高岡蒼甫さんがツイッターでフジテレビの韓流ドラマ重視を批判が、いつのまにかネット上でのフジテレビ批判になり、さらに批判の対象がフジテレビのスポンサー企業にまで飛び火している。きっかけとなる事柄があり(A)、それがネットで徹底批判され(B)、「不買運動」(C)にまで行き着いたわけだが、筆者にはこの「B」から「C」にいたる過程に、不気味な飛躍があるように思える。

高岡さんのフジテレビ批判が上記でいう「A」であり、その批判にネット上で同調する人が数多く現れ、フジテレビがネットで徹底的に批判される、すなわち上記でいう「B」となるようなことは、よくある話である。だが、フジテレビに対する徹底批判(B)が、同局のスポンサー企業である「花王」に転化し、花王製品の不買運動になっていく過程には、どうしても納得いかない不気味な点がある。何が不気味なのか。

第一に、多々ある同局のスポンサー企業から、花王が抽出される理由がよくわからない。提供している番組の数や保有する株の数などがその理由としてあげられたりしているが、フジテレビの姿勢に協力的だから気にくわないというのなら、花王以外のスポンサー企業も同等に叩かれてしかるべきであろう。

こうしてなぜか、多々あるスポンサー企業の中から花王が、「たまたま」フジテレビを代替する「記号」として選ばれてしまった。まるで、フジテレビという「教室」があり、そこで学ぶスポンサーという「いじめられっ子の集団」がおり、その集団のな中からたまたま花王という生徒がいじめの対象として選ばれてしまった、という構図にも読める。

第二は、「たまたま」選ばれた一企業の製品に対して、なぜ不買運動が起きるのかという点である。花王製品のアマゾンドットコムでのレビューを読めばわかるが、低い評価のレビューを書かれる製品は、あきらかに「たまたま」選ばれているし、実際には使用していないのにレビューを書いていると思われるものも多い。

製品を買っていない、または使っていないにもかかわらず、その製品に対する悪評を記すことを、一般的にはデマという。根拠のない悪評は、企業に対する営業妨害でもある。そもそも、「なぜ花王なのか」という点を深く考えもせず、「なんとなく」同調して花王を責めている人が多いようにも見うけられる。

上記で記した「たまたま」という言葉を、「偶然」という言葉に入れ替えてもいい。フジテレビ批判の「記号」として偶然選ばれた花王。花王のものなら何でもいいといわんばかりに、偶然選ばれた上で悪評される製品。ようは、叩けるものがあれば、くわしい理由などいらないから何でもいいから叩く。叩いて、すっきりして、それでおしまい。筆者には、花王製品の「不買運動」なるものが、そのように見えなくもない。

ネット上の情報を吟味することなく信用し、特定の人や企業、組織などを叩くことに同調する。生け贄に対して一点集中の暴力を振るうと、自分は安全地帯にいながら、なんとなく満足感や優越感を得られる。とはいえ、満足感や優越感が得られれば、その暴力は収束し、起きた騒動は忘れられる……。そのことに対して、違和感を持つことなく、花王を叩いていること。それが筆者には不気味なのである。

もう一点、付けくわえれば、ネットという公共圏の影響力がスポンサー企業の不買運動に結びついた、などと評価するのはどうかと思う。たとえば、花王の製品を使っている人のうち、どれだけの人がネットを利用しているというのであろう。多くの場合、ネットでの騒動は、テレビや新聞のネタとして伝播されてはじめて、広く人に知られることになるのではないか。

筆者は、フジテレビが韓流ドラマをやろうがやるまいが、どうでもいい。花王に肩入れするつもりもない。ただただ、不気味な「不買運動」を続ける人たちに、「なぜ花王を叩くのか」と「製品を買っても、使ってもいないのに、悪評を書くのはどうか」と問いただしたいだけなのである。

(谷川 茂)