ」と指示していた。“延期を協議せよ”でもなく、“予定通りに進めるために慎重に協議せよ”ということなのか判然としない、あいまいな指示である。

 3日には、国家情報院の朴智元(パク・チウォン)院長が国会情報委員会全体会議で「対話とモメンタムを継続し北朝鮮非核化の大きなビジョンに向けては韓米合同演習に柔軟に対応することも検討する必要がある」と語ったことも明らかになっている。情報機関のトップが「合同演習延期」を主張し出したのだ。

 さすがにこれに対して、野党「国民の力」の河泰慶(ハ・テギョン)議員は「国家情報院は情報官庁であり政策官庁ではない。国家情報院は金与正副部長の下命機関に転落した」との批判が出た。

連絡線復活で北朝鮮に与えた付け入るスキ

 金与正副部長の一言は、韓国の政界、さらには与党内に深刻な亀裂を生じさせることになった。その“威力”は驚嘆に値する。そして韓国では、その後遺症が避けられまい。もちろん余波はそれだけにとどまらない。

 合同演習を予定通り実施すれば、北朝鮮は反発し、連絡線の回復を機に広まった対話ムードが逆転しかねない。

 逆に、合同演習を延期でもすれば文在寅政権は米国の信頼を失う。その上、延期したのに北朝鮮の姿勢に変化がない場合には、米国は米朝対話に慎重になるのは目に見えている。むしろ制裁と圧迫中心の対北政策の適用の名分ができる。文在寅政権にとってこれだけは避けたいという展開が予想される。

 結局、文在寅大統領は、功を焦って南北連絡線を復活させたことで、北朝鮮に付け入るスキを与えてしまったと言えるだろう。予想されたこととはいえ、米韓合同軍事演習の中止の要求を北朝鮮に突きつけられ、二進も三進も行かない状況に自らを追い込んでしまったのだ。

「延期」でも「中止」でもなく「規模縮小」

 金与正副部長の要求に、果たして韓国はどのように対処するのかが注目されていたが、どうやら韓国は、合同演習の「規模縮小」で北朝鮮の許しを乞う腹を固めたようだ。

 8月7日付の韓国の主要紙は、米韓合同軍事演習について、「青瓦台は予定通り実施するが、規模を縮小して行う方向で米軍と調整している」と報じた。

 この時期の合同演習は、例年ならば野外機動演習とコンピューターシミュレーションによる指揮所演習とが行われるが、今回はコロナ感染防止のため、指揮所演習だけの予定だった。要するに、もともと規模は大幅に縮小されて行われる予定になっていた。

 その指揮所演習でさえ、韓国側の参加者を減らすよう調整し出しているというのだ。「朝鮮日報」によれば、「韓国軍当局が6日、韓米合同演習への参加を準備している一部の陸海空軍および海兵隊の各級部隊要員に『来るな』という指示を下した」という。

 同紙の報道を少々引用しよう。

「今回の合同演習は、当初から例年より規模を縮小して『コンピューターシミュレーション』形式でのみ実施する予定だったが、それすらも『半分の半分』へとさらに削られ、有名無実化されるのだ」

韓国軍は、韓米事前演習の性格を持つ『危機管理参謀訓練』(CMST、今月10日-13日)まであと四日という時点で、突如『人員縮小』を強行した。米国本土から戦時増員演習(RSO)のため韓国入りする人員も最小限に制限したといわれている。訓練計画の樹立が完了し、韓米指揮官のセミナー、戦術討議が進んでいる状況で要員に「参加取り消し」を通知するという前例のない措置に対し、韓国軍内部からも『でたらめだ』という反応が起きている」(朝鮮日報8月7日付)

 韓国軍の中から「でたらめだ」の声が上がるのも無理はない。

 なにしろ韓国政界が「合同演習延期論」で論争している間に、米韓軍当局は3日午前から「(連合指揮所訓練)主要指揮官セミナー」開催しているのだ。

 テレビ会議で開かれたセミナーはポール・ラカメラ米韓連合軍司令官が主管し、各軍作戦司令官をはじめとする米韓連合軍の主要指揮官が参加した。元仁哲(ウォンインチョル)合同参謀議長もセミナーに参加した。

 指揮官セミナーと戦術討議などが行われたことで、事実上の合同演習準備に入った状態だ。合同演習に詳しい専門家は「この日以降、仮に政府が『訓練をしない』といえば、これは事実上訓練の中途放棄事態と見るべきだ」と指摘した。野戦部隊の司令官も「政界の演習延期の声は特に考慮しない」としている。

「中止」や「延期」ではないが、文在寅政権は「規模縮小」で米韓合同演習を有名無実化して、北朝鮮のご機嫌を取る選択をしてしまったのだ。

合同演習の「骨抜き」は米韓同盟に亀裂招く

 韓国のこの決断は、米韓同盟に亀裂を生む可能性がある。

 5月21日の米韓首脳会談後に出された共同声明では、「われわれは同盟の抑止体制強化を約束して、合同軍事準備態勢維持の重要性を共有する」と合意している。今回指揮所演習が内容の薄いものになれば、実働演習はさらに実施が難しくなる。それは米韓連合軍の運用能力を著しく阻害し、在韓米軍の韓国政府への不信を一層増幅させることになる。

 米国の北朝鮮への対処の基本方針は「同盟である韓国の意見を重視する」ということではあるが、同時に「対話用インセンティブはない」というものである。合同軍事演習について北朝鮮の言いなりになり、主導権を奪われることは米国として受け入れられないだろう。

 トランプ大統領北朝鮮政策は一貫したものがなかった。しかしバイデン政権になり、米国の北朝鮮政策は確固たる方針に基づいたものとなっている。

トランプが高めた「合同演習縮小」の期待

 トランプ大統領(当時)は、18年6月のシンガポール米朝首脳会談後に合同軍事演習を「挑発的な戦争の練習」として非難し、「合同演習を中断する」とぶち上げた。演習にかかる巨額の費用が気に入らなかったのだ。

 アメリカの国防総省さえ知らなかった爆弾発言に対し、青瓦台は当初こそ「発言の正確な意味と意図を把握する必要がある」と慎重な立場を示したが、すぐに文在寅大統領が「連合演習について検討することも可能」と応じた。もちろん北朝鮮の歓心を買うためだ。

 こうした流れの中で、2018年9月に平壌で開かれた南北首脳会談において、「相手を狙った大規模な軍事訓練などについて南北軍事共同委員会を稼働して協議する」という内容が盛り込まれた。明らかにそのきっかけを作ったのはトランプ発言だった。

 合同軍事演習は、2018年2月平昌オリンピックを理由に一度中断され、同年6月のシンガポール米朝首脳会談以降は非核化交渉を後押しするという名分で大規模な実働演習が中止されるなど、すでに規模が大幅に縮小された状態で今日に至っている。

 しかし、2019年2月ハノイでの米朝首脳会談が決裂に終わると、南北、米朝関係は冷え込んだ。合同演習は規模が縮小されたままだが、中止や延期はされなくなった。北朝鮮2019年6月30日、米朝首脳が板門店であった当時、トランプ氏が金正恩氏に合同演習を中止すると口頭で約束したと主張している。それなのに合同演習が再開されたとして「米国が公約を破った」と声高に批判している。

 しかし米国の方もトランプ政権からバイデン政権にかわり、米韓合同軍事演習の位置づけが変化した。「北朝鮮が非核化に誠意をもって臨むまでインセンティブはない」という対北朝鮮政策の原則を明確にしたことで、「中止」や「延期」などという選択肢はまずなくなったと言ってよい。

 そこで今回、韓国は「規模縮小」という換骨奪胎のような条件での実施でお茶を濁し、米国にも北朝鮮にも許してもらうという態度に出たのだ。

米国は北の圧力を歯牙にもかけず

 こうした文在寅政権の態度に対して、バイデン政権がどのような反応を示すのだろうか。

 少なくとも米国の朝鮮半島専門家の多くは、北朝鮮は「非難はしても南北、米朝関係に大きな影響を与えない」として合同軍事演習中止要請に取り合う必要はないと考えている。

 ランド研究所ブルースベネット上級研究員はラジオフリーアジアRFA)に対して「米韓合同演習に対する北朝鮮の非難は毎年あった。北朝鮮の対応に対して大きく気にする必要はない」と述べた。

 米韓経済研究所のマーク・トコラ副所長(元在韓国大使館公使)も「米韓合同演習は北朝鮮が数十年間反対してきたが、北朝鮮が外交に出るときには障害にならなかった」と主張した。

 米国は韓国との合同演習に対する北朝鮮の“圧迫”を歯牙にもかけていない。金与正副部長のたった一本の談話だけであたふたしているのは韓国政府だけだ。

 そして今、米国の信頼を裏切るような行動に出ようとしている。5月に行われたバイデン大統領との首脳会談を終え、「最高の歴訪、最高の会談だった」と自画自賛して見せたのは誰だったのか。韓国軍兵士のために55万人分のワクチン供給を約束してくれたのはバイデン大統領ではなかったのか。

 今回の文在寅政権の措置は、米国からも北朝鮮からも歓迎されない最悪の措置となるのではないか。

 そもそも、北朝鮮は合同軍事演習を中止してもそのご褒美は考えていないだろう。それなのに文在寅政権が規模を縮小しても北朝鮮は合同軍事演習を行ったと非難してくるであろう。

 他方、米国は米韓首脳会談から3カ月も経っていないのに、米韓間の安全保障戦略上、極めて重要な合同演習を一方的に骨抜きにし、両国の関係を棄損しようとしていることに対し、一層不信を強めることだろう。この程度の演習で実戦にどの程度役に立つのだろうか。中止や延期をしなかったとして評価することはあり得ない。文在寅大統領は、これで米国に「俺たちを信用せよ」と言うのであれば、それはあまりにも厚かましいと言わざるを得ないだろう。

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